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大韓帝国最初の軍艦"揚武号"をもっと知る

 
 
大韓帝国最初の軍艦"揚武号"
 
 
大韓帝国高宗皇帝が発注し、日本の三井物産合名会社が納品した "新鋭鋼鉄製軍艦"が仁川港に姿を現す、高宗皇帝は、この船に "扬武号"という名前を付けた。

船の歴史やら
1894.4(明27)三井物産(長崎)に売却、勝立丸 KACHIDATE MARU と改名
1903.8.31(明36)大韓帝国に売却、揚武号 YANG MOO と改名(軍艦)
1909.7(明42)原田商行(大阪)に売却、勝立丸 KACHIDATE MARU と改名
1912(明45)八馬兼介(西宮)の所有。同年、八馬永蔵(西宮)に売却
1916.9.13(大5)上海を出航後、済州島沖で沈没

 
イメージ 2[ミリタリーミーナ] 1903年4月15日、 仁川市民が立ち並ぶ中で壮大なパレードと一緒に大韓帝国の近代的海軍の建設を宣言される感動のパノラマが広がる手順だったが、残念ながらそうではなかった。
高宗即位40周年記念式典の最大のメダマだったにもかかわらず大韓帝国はこの船の報酬を支払うことができず、日本が引渡しを拒否したのである。
揚武号は仕方なく仁川港に錨を下したが、それからようやく四ヶ月ぶりに大韓帝国に引き渡された。 まさに落日の大韓帝国皇帝は涙をうかべて号泣したという。
これは日露戦争開戦の1年半前である。
 
※当時55万円(ニホン円)で契約されたが、その後20万円と月々5000円の支払いという契約条件が整い大韓帝国に引き渡された。55万円これは当時の大韓帝国の国防費の1/3にも相当したらしい
 
 
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▲残された資料によると、全長105m全幅12.5mの高さ8.3m乗組員72人、武装8cm砲4門、5cm砲2門、最大速力13.5ノット平均10.5ノットで、喫水は満載時7.3m空船時4.2m 総トン数4,087トン エンジンは蒸気1,750馬力です。
 
 
そもそもこの船は軍艦ではなかった。 Pallas号という名の英国の商船であったものを日本が買収し、石炭運搬船に使っていた船だった。
日本はこの船を25万ウォンで買ったのだが少々問題児だったらしい、つまり性能は劣悪であり、石炭の消費だけは多かったとなっている。
 
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折りしも軍隊の近代化が遅々として進まなかった大韓帝国の高宗はのどから手が出るほど欲しかったこの近代型軍艦(商船)に目をつけた、そこで三井物産合名会社があいだに入り55万円という当時としては破格の金額にもめげずに購入を申し出たのだ。
老朽化した商船であったが、石炭運搬船であったものに突然大砲を搭載して軍艦のように見えるように改造がほどこされた後、 "ヤンムホ"という素敵な名前で韓国に来たのは、大まかにそのような事情であった。

(実際の費用は61万7千円に達する。 貨物船を軍艦に改造して船体の修理費(20万ウォン)、武装設置費(4万円·正確には日清戦争の時の日本旧式艦から大砲を移設装着するのにかかった費用)、火薬庫新設備(1万円)などが追加されただけでなく、最終的な引渡しまでの延滞利息と保管料が付け加えた。 
 
何とか韓国側への引き渡しはなった、近代式蒸気船に接し愼顺晟(日本商船学校見習い)という方が艦長を務めることになった。 しかしヤンムホは、高価な石炭を買うことも出来ず仁川港にいることが多かった。
しっかりとした航海を一度もせず、見て、再び日本に徴用される。
 
韓国初のキャプテン-愼顺晟
 
 
イメージ 4愼顺晟(1878~1944)  1903年高宗皇帝は、韓国最初の近代式軍艦、"揚武号"の初代艦長に愼顺晟を任命した。  1903年8月19日皇城新聞三面記事に次のような記事を確認している。
"ヤンムホ艦長は、日本への留学生見習い愼顺晟さんを、任命するよ"
 1878年生まれの愼顺晟はハンソン日本語学校に入学し、ここで開化派の巨頭朴泳孝に会って人生の転機を迎える。  朴泳孝の推薦で日本に留学、1897年に日本の東京商船学校に入学、4年間の近代式海洋教育を受けた。
 1917年仁川に定着した愼顺晟は仁川の海員養成所ができると実習教官として後輩の育成に情熱を注ぎ込んだ。  海軍艦長の夢をあきらめなければならなかった愼顺晟は、1944年2月鏡胴自宅で亡くなった。
 
1904年日露戦争が起きたのだ。"ヤンム号"はすぐに日本軍に徴用なって、日本の戦争に活用された。こうして老朽化してしまった後、今度は軍艦としてではなく、船員の実習用に使われた。
 
1907年(光武11年)7月24日に結ばれた第三次日韓協約に伴う秘密協定により、同年8月1日に国軍としての大韓帝国軍は解散され、大韓帝国最初の近代型軍艦は海員養成のため釜山港に移り"韓国人船員"の育成のために使われることになった。 
 
※ニホンの咸臨丸が太平洋横断をしたのはその47年も前の1860年、軍艦操練所ができたのはもっと昔の1855年のこと
 
 
しかし釜山での海員養成所でも持て余した揚武号はその後1909年初めには日本の原田商会に売られた。 価格は4万円
 
※原田汽船は1933年11月に大阪商船三井船舶株式会社に合併されたとか
 
 
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大韓光武十一年七月九日火曜 皇城新聞 陰暦丁未五月二十九日己未
 
揚武号海員養成所修技生募集
今回 韓國子弟をようやく海技養成に必要な簡易な学科と實務を授ける目的として釜山港碇係揚武号艦内に海員養成所を設置する 航海機関両科貸費修技生各十五名を募集する
志願者は左項條例を銘心して七月二十日限内に釜山税関港務部まで請願の事、
一、韓國人年齢十八歳以上二十五歳以下男子
二、視力の完全者
三、身体強健であり発育完全者
四、普通讀書の力有者
五、修技期間は勿論のこと期間満了后にも可な不関家事に専心でき学科研修と斯業に従事できる者
六、身上に関する事は東学府尹或相当の官衛を証認を得る者  但期日までに証認書の難得者は所決定後此の提出するを得ず
七、以上各項の對を本所主管 者
尚本養成所及入所で関の詳細事は各地税関及京城総税務司庁に就いて知悉する事
光武十一年七月六日 
釜山港揚武号海員養成所
 
(翻訳:みそっち)
 
 
 
 

 
 
 
 
"揚武号"の歴史
 
1888年ごろイギリスの商船として完成する  (明治22年
 
・1894年 ニホンに売られる
 
1903年 高宗が欲しがるので55万円で売られる (当時の国防予算の30%くらい)
      しかし財政難から半額になりしかも分割払いとなる
・1905年 日露戦争でニホンが徴用する
      たいした活躍もないまま仁川に留め置かれる
・1907年 用済みとなり海員養成所の練習艦になる (石炭が買えず釜山に放置)
 
・1909年 再びニホンに売られる
 
・1916年 シンガポールに向かう途中済州島沖でニホン商船として沈没 (鉄鉱石運搬船
 
 
それでね2号艦もあるのね "光済号" っていうのが1904年に川崎造船でつくられたのです。  ※タイ海軍のトンブリが同じドックで完成したのは1934年だそうです
 
 
 
こんな由緒正しいフネがあったんだから名前もすこしは考えればイイのにね