minaQのつぶやき 네토미나

嫌韓(いやかん)ってホントはどうなの?

韓国の弁当検査事情について④

 
 
 
ご隠居さんのところで"弁当検査"ってあったのですね  (よくみるみな)
そうするとやっぱりお弁当ネタになるじゃないですか  ほらっ
 
 
 
 
お弁当のチェック
 
イメージ 7維新時代、学校に行けば、担任の先生が昼食時間に弁当点検ということだった。 当時小学校に通った人はお弁当検査をめぐる先生と生徒の間の葛藤と緊張を容易に思い浮かべることができるだろう。
 
 
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▲弁当という言葉がそのままベントウとして普及していた時代からオカシイとも思わなかった謎の写真がこれである、見るからにそろって"左利き"なのだ さらに注目されるのはカップめんを食べている子供がいることだ、1980年代初頭と推定
※職員室にお湯を貰いに来るなというれんらくがあったのもこの頃、いまでもラーメンを持参するツワモノが多い 給食ではないので牛乳などは登場していない
 
 
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▲"皆でウドンを食べましょう(1969年)"、アメリカからの強制割り当て(有償)で大量の小麦粉が韓国にやってきた、農業政策の度重なる失策で"アジアの最貧国"だった韓国でもアルコールの醸造が再開されたのもこの頃だ。
 

 
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最近のように学校給食が行われ、そこに無償給食もあったら、おそらくこのようなことはなかったでしょうが、当時はそのような状況ではなかった。 私が小学校に通った維新時代は "弁当"という日本の言葉で、主に呼ばれた四角い量はお弁当にご飯とおかずをサガジゴ通った。 冬には暖炉の上に置い暖かくダルグォソ食べる面白味もかなりした。
訳:弁当をストーブの上で温めすぎて焼きビビンバになったということ
 
 
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当時のランチ検査をしている場合が選んだ栄養摂取をよくしているかを確認するためのお弁当検査だったのか?
もちろんそんな検査ではなかった。 当時、私たちは維新政権の混食奨励政​​策に沿って、必ず30%以上の麦が混ざったお弁当を持って登校しなければならなかった。 先生たちのお弁当検査はまさにこのような方針がよく行われていることを確認して指導するために、政府当局から示​​達された措置だった。
ちなみに玉子焼きを持っていくと強制配分されるのが当たり前で、肉一枚を持っていくと教室にあるハサミで切り分けたというのが事実、焼肉屋さんでやってるでしょ。
 
 
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▲半焼き卵がポイント、このようにギッシリと詰めるのが当時の韓流だった、卵焼きが目玉式なのは手軽だからではなく、分配がむずかしいため切り分けが困難だからだ。しかし混ぜ弁がはじまるとすべてをいっしょにして再分配することになる。
当然のように"フリフリ弁当"などはまだ存在していないのがよくわかる比較写真、この時代にビビンバという食べ物は存在しなかったと見るのが正しいようだ、なにしろ"外食"という贅沢を禁止した時代だったのだから。
 
 
 
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▲1976年に撮影された弁当風景、この段階でもビビンバという食べ方は存在していなかったのがわかる 箸をつかう子供の姿はみえない。今どきの韓国人の大人は握り箸が普通だ。丸型弁当容器はその後歴史の中に消えていく運命にあった
 
 
韓国に住んでいたら誰もがまじぇまじぇ文化へと昇華する
 
イメージ 8当時の政府の混食ポリシーはキャンペーンレベルを超えて強制の性格を強く帯びていたので、先生と生徒の間には自然に緊張と葛藤が造成されるしかなかった。
 
私は小学校5年生の頃である76年度の記憶がまだ生々しい。 先生の検査が徐々に強化されていくうちに、子供はご飯に麦を上にのせて持ってくる場合が増えている。 上から見ると、まったく混ぜ麦飯に見えるようになる。 これを感づいた先生は、これまでからかお弁当をひっくり返して見せ、これを認めないと宣言した。
 
このように最初は米食から雑穀類混合食(麦飯)という判りやすい政府機関からのお知らせだったろうし、どの国でもわかるような戦後という時代に教育をする側となった教育者らがエスカレートしていくのも次に出てくるのは差別の解消でしかないのが想像のつくところだ。
 
 
ふたを開け麦の割合を調べ受けなければなら弁当たち
 
怒った子供は先生お弁当はどんなか見ようとする。 それにしても意味がない。 先生が一、二回同じクラスの子供とご飯を食べますが、その時は万全の準備ができている状況なので、先生がいつも混食政策に呼応しているのかは確認されません。 あまりにも指摘を受けるので腹が立った子供たちの中には粒の数をプロセッサ弁当を準備してきた後、また指摘が出たら一度三みようと主張している場合もあった。
 
 
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▲家族揃ってたのしい家庭での食事は床食と決まっている。これも強制されるものではなく床食を共有する文化として韓国では広く日常的に行われている。
 
 
お弁当検査は、これらの緊張と葛藤のみを内包していることがなかった。 最近は子供の間でアパート広さを尋ねる方法での貧富の格差を確認するが、当時はお弁当中身のレベルを見て子供の生活水準を確認することができた。
 
そうしたら母は私たちの子供ひるまないように、その忙しい農作業中にもお弁当に気を遣うものだが、それがあまり簡単ではなかった。 子供の一つ一つは、お弁当検査というプロセスを介して、先生にだけでなく、子供たちにも自分の生活水準を開示しなければしたので子供がこの過程でどのように多くの傷を受けただろうか想像することはそれほど難しいことではないだろう。
 
 
完成する韓国型平衡システム、混ぜてしまえばみな平等
 
イメージ 9発展をとげる韓国でも1980年代近くになって生活水準の格差が目立ってきた、これは持つ物も持たざるものというククリでわけることが出来る、そこで少々乱暴な話ではあるが"学校弁当型ビビンバ(大なべ)"が突発的に発生することとなった。
さいしょの流行はソウルに近い京畿道の中学校だったと伝承されている ※ビビンバ発祥の碑
 
 
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▲1978年集団ビビンバの頃(当時のソウル市長らしいです)
 
 
 
 
 
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▲数名分の弁当を強制的に混ぜるという格差解消策が検討された"班食(バンチョク)"と呼ばれる風習では大型の金属製容器に弁当をあけてそれを混ぜることからはじまる。
 
 
維新時代は全く疲れた時代であった。 先生は先生に業務過重に苦しんでいたはずだお弁当検査までしなければならない状況だったから、どれだけ疲れただろうか。
学生は学生に昼食を食べる日までこれを毎日検査を受け食べたので、どのようにストレスたまる仕事だっただろうか。 子供たちに維新時代はいわばランチも気楽に食べることができない、そんな時代だった。
 
当時のマスコミの報道を見れば、以前まで混ぜ粉食を奨励していた政策が74年に達する混食奨励政​​策に変わる。(もちろん、ここで奨励という言葉は、強制と同義である。)ほぼ輸入に頼っていた小麦の価格が上がってそうだったようだ。
 
 
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▲隙間をあけて盛り付けられた"韓国型フリ弁" これを食べるというには半万年の伝統をもってしても無理だったに違いない。
 
 
迷走する韓国の食事事情
 
これがまた77年秋になると稲作が豊作とし、米マッコリまで許可するなど、米の消費促進政策に転換する。 しかしそれもつかの間、78年度に達すると、米の消費促進と混食奨励が共存する混乱をもたらしたりする。
稲作豊作と言われた77年に麦は逆に目標量を達成していないのに200万トンもの輸入しても足りないのが実情だったが、78年度には、麦の生産が大幅に増えるものと予想されるとしばらく入っておいた混食奨励策を再び持って出てきて発生した混乱だった。 おそらくこの時先生たちが最もストレスを受けただろうか。 "あ、やるべきことも多く死にそうなのに、またお弁当検査すべきか?!"
 
(翻訳:みそっち)
 
 
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▲いったい何時の1970年代なのか、イモが6割+コメにムギ、それでもおいしそうな黄色いのはのりたまではない、小鳥のえさで見ることのある粟・ヒエなど
小骨の豊富なヘラブナの甘露煮がヘルシーなよそおいで魅力たっぷりだ。
 
 
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▲ソウルの街はこのあいだまで夜間外出禁止の戒厳令だったようです、午後9時の消灯時間がなくなるには2000年まで待たなくてはならなかった。
 
 

戦後の復興で義務教育がはじまる 中学校までが義務教育化されたのは1990年代
  ⇓
生徒数が多く2部授業 のちに学校も整備されると弁当持参となる
  ⇓
弁当にもコメ不足から米軍供与の麦30%が制定される  
  ⇓(このころストーブで弁当をあたためるのちの石焼風ビビンバのはじまり)
弁当の格差から弁当検査が始まる  
  ⇓              
不正弁当摘発のために弁当返しはじまる 肉やたまごの切り分けまで行われる
  ⇓                (ハサミで切る韓国式調理のはじまり)

班ごとの弁当をひとつに混ぜて食べる班食がはじまる ヤンブンビビンバ
  ⇓
1990年代に入り学校給食が一般化する