陸軍本部高級副官室徴募課>>
1950年10月の募集広告をみる
[ミリタリーミーナ] 1950年10月といえば仁川上陸作戦のあと国連軍がソウルを占領した時期に当たります。
朝鮮半島が釜山のあたりを少しだけ残してほとんどキタ朝鮮になっていたその直後ということです。
このあと国連派遣軍はキタ朝鮮の平壌まで攻め入りますが、中共軍の参戦によって平壌は再奪還された挙句にソウルが1月4日に再びキタ朝鮮の手に落ちました、そんな短い期間だけソウルには戒厳軍司令部が置かれ韓国軍は積極的な兵隊の募集をしました。
◆軍が本格的な戦時動員体制を整える始めたのは1950年9月15日、仁川上陸作戦の後であった。当時、政府は兵役法や一時的な法令の措置に応じて、第2の国民兵を招集した。しかし、通常の手順での招集が行われなかったため、街頭募集、家宅捜索などの強制徴集と招集を使って兵力を補充した。
街頭募集とは、実際に路上で若者たちに入隊募集をした場合もあるが、道に行く若者を軍隊に捕えて連れ行くことで、家宅捜索とは、文字通り家の人々を調査して捕まえて行くことだろう。戦災孤児からはじまりかっぱらいや靴磨きまであらゆる韓国人に徴兵の手が伸びてきたことになりました。
そうして集められた兵隊候補者は本格的訓練のはじまる前に中共軍の参戦で後退する国連軍にあわせて”徒歩”で後方部隊への移動を命令されます。その途中で最大90万人が死んだとされる事件もありました。
「いい体してるねぇ、自衛隊入らない?」というギャグが昭和50年代まであったと言われるがニホンでは強制連行までは無かった、旧軍時代には徴兵制度が浸透しており兵役から逃れるニホン人はほとんどいなかった。太平洋戦争末期になり徴兵年齢が18歳に引き下げられたときにも厳格な徴兵検査が行われ身元の不確かなものは戦争には参加できなかった。サイパンや沖縄でも民間人が軍人と行動を共にしたことはあるが囚人のように縄で引かれていったりしたことはない、韓国では再占領直後のソウルで行われた若者狩りを覚えている古老も多い
陸軍幹部候補募集
思想堅固な大韓民國男子
不採用者(1)破産宣告者(2)禁固以上の刑のもの(3)軍から罷免されたり不名誉除隊したもの(4)思想がよくないもの
提出書類 志願書、履歴書、推薦書(部隊勤務者)指揮官、学校卒業証明書
このあとすぐにキタ朝鮮軍がやってくるので募集人数は秘密のようです
▲まるっきりニホン語で読めそうな新聞広告ですがおしまいの4行目に檀紀四二八三年ってあるでしょ、ニホンだと昭和25年ですね
海軍だって負けちゃいません
海軍募兵公告
満17歳以上30歳未満 国民学校6年卒業以上の学力を有するもの
このへんで大変なのが写真3ヶ月以内に撮ったものかな、ほらぁカメラがあってもフィルム無いし写真館は全部閉店しちゃったし どうしたんでしょうね。 国民学校っていうのも笑えます、これはニホンの冶政下では国民学校って言ったからですね。(国民学校は1996年までそう呼ばれていました)
しかし応募先がよくわかりません海軍本部ってどこにあったのでしょうか?電話番号だってありませんよ、それでも昔は応募できたみたいです。
工兵士官候補生募集
こちらは中学校卒業以上で20歳以上35歳未満とあります、工兵っていうのは穴を掘ったり橋を渡したりするんですね ※掘った穴には韓国人を埋めるみたいですよ。
女子義勇軍募兵延期?
こうして募集をしていたんですね
韓国人が韓国人を殺しただけの朝鮮戦争
その国民防衛軍ですが、ひと時は”キタ朝鮮占領地”となったところに残された兵役適齢期っぽいのを集めたことになります。占領地では占領軍が正しいとする教育が行われますからキタ朝鮮軍に参加した韓国人も多くいましたが国連軍のあとを付いて遅れて戻ってきた韓国軍は、”占領地に残っていた韓国人”が全部スパイじゃないかと疑心暗鬼になった韓国軍は大量虐殺を計画します。これが国民防衛軍事件とよばれる大量餓死事件の真相であるとみる歴史家もいます。
ここまででキタ朝鮮との戦闘に参加した韓国軍は総数が10万人だったし釜山防衛戦の段階で3万人程度まで減少していたが定員まで回復するのは停戦交渉の始まった1951年夏頃までかかりました。
▲韓国軍が後退してキタ朝鮮軍が通り過ぎたソウルに国連軍が戻ってきた時にこれだけの数の若者が残っていたことは驚きだ。 (およそ50万人)
韓国の徴兵制度は開戦前の1950年1月に1回目の徴兵検査が行われたあとは米軍顧問団の言う10万人定員案のために募集は行われずにいた。
当時、米国は韓国軍の定員を10万人に凍結しておいた。これは、米国がもし李承晩と国境警備と国内治安維持に必要な最小限度の兵力に加えて、より多くの兵力を握って与える場合、北側に対する軍事行動を始めるか分からないという憂慮のためだった。米国からの軍事援助がなければ、軍隊を維持することの出来なかった李承晩は米国の軍の定員凍結の方針のため、1950年3月に徴兵制を廃止し、志願兵制を採用したが募集は進まなかった。
一方、政府は、中国軍の介入で戦況が大きく不利になると、1950年12月21日法律第172号国民防衛軍設置法を制定し、若年者を大々的に動員した。国民防衛軍の動員は、本格的な徴兵制が復活する前のことだったが、50万~60万人の若者が動員され、わずか100余日ぶりに5~20万人が餓死し、凍死で病気になって死ぬ、ありえない惨事を生んだ。この事件は、いくら戦時というが、国家が市民をむやみに動員し、また、そのような状態の市民の牽制が施行されていない場合、どのような悲劇が発生しているかをひどく示している。
囚人たちはその場でほとんどが殺された
みそっち
このころ戒厳司令部では武器の不法所持厳禁というお知らせを出しています。軍人軍属警察官吏刑務官吏青年防衛隊員を除く、拾った武器は届けましょう。この文章の中に"武器は爆発するかもしれないので"とか"危険だから"といった文句は出て来ません。
大戦中のニホンでは町内会のお知らせでもくどいほど"不発弾にサワルナ"というお知らせが来ていたのとは対照的ですね。
江戸時代には、治安の維持、特に幕府に対する反乱の防止を目的に江戸を中心に「入り鉄砲」を厳しく取り締まりましたが、猟師に対しては「有害鳥獣駆除」のため期間を限った「日切れ鉄砲」や、年間を通じての「四季撃ち鉄砲」を名主等の連帯責任で貸し付けました。 ・・・・銃の所持と安全より
ところが元々武器の乏しかった朝鮮では農民にとっても武器は見慣れないものであり危険とか安全について当時のお役所が取り締まったなどといったことはありませんでした。
最後のほうに "本公告以前に発行された所持許可は一切無効"ってあります
これはニホンで言う"廃刀令"に遅れること75年ということになるのかな?
青年防衛隊
1948年8月15日、大韓民国政府の樹立と米軍政下で創設された国防警備隊は、正規軍に第一歩を踏み出すことになったが、志願兵制を採用していた当時としては韓国軍の戦闘力を後押しする予備兵力の確保が緊急の課題で提起された。
このため、政府は11月30日護国軍を創設し、全国に4個旅団、10個連隊規模の予備兵力を確保したが、1949年8月<兵役法>を公布し、これを解体して、各度の兵士区司令部に吸収した。
それからしばらくして、在韓米軍の残り部隊が韓国から撤退を完了する段階に達するなど、急速に変化する国内外の情勢を勘案し、 李承晩大統領は、20万民兵を養成するように指示することになり、これによりシンソンモ(申性模)国防長官兼の青年団長はの青年団を中心にして青年防衛隊を創設した。
創設の法的根拠は、 "青年に対しては兵役に編入されるまで、大統領の定めるところにより、軍事訓練を実施する。"という内容の<兵役法>は既にありました。
青年団にもかかわらず、軍事組織や民兵組織ではなかったが、治安と反活動を展開し、青年幹部を選抜し、陸軍歩兵学校配属将校の教育に送って40日の短期研修を終えた後、陸軍予備役少尉に任官させた。 その数は、第1期と第2期生を合わせてすでに700人ほどに達した。
※このへんは正規軍に編入されなかった李大統領の私兵がうやむやになったあたりを解説しているようです。
キタ朝鮮が優勢になった時には処刑の対象としていっぱい粛清されたりしました。
韓国軍は中共軍と直接戦っていないのでキタ朝鮮軍は憎いのですが、中国軍についてはそれほど憎悪していません、それどころか軍事政権が終わったあとの教育改革では中共軍は戦闘に参加せずに中国の朝鮮族が義勇軍を作ってキタ朝鮮軍とともに攻めてきたというふうに書き換えられます。その反動としてニホンにいた在日朝鮮人が韓国に渡り義勇軍として参戦したなどという超時空参戦記まで語られていたりします。
韓国軍が銃を持って戦ったのは国連軍占領地の韓国国民を相手にしていたというのが真実でしょう。後方治安といえばそれらしく聞こえるかもしれませんが開戦前から韓国内部では共産ゲリラ扱いされた反政府主義者(ほとんどは李承晩が嫌いなだけの一般市民)はじゃんじゃん銃殺されていたりしていたのです。あの済州島では島民の4割が虐殺されてみたりしています。