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嫌韓(いやかん)ってホントはどうなの?

ベトナム戦争末期に韓国艦船がお迎えに行った?

 
 
 
 
ベトナム戦争って言えば、そうそうベトナムが戦場になったアノ戦争ですよね、記憶によればアメリカが応援した南ベトナム側が負けて、残されたアメリカ人やらベトナム人サイゴンから逃げ出したりして大変だったアレのことだということで問題ないと思います
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 1ベトナムミーナ] 1975年4月30日ベトナム自由民主主義政権は、ホーチミン率いる共産主義勢力に敗北した。 これに先立ち、73年3月23日ベトナムに駐留していた駐越司令部がベトナムから撤退した。 当時の軍人と民間人のほとんどが撤退したが、抜け出せなかった大使館職員と同胞数百人がサイゴン一帯に残っていた。 これらの中には、ベトナムに5年間抑留されたが、後に帰国したイ・デヨン公使もあった。
当時、朴正煕大統領は、 "サイゴンから脱出できなかった大使館職員と同胞を極秘裏に安全に帰還させろ"と海軍に命じた。 いわゆる同胞救出作戦である"サザンクロス作戦"である。
LST(戦車揚陸艦2隻(開峰艦・北漢艦)で構成されたサザンクロス作戦の輸送船は、国防部訓令と海軍の作戦指示を受けて75年4月6日、釜山を離れダナンに向かった。 輸送船がダナンに向かう途中、ダナンが陥落され、サイゴンに進路を変更した。 4月22日サイゴン北ニューポート港に接岸した輸送船は、4月26日ベトコン海軍の艦砲射撃を正面から突破し、海外同胞とベトナム難民1326人を無事輸送して5月13日、釜山港に入港した。

この手記は、当時の救出作戦に参加した2つの艦艇の中でLST-675(開峰艦)のキャプテンだったバク・インソク予備役大佐(海士14期)が、当時のメモや記憶をもとに作成したもので作戦遂行を38年ぶりに世界に公開したものである。
 
バク・インソク大佐は"南十字星作戦は駐越司令部が撤退した後、行った唯一の作戦であり、最大の民間人救出作戦だったのに、私たちは軍から認定を受けていない"と述べた。 朴大佐は、現在の"南十字星救出作戦同志会"(jworldbank@hanmail.netチャン·ソンス)を組織し、越南戦の教訓と作戦を遂行した隊員たちの成果を社会に発表している。
 
"月刊朝鮮"は、朴大佐の手記を2度にわたり連載する。 "月刊朝鮮"の読者と南十字星作戦、ベトナム戦に参戦した多くの方々の関心と情報提供を望む。
 
 
えっとね、いちおう作戦名は"サザンクロス作戦"(南十字星)ってゆうことでいいと思います
 
"南十字星作戦は駐越司令部が撤退した後行った唯一の作戦であり、最大の民間人救出作戦だったのに、私たちは軍から認定を受けていない">>>
当時のメモや記憶をもとに作成したもので作戦遂行を38年ぶりに世界に公開>>>
 
なるほどね 退役した海軍さんが思い出話をつくったという内容のようですよ。これに似た与太話では "韓国最初の戦艦、白頭山艦、開戦初日に大戦果!"ってゆうのとそっくりでしょ
 
さてさて米軍と韓国軍は"パリ平和協定"のあと撤兵しちゃうんですがそのへんはニホン版のWikiセンセから転載しましょう。
 
アメリカ軍の全面撤退
パリ協定の調印により、北ベトナムアメリカの間に、「アメリカ軍正規軍の全面撤退と外部援助の禁止」、「北ベトナム軍に捕えられていたアメリカ軍捕虜の解放」、「北緯17度線は南北間の国境ではなく統一総選挙までの停戦ラインであること」の確認などについて合意が成立し、1973年1月29日にニクソン大統領は「ベトナム戦争終戦」を宣言した。
その後、パリ協定に基づき、協定締結時点で南ベトナムに残っていた24,000人のアメリカ軍は撤退を開始し、併せてハノイの有名な戦争捕虜収容所「ハノイ・ヒルトン(正式名称:ホアロー捕虜収容所)」などの北ベトナムの捕虜収容所からのアメリカ軍人捕虜の解放が次々に行われた。
ベトナム戦争の最盛期だった1968年にはアメリカ軍は南ベトナムに540,000人が派遣されていたが、1969年以後は撤退計画に基づいて派遣軍の撤退と削減が続けられ、1973年1月のパリ協定の締結時にはベトナムへの派遣軍は24,000人まで削減されていたので、「終戦宣言」から2か月後の3月29日には撤退が完了した。しかし、ケネディ政権時代から南ベトナムに派遣されていたアメリカ軍の「軍事顧問団」は規模を縮小し南ベトナムに残留していた上、航空機や戦車、重火器などの軍事物資の供給も行われていた(なお、この様な状況は北ベトナムソビエトの間でも同様であった)。
 
 
こんなところですから米軍が撤収したあとまで韓国軍が居残っていたなんていうのは全然なくて、"同胞とベトナム難民"の救出だったという尾ひれまでついていますよ。
 
この撤収作戦は1975年4月のお話のようですが米軍韓国軍の撤収は1973年ですからね。
 
さて韓国版Wikiセンセによれば
大韓民国ベトナム派兵部隊の累計は32万人に達した。 ベトナム派兵兵士の義務期間は1年であり、派兵が最高潮に達した1968年当時のベトナムに駐留した韓国軍の数は5万人だった。 パリ平和協定に米軍が撤退し、大韓民国も撤兵した
 
するとやっぱり民間同胞ってことになるんですね 兵隊さんじゃない海外向けの輸出といえばイアンフおばさんってことでイイのかな?  ※輸出産業すら無かった当時の韓国人がベトナムまで出稼ぎに行ったとすれば当然それ以外には無いですからね。 (ちなみに韓国版Wikiには、同胞撤収作戦のことはひとことも書かれていない)
 
 
1973年3月23日ベトナムホーチミン胡志明)は、パリ協定を締結し、ベトナム半島からすべての外国軍を追放し、同フォーム兵法計略にベトナム共和国を全滅させて、2年後の1975年4月30日ベトナムが赤化した。
当時、韓半島金日成が北京を訪問して、第2の朝鮮戦争を図っていた時と情勢が極めて不安定だった。 ここに私たち国民は、安保デモを行って指を切りながら、金日成を糾弾した。
パリ協定の締結があった73年3月23日、駐越司令部撤退にすべての軍事活動は停止され、インドシナ半島で私たち同胞の大使館公館職員を安全に救出なければならない切迫した状況が展開されていた。
当時、私は韓国の艦隊第2リーフレット揚陸艦)(LST 810)キャプテンとして済州島咸徳海岸の岩礁爆破サポートのためのUDT要員と一緒に済州に駐留中にあった。 75年4月3日接岸作戦中なのに、午後に優先順位超緊急電文が到着した。
"貴艦は、本電受領後全速で鎮海軍港に入港、艦隊作戦状況室に集結、海軍参謀総長の指示を受けなさい。"
 
※艦隊作戦状況室が設置されたのは1992年のこと

私はすぐに済州を出航して鎮海母港へ全速で航行し、4月4日08時艦隊司令部に出席した。 国防部訓令と海軍の作戦指示を受け、極秘胞民救出作戦任務が与えられたのである。 この任務はまさに"シプジャソン作戦"である。 この作戦は、超緊急、完璧な極秘事項で進めなければした。
4月5日は鎮海桜まつりだったりする。 全国民が浮かれている時だった。 当時、私も久しぶりに小学生の歳の子供を連れて桜の咲く頃には戻ると約束をしておいたからであった。 しかし、4月6日我々は鎮海港第1埠頭を出航し、釜山第3埠頭に残していた。
 
십자성 작전・・・南十字星作戦)
 
このあと釜山から太平洋に出て"鳥島(ニホン領)"まで寄り道したり、メコン川を遡上したり、ベトナム海軍の戦艦が艦砲射撃してきたり、ベトナム空軍のミグ戦闘機に機銃掃射されたり、お約束の片舷機関停止とか、ベトナム難民が乗ってる"別の揚陸艦"の写真が出てきたりして盛りだくさんなんです  でもね
ここから先は長くなりそうなのでまたいつか別の機会に載せたいと思います、
待ちきれないアナタは翻訳したりしてごらんになってくださいね♪
 
ベトナム败亡直前LST二隻に同胞·難民1326人救出
 
ベトナム放送、 "領海に残留するとすぐに航空機の攻撃を受けるだろう"
 
 
イメージ 2
 
戦車揚陸艦:米軍が1943年ころから量産したもの、写真は朝鮮戦争後に韓国海軍へ供与された同形艦、 こんな船2隻に1300人も乗せたら
 
LST-1級戦車揚陸艦(LST-1きゅうせんしゃようりくかん)は、アメリカ合衆国第二次世界大戦中に建造された戦車揚陸艦 (LST: Landing Ship, Tank)。ビーチングにより車両を揚陸する揚陸艦であり、1,052隻が建造された。アメリカ海軍イギリス海軍連合国各国で運用され、大戦後は友好国各国にも供与された。
 
排水量 基準:1,625t
満載:4,050t
全長 100m
全幅 15.3m
吃水 4.4m
機関 ディーゼルエンジン(900PS) 2基
推進器 2軸
速力 最大11ノット   11ノットって時速20km/hくらい ><;
 
 
おまけ
 
イメージ 3
 
810号艦ってゆうのは"韓国海軍主要艦艇総覧"によれば1974年に改名された船でした。