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嫌韓(いやかん)ってホントはどうなの?

1953年の韓国軍捕虜送還


6.25特集②
朝鮮戦争の時の韓国軍捕虜ってこんなにいた

大韓民国国軍捕虜は8万2千人余りと推算、8,300人余りが送還 
韓国軍は捕虜の数も誇張して発表する習慣があるのか? ベトナム戦争では捕虜ゼロ

うんうん でも正確には判らないんだ  なぜ?


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[国防ミーナ]国軍捕虜(國軍捕虜)とは韓国戦争の期間、戦闘中に朝鮮人民軍と中国人民支援軍に降伏するか捕縛された韓国軍捕虜をいう。 

1953年の停戦協定締結の際、国際連合軍が発表した資料によると、戦争中に捕虜として北に捕えられたり行方不明になった韓国軍を8万2,000人あまりと推算した。 しかし朝鮮民主主義人民共和国は8,300人余りだけを送還した。

この大きな差は、北朝鮮に残った国軍捕虜のすべてが、自ら希望して北朝鮮を選んだことで、'解放戦士' に編入されたと明らかにしている。
※韓国と韓国軍は停戦協定に署名していない、当時の韓国軍の指揮命令権は連合国にあり韓国軍の戦闘日記は国連軍の手によって記録された。


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▲1953年の韓国軍捕虜送還のようす
国民防衛軍よりまともそうに見える


開戦から1年と半月が過ぎた1951年7月からキタ朝鮮+人民軍と国連軍の間で停戦交渉がはじまり捕虜交換の条件などの交渉が行われ1953年にようやく停戦された。
しかし捕虜問題は、1953年の李承晩(イ・スンマン)大統領の反共捕虜釈放事件の時、韓国側が一方的に捕虜送還協定を違反して、キタ朝鮮としては、もはや再論されることができないという立場だ。 


◇ ◇ 



ってことで未帰還なひとが大勢いるようなんですが、その数がわからないんですね。
名前も出身地も分かんないけど、いまここにいないから戦死か捕虜でしょってことなのです。

なぜかっていうと、韓国軍も兵隊の数だけコメとお金が国から支給されるのですが、兵隊の数を水増ししておくと韓国軍の将軍の取り分が増える。という朝鮮伝統の水増し式がその理由なのです。(高宗のころの朝鮮の常備軍は将軍だけしかいなかった)

アメリカ統治を経て独立した韓国から駐留米軍が引揚げると韓国軍が人員募集を進めて、1950年の開戦直前の韓国軍の定員数は10万人でした。徴兵制ではなく「三度のメシあり〼」というだけで志願者殺到したのが1948年のことでした。

どのようにして分けるか
さて、10人の分隊を実質的に6人でやりくりすれば10人分の給養のうち4人分を分けっこしていいことになるのです。これが小隊、中隊ぐるみで行われると、総員整列して端から ”番号っ” なんてことは無いので「大勢いるね」でOKなのですね。

このほか架空小隊の第13小隊なんていうのが名簿上に存在すれば30人分丸儲けだったりします。架空中隊の第6中隊なんて作っちゃうとそれだけでヤバイ気がしますね
これってまるで大理石の壺や朝鮮人参茶を売る悪徳マルチ商法そのものですよね。(これも韓国起源だ)


架空小隊整列っ!

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架空の師団があるんですよ 指揮官しかいない数千人規模といわれる師団なんですが、存在することにしてその費用を丸々と懐に入れたのが李承晩に任命された某国防長官でした。
そうやって出来上がったお金を李承晩に渡すことで自分が偉くなったのです(戦争には無能だったけどね)
その結果、公称10万の韓国軍精鋭は実質7万人程度だったと懐述した将軍もいました。
(もっと少ないという説もある)

軍籍とかそんなに名前や出身地の名簿がいい加減でもイイのかというと、韓国国軍の採用は縁故採用が主でしたから、「従兄弟かなんかの名前も書け」なんてやるのです。名前だけ書かせて不採用とかもあったりしたそうです。
※これが韓国型の匿名社会、関係者を整列させて名前を言わせると関係ないのが必ず混ざっているという


キチンと数えたら3万人
やがて、1000人の寝床のある大隊に700人しかいなくても誰もおかしいとは思わないようになるのです。それでも毛布は1000枚支給されるので300枚が闇市に流れます。これも丸儲けですよね。
「1000人の大隊に700人じゃ、何か不都合があるのでしょうか?」「帳簿上には1000人いるんですから1000人分のお給料とコメをどう使ってもイイでしょ」。という朝鮮式論理なのです。

これが開戦前の韓国軍でしたから、いざ敵戦車がやってくると総崩れになって武器も階級章も捨てて身軽に釜山まで逃げ延びることができたのです。
さて、キタ朝鮮軍の進撃に成すすべのない韓国軍がようやく釜山に逃げ延びた頃には韓国軍の作戦指揮権が国連軍に移譲されていました。
韓国軍国防予算を好き勝手してきた将軍たちも米軍の命令があれば最前線でキタ朝鮮と撃ちあいしないとならないのです。
もう一度武器を配ることになってみて、そういうわけで兵隊の数を正しく報告しなきゃならなくなりました。そこでキチンと数えたら3万人だったというのは有名なハナシです。これで戦死行方不明者7万人の完成です。(その年のうちに山に逃げ込んでいたのが帰隊したりした)

すると、もう兵隊の数の水増しが出来ないってことで将軍~大統領への実入りがつまらなくなってきますよね。募集しようにもアメリカ軍の指揮下に入るとなれば水増しができないことになるのです。  どうしましょうか?


ほら 国民防衛軍しかないでしょ
というわけで思いついたのが国民防衛軍という韓国軍最大の惨事でした。これが1951年1月と言われています。

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▲国民防衛軍死の行軍は捕虜送還よりも
2年前のこと、見るからに栄養状態が悪そう。

第2国民役っていうと 乙種合格みたいな栄養不足の若者ですが、そんなのを50万人あつめてそこから水増し分を横取りしようと考えたのです。(アタマイイネ)

もちろん戦力として募集したのではありません 訓練させておくつもりで...。

これで実質40万人(30万人)でもイイやなんて思ったかどうか知りませんが、とにかく予算まで有り金出す気で組んじゃったら

まあどうしたことでしょう。


ピラミッド型搾取構造が直列になると
集めたところから後方に移動するあいだに、手慣れた将軍たちが、新兵に配る筈の食料や衣類を横流ししちゃったのです。国の利益より自分の利益を優先するのが彼らですからね。
いえいえ、後になって分かってみれば将軍たちはいつものこれまで通りの手慣れた横流しをしただけだったのです。決して丸ごと横取りしたのではありません。将軍たちはキチンとわきまえた取り分しか取っていないのです。ではなぜ大惨事になったのでしょうか。

開戦前のピラミッド式並列搾取システムが、移動経路の直線上に将軍が並んだ直列式搾取になったのです。こうなるとひとたまりもなく食べ物は提供されず寝るところには毛布もありません。しかも半島の1月といえば寒いですからね 大勢死んじゃったんです。

この戦争の後、韓国には徴兵制度が敷かれ60人部屋の兵舎などが作られるようになると、員数のごまかしは質を落とすことで行われるようになりました。知恵がついたんですね

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李承晩のつぎに朴正煕が出てくると、国軍のインチキにきびしくなりました。しかしきびしすぎて部下の銃弾に斃れてみたり。ベトナム戦争の派兵に志願した全斗煥はあっちで米軍の糧秣支給品と韓国からの支給品の二重取りをして私財を肥やすと瞬く間に大統領の座を得ることが出来ました。 これが朝鮮社会の伝統です。

たとえば陸軍部隊で使用される燃料には ”揮発分” と言う項目があって、余った燃料代が現金化されてみたりして、軍用トラックの軽い板金代などに流用されるとか。
※天使の取り分と言うのはホント


ちなみに、全斗煥の指揮したベトナム派兵韓国軍からは敵の捕虜になったのは居ないことになっていました。(何人かキタ朝鮮から解放されたり)


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