minaQのつぶやき 네토미나

嫌韓(いやかん)ってホントはどうなの?

崇礼門に門扉は存在した

 
 
かつてこれほど惨めな国がどこに存在しただろうか
 
初代大統領は市民を見殺しにする橋の爆破を命じたり
責められると最高責任者が一番最初に逃げ出す国
 
 
イメージ 4ニュースチャンネルQ]セヲル号船長と丙子胡乱当時指導者たちの顔がオーバーラップする。船と乗客を捨てて一番先に逃げた船長と何の防御対策がない状況で住民らを戦地に残して南漢山城に避難した国王。リーダーの責任感が感じられないという点でお互いに似ている。
丙子年(1636年)12月9日、清の大軍が韓半島に押し寄せた。戦争が起こってから6日で国王仁祖は南漢山城に避難した。
 
・・・・・中略・・・・・・
 
南漢山城が来る6月にユネスコ世界文化遺産に登録されることが確実視される。世界的にも珍しい、非常時の王宮である上、地形を利用した築城術の時代ごとの層位が結集された超大型ポゴクシク(包谷式)山城という点が、高い評価を受けた。南漢山城は危機状況で指導者が無能すると、その試練が国民の凄絶な苦痛を転嫁されるということを象徴するスペースである。
 
 
(翻訳:2ちゃん番長)
 



 
 
南大門はそれ自体が門だけど開け閉めする扉が無かったってホント?
 
いくらなんでも南大門に扉がなかったなんてウソでしょ?、いいえ無かったんです。ニホンから借金をしたお金で宮殿を直した時に崇礼門修繕の費用2万両”っていうのがその費用ですよ ※それさえ実行されなかったけどね
 
 
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▲朝鮮時代にはなかった南大門の扉は1897年に再現されたが軽便鉄道開通と同時に開きっぱなしになった? (写真は燃え残った門のとびら)
 
 

イメージ 5[学術研究ミーナ]丙子胡乱といえば、いえいえ南漢山城といえば丙子胡乱ですよね(そうじゃなくてユネスコ文化遺産でしょ)、さて清国に降伏した朝鮮王仁祖はおつむごんごんをして命乞いをしました。そのへんは歴史的事実ですから皆さんもよくご存知ですね。 
 
その朝鮮はいくつかの条件を呑んで降伏したわけですがその中には城や城壁を作ったり直してはいけないという文言がありました。
※これは当たり前のハナシですからネ
 
 
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▲国の王宮の正門であるはずの南大門の前には見るからに貧しそうな人たちがワラ小屋をかけて住んでいます。
 
 
南大門って焼肉屋さんにありがちな名前ですけど、漢城(ソウルの古い名称)の中心にある代表的な建築物として有名ですよね。
古くは加藤清正の時代に凱旋門のかわりをしたり石田三成が残した記録にも出てくる韓国最古の木造建築物です。朝鮮戦争の戦火も逃れましたが、韓国人の放火で全焼+韓国型再建という近年になっても話題に事欠かない建築物です。
19世紀末に近代文明が当時の朝鮮にやってきたときには多くの写真にもあるように城門の周囲には竪穴式のワラで出来た住居が密集していてとても王宮のある古都の正門とは言えない状態でした。
 
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▲500年で自然堆積するのがおよそ1.6m程になる
 
 
南大門の目の前がスラム街なのは韓国型一品豪華主義による門外の切り捨て政策によるもの? 捨てられた南大門? 門外は治外法権?? 
 
それはなぜでしょうか。簡単な話ですが清の属国となった朝鮮ではそれまでの城や城壁を直してはいけないという命令を出しています。それどころか宗主国清から武装解除とともに門の取り壊しまで命じられそうになっていたからです。結局、崇礼門は残りましたが王宮の正門として使われることはなくなりました。そのため正門である南大門はそのまま捨て置かれ西の端に位置する迎恩門が朝鮮国の正門の役目をすることになったからだったのです。
 
この時に崇礼門の門扉は取り外されたと考えられます。多くの写真が残る朝鮮末期時代の崇礼門の写真ですが、火事などの災害のあったあとの応急的な
小屋掛けではなく恒久的なワラの小屋の建っているように見えるそうです。
 
200年以上ものあいだ自由民が住み着いたロマンの街ソウル>>ぜひ散策してみてください。
 
加藤清正が入城した1592年当時の崇礼門はそれまで200年ものあいだ戦火にもあわずその姿を残してきましたが(記録では2回焼け落ちている)、その時の戦に参加した武将による描写では船着場からよく見える城門の巨大さが云々とあります。さらに固く閉ざされた城門を開けるために他の入口を探したとありますからその時には城門に扉はあったものだと確認できます。
 
イメージ 6中国側の記録によれば中国の使者が朝鮮に訪れたときには迎恩門をくぐる事はせずその手前にあった中国の使節の泊まる慕華館までしやってこなかったといわれています。
その迎恩門というのは明の時代に作られたものですから丙子胡乱のおよそ100年ほど前の建築だったようです>>>その門は現在では礎石しか残っていませんが写真にも残っているように独立門を1895年に建てる時まで残っていました。>>>しかしながら小西行長加藤清正軍の記録には迎恩門の描写は出てきません。
 
 
1.6m埋もれた南大門の秘密にもお答えします
人糞が積もってできたソウルの街並み
 
 
最近になって、あちこちの大規模な工事で、それに伴う考古学の発掘調査が行われたソウル四大門の内側の事情は十分に衝撃的な事実を知らせてくれる。
シン·ドンフン庶民教授などが、これらの発掘地域で採取した土壌試料を分析した結果、光化門の前から世宗路につながるソウルの中心部が一面糞で覆われていたという事実が明らかになったのだ。朝鮮王朝実録などの古文献に漢陽の深刻な汚染状態が記録されたが、土から抽出された寄生虫の卵を実証的に明らかになったのだ
 

崇礼門(南大門)復元の過程で石造りの部分、地表面を掘ってみたところ1.6mも下に埋もれた石畳の遺構が見つかったのだという新聞報道があったのは2010年のことだ。
 
崇礼門の基壇にある通路部分とも呼ぶべきところが1.6mも高かったということはまた言うなれば埋まっていた部分を足せば崇礼門はより高かったという事になり韓国人の誇りを思い出させるのに極めて有効に作用したようだった。
 
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▲掘り出された地下遺構を見学者に披露している、最下層から石畳が発見されたこともあり建立当時の地表面は今より1.6mも低かったことになる
 
これはまた、言いかえるなら後世になり建設当時に比べて通路部分の床部分が1.6mもかさ上げされたということになる。
当時の大人の身丈にも相当する1.6mである、ところが朝鮮王朝実録を精査しても崇礼門の記述はほんの数行しかない、おおまかに建立された1396年と再建された1447年、1479年の記述があるだけだ、その中には到底理解し得ない事実とされる誤認も数多く発見されている。
その後、崇礼門慶長の役では豊臣軍が入城した際に加藤清正凱旋門として使いその後は歴史の舞台から遠のく時代が続いた。 
 
ではなぜ崇礼門の通路は1.6mも高くされたのだろうか、またその工事はどの時代に行なわれたのだろうか。
崇礼門の歴史から見てゆこう 崇礼門は1396年(太祖 5年)に創建された。1447年(世宗 29年)と1479年(成宗 10年)に修復工事がおこなわれている。 それだけである。 
 
時代背景から言えばニホンでは南北朝時代の終わり頃にあたる、その当時朝鮮ではその後500年余りも続く李氏の時代が続いた。崇礼門は王城の正門として強固な石垣とともにつくられたがその結果、国の財政はわずか50年余りで疲弊しその後、全く顧みられることも無く500年ものあいだ放置されてきたのだろうか。 
 
崇礼門が火災で焼失したのは2008年のことだったが、その火災焼失より前の2005年頃から崇礼門の城郭構造の実地調査が行なわれている(城じゃないけど石垣など全部の構造てことで城郭構造ね)
 
 
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▲説明版には1.6m下の石畳と電車開通で埋められたとある
 
2005년 11월 숭례문 석축 하부에 대한 시굴조사 결과, 현재의 지반보다 약 1.6m 아래에서 석축의 지대석, 성문의 지도리석(확석), 박석이 발견되었다. 이와 같이 숭례문의 통로 바닥이 높아진 원인은 19세기 말, 전차가 숭례문의 홍예를 통과하게 되면서 성문 구조에 대한 손상을 최소화하려는 목적으로 박석 위에 진흙다짐을 하고, 전차 선로를 구성하기 위한 것으로 판단된다
 
 
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▲建築当時の地盤から500年間に堆積した生活のすべてがよくわかる写真、寄生虫卵の痕跡が見つかったのがまさにこの地層だ。
 
 
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▲地面が1.6mも高くなれば当然巨大な扉はその下半分が地面に埋まることになる。実はニホン統治時代以前の崇礼門の扉を写した写真はこの世にただの一枚も存在していない。
 
 
清朝への降伏と属国化によって宮殿や城壁の修繕ができなくなった朝鮮王は崇礼門などの大型建築物の修繕を300年間ものあいだほとんどしてきませんでした。その結果李氏朝鮮時代の末期には国の正門にあたる南大門ですら門外には土地を追われた自由民が住み着く有様になっていました。
これは海外からの使節を迎えることでも大きな恥辱だった様子が記録に残っています。
 
 
 
 
 
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