minaQのつぶやき 네토미나

嫌韓(いやかん)ってホントはどうなの?

あっちで見つけた半島文明始祖論

根元が深くなければ木が強硬に立つことができなくて
骨組みがなかったり弱ければ正しく立つことができない!
 
ヘミン族の主体史観確立のために..
 
シナ国の首都は普通北京.西経.南京だと呼んで日本首都は東京だと呼ぶ、反面過ぎて日本の文明と歴史の根元で主役のヘミン族の故郷年頭の土はソウル.漢城(ハンソン)だと呼びます。 1万年を前後して年頭の土が文明と歴史の故郷であるためですね..年頭の土は古代から土地が肥沃で水がきれいな美しい山川エデンの丘です。 土地が肥沃ならば農作業がうまくいって飢えないで暮らせて文明が早く発達するものです。 そして人口密度が高いものです。 1個作るのに数百で数千名が必要だという支石墓(コインドル)らが数万個がそれを口する。 当時土地が肥沃で人が生きるのが一番良かった韓半島は世界最大で人口密度が高いのか駅だったのだ。
したがって民族史を研究される方々は骨組みを正して歴史を展開するべきで一部在野歴史マニアらのように何のジナ大陸やヨーロッパで私たちのヘミン族の出発点を捉えることになれば道理的にも話にならない説ではあるが根元を喪失した劣等意識と事大主義士官(史観)に自ら埋没するはずだ。 何故して頭の土で国が立ってはいけなくてジナ大陸で国が立つべきか? そうしてみてこそジナ政府の東北工程を助ける論理しかならないことだ。 ヨーロッパを支配したローマも私たちと地政学的に同じ半島であった。 しかし地中海とヨーロッパを支配した。私たちの年民族史で百済がローマのような国だ。 百済がアジア海上強国になることができた理由は3面が海の年頭の土馬韓海上勢力の船舶術と航海術が後押しになって可能なことであった。
[ファン犬肉]記録に見れば檀君3兆では中年頭の土を中心に日本列島を領域とする馬韓(マ組では)を'天日'と表現した。'天日'は文明が胎動した最初土地という意味だ。 西海(ソヘ)塩を天日塩という。 これは檀君朝鮮以前から私たちの先祖らがどこから出たところで自身の根観念を明確に持っていたという意味となる。 満州と年頭の土はオンドル.支石墓(コインドル).チョン銅剣が発掘される土地で古代から分離することはできないヘミン族の土地だ。 檀君朝鮮.付与.高句麗.大秦国が満州で起きたし、付与から出た百済が西海(ソヘ)を乗って降りてきて年頭の土熊津(ウンジン)で起きた。付与から出たパク・ヒョッコセが年頭の土慶州で仕路国をたてた。
ジナ国が自慢する秦始皇は“初めて皇帝になったといって”始皇帝といった。 続けてハンナラをたてた寒苦組乳房が新しい国を建てても安定にならなかった。 その間見守っていた匈奴韓信を攻撃して戦争が激しくなりながら、韓信が急に悪化すると寒苦組乳房に緊急支援要請をした。 乳房が大軍を率いてきて韓信を助けて匈奴を攻撃した。
匈奴の軍隊があまりにも強大で寒苦組乳房がかえって匈奴に包囲されると、‘太原’の下‘白登山’まで後退することになった。 命が傾角に達することになろう‘つつもたせを使って’やっと生き返ることになった。 その時からハンナラは約200年間毎年匈奴朝貢を捧げた。 もちろん公州(王女)らもいつも朝貢した。 この記録はハンナラの歴史家の司馬遷の詐欺(士気)匈奴前に出ている。
付与にもハンナラ(214年間)が滅びる時まで朝貢した。 記録によれば‘付与の葬儀風習にオクで作った鎧の’玉匣`を副葬品に入れた。 ハンナラの首都が“西安”であったため、通り(距離)がとても遠くて“ヒョンド君の北京側”にあらかじめ行って置いたと記録されている。 匈奴もまた、付与に朝貢したが匈奴王の愛馬の千里馬と匈奴王侯のアルシまで付与に捧げたと史記匈奴伝に記録されている。
少数が年頭の土に流入して見たら遺伝子的にチョクスブランシムニが作用して事大主義的で銃刀なしでは権力維持できなくて親族間でも婚姻した異質なDNAを持ったウリガナミが新羅-新羅の場合には4世紀末故局員王当時高句麗を侵略した全然(毛茸高尚な人族)軍隊が高句麗北部戦線で高句麗4万軍隊と戦って敗れて東海岸を乗って慶州(競走、傾注).金海(キムヘ)まで降りてきて仕路国を押し倒して新羅をたてて、金官伽耶の支配勢力になったのだ。 新羅は少数毛茸高尚な人族が移住してたてた国で法興王から某氏でキム・アルチ姓氏で創氏改名をして血族どうし婚姻して血族が権力を独占する骨品制で権力を維持して結局新羅語その限界性を克服できなくて考慮に滅びた国だ。
しかし今日まで精神整えられないでウリガナミがやから主義で権力と既得権を独占しようとする政治行為をしているとヘミン族統一と民主主義と福祉の障害要因になっている。 統合と統一と福祉を遮るウリガナミがやから政治構造悪は必ずダイコン君浮かび上がろうとしてもする政治改革の課題である。
新羅をたてた毛茸高尚な人族は本来付与の分岐で匈奴族に敗れて大赤ら顔令(領)山脈で隠れて過ごして2世紀に後漢菓連合して欠点(シュン)ノ族を草原で追い出して草原の主人になった狩猟族で檀君族の分岐と言えよう。 100年前ジナ大陸を支配した清国は新羅語考慮に国を返却した敬順王に反旗を翻した麻衣太子息子キム・ヘン勢力が満州に移住して女真族を糾合してたてたキム(金)国だ。
韓半島を脱離して果敢に満州地域で移住して湯気が立てをたてて後金を経てジナ大陸の主人になった麻衣太子息子キム・ヘンは今日私たちのヘミン族と井戸の中カエルらのように半島南端に閉じ込められて千年万年うごめいて生きようとするウリガナミが嶺南(ヨンナム)人が手本としなければならない進取的な民族気象(機上、起床、奇想)である。 韓国、北朝鮮が6.15民族合意履行で速く統一されてして朝鮮族が生きている私たちのコトー・マンジュ地域に出て行かなければならない。
 
 
[資料]北緯.全然.数.党.土蕃.新羅=鮮卑族の国々

イメージ 1高尚な人(紙より良くて:鮮卑ピンイン:Xianbei,紀元前1世紀- 6世紀)族は匈奴に敗れて大赤ら顔令(領)地域の高尚な人産(山)に起居して付けられた不足名だ。 鮮卑族は本来檀君朝鮮当時には高熱では領域の夭逝地域に居住して上万歳暦とハンナラの高熱では占有で北にイジュハヨギウォンジョン時期には大興(テフン)中(案)令(領)山脈麓で牧畜、狩猟を生業でして匈奴に服属した。 その後匈奴が北と南で分裂するとすぐに前ハンにも結びつく不足が出てきて半独立状態になった。 1世紀になるとすぐに北匈奴後漢菓の抗争を継続する間に力を集めて北匈奴モンゴル高原から西の方に追い出した。 この時西進した匈奴残存勢力がすぐにゲルマン族をローマ地域で押して出してヨーロッパを恐怖で追い立ててローマ帝国の滅亡を持ってきた後は(欠点.ホン.ファン.ある)族だ。 フン族アッティラを中心にヨーロッパ草原を支配する帝国を建設した。
2世紀半径壇石槐が登場して鮮卑族の統合に成功して強大になった。 しかし旦夕塊の事後またタン氏、卓抜種、毛茸種等で分裂した。 そして自分たちの先祖らが居住した河北省(Hebe異性(理性))で糾合された混血遊牧民族だ。 魏晋南北朝時代には南下してジナ大陸に卓抜種の北緯、毛茸種の全然.毛茸種の土蕃などの国を建てた。 北緯は後で高句麗を攻撃して滅びた隋と高句麗を滅亡させた唐につながった。 新羅が唐と軍事同盟を結ばなければならない血統的背景も高句麗.百済の支配勢力が付与勢力ならば新羅の支配勢力がすぐに4世紀高句麗との戦争過程で東海岸を乗って下りてきて仕路国を押し倒して新羅金官伽耶をたてた(毛茸)鮮卑族であるためであろう。
鮮卑族はジナ文献に檀君朝鮮(東胡=付与)族の北側一派で記録されている。 言語学的には韓国語の分岐のモンゴロゲトンが強いがユーラシア草原勢力と融合して見たらトゥルク語系も混ざり合っている。 鮮卑族のフンソンは1世紀匈奴族の没落と時を共にする。 87年と93年に鮮卑族匈奴族の二つの善友を処断した。
匈奴族は突厥(トゥルク=トルコ)が指揮する遊牧民族匈奴遺骨を調べてみるとトゥルクとモンゴロイド遺骨が共に出てきた。 これは草原地域は移動と移住が自由路と人種的交流が多いためだ。 匈奴族がハンナラと戦争する過程で漢族らを人質に連れていったり、戦争で敗北した長寿が匈奴族諸侯で塞がれたりもして、匈奴族には漢族も混ざっていた。
厚い時代、ハンナラはナム匈奴と連合して北欠点夕焼け西アジアに押し出す。 この時点で事実上匈奴は空中分解されて、ナム匈奴はハンナラに共助クァンゲウル持つようになる。 ハンナラが滅亡して三国志時代が始まって、この時から遊牧民族が南下して漢族と統合される過程があった。 匈奴のチベウル受けたカルチョク、靺鞨族も河北省、山東(サントン)省などで南下した。 例でウィ・ナラ クァングゴムの部下部隊は靺鞨族、カルチョクで形成されていたし、そのプデウル導いてコグリョウル数トウル陥落させた。 カルチョクが自分の国に住んで諸葛種になったという説もある。
鮮卑族三国志時代以後でジナ大陸と満州の飛び石地域の河北省で漢族と遊牧勢力が結合した民族をいう。 漢族は遊民勢力で改良されたし、遊牧勢力は漢族で改良された。 このような過程は三国時代、5号16国、北緯、同位、叙位、北制、北週、隋まで続いた。 鮮卑族は英語で打てばヒブリドゥ(Hybrid雑種、混血児)という単語で定義されて河北省、動揺西部に住んだ民族だ。 したがって鮮卑族匈奴突厥、靺鞨とは生まれの基盤が少し違って、同じ鮮卑族といっても不足により差があった。 鮮卑族出身の唐太宗が皇帝の子孫だと主張したのもこのような要素がある。
後ハンが滅びて西晋の皇族中に8王の難易起きるとすぐに鮮卑族は傭兵として徐々にジナ大陸内部に移住することになった。 5号16国時代に入るとすぐに匈奴劉淵が西進から独立して前趙をたてるとすぐに鮮卑族もこれについてジナ国に国を建てた。 この頃の高尚な人は六不足が各々強くなった。 各不足は国を建てることになった。
拓跋部(代、北魏)慕容部(前燕後燕西燕南燕)段部宇文部(北周)乞伏部(西秦)トクパルブ(禿?部) (南?)
6個の不足鮮卑族アイデンティティが強い不足は卓抜部、毛茸部で、端部、愚問部は憂患族に近い。 フルドクプ、トクパルブウン本来鮮卑族から出たといって、ナムニャンが滅びて北緯に帰属した。
この他に毛茸部から出てきてソ天旱吐谷渾も高尚な人界なのに現地の羌人も融合した。
したがって匈奴.突厥(トルコ).高尚な人.契丹.モンゴル.契丹など北方ヘミン族の草原勢力はその支配勢力が定めた不足名や国号によって国が変わっただけ全部同じヘミン族だ。 これら草原勢力も檀君朝鮮の光栄を回復するためにジナ大陸とユーラシア草原を支配したのだ。 これらの先祖は檀君3兆では中にチウチョヌァンの子孫チドゥナムが1代檀君に任命されたバン朝鮮に属したヘミン族で草原地域で遊牧生活をした。
しかし檀君朝鮮の皇統は付与.高句麗.大秦国.考慮.朝鮮.大韓民国につながっている。 ヘミン族のお母さんの土のマ朝鮮に属した年頭の土は檀君朝鮮連邦が崩壊になってハンナラと衛満朝鮮勢力がバン朝鮮地域を強奪する時騎馬勢力のジン.バン朝鮮遊民らが大挙移住して北方界が占める土地になったし、北方朝鮮遊民らに押し出されたマ朝鮮人らは日本列島で大挙移住して今日の日本国家の基盤になったということができる。 韓国、北朝鮮が統一されて満州とユーラシア-アメリカのヘミン族が交流して協力して大統合をしなければならない理由がここにある。
 


ノーベル世界史学症ですね 塗って治る薬の開発が急がれます。