minaQのつぶやき 네토미나

嫌韓(いやかん)ってホントはどうなの?

三日目にはソウルが陥落したハナシ

 
 
 
 
韓国マスコミの'誤報'は結果的に何だったのか
 
イメージ 1[ニュースミーナ]6・25戦争勃発を初めて報道した大特ダネの栄光は外国記者だった。UP通信のジャック・ジェームズは25日午前9時50分以下のような内容の戦争勃発の記事を本社に配信した。

"38度線地域の断片的な報告によると、北朝鮮は日曜日の朝、境界線から全面攻撃を開始した。ここ時間午前9時30分現在の不規則的な報告内容によると、ソウルの西北約40マイル地域である開城市(韓国軍1師団司令部所在)が9時に陥落し、甕津の南3、4km地域では敵部隊が発見された。ソウル北東方向50マイル地点の、春川(チュンチョン)地域で攻撃に投入された敵戦車が出現した。国道がない江陵以南の東部海岸地域ではおよそ20隻の短艇が上陸を敢行した。しかし、状況はまだも断片的で、あいまいだという事実を付け加えておく。"
 
ジェームズの一報はAPの記事より2時間14分も速く、ムーチョ(John J. Muccio)在韓米大使が本国に打電した報告よりも速かったという。
 
6.25が起こった時、駐韓米国大使は、Jムーチョだった。1950年6月25日未明8時彼は電話の音に起きた。副大使であるエベレットフランシスドラムライトからだった。"米軍事顧問団が夜明けに38度線の状況が思わしくないという報告をしてきました。大使を起こさなかったことは、状況をもっと正確に把握した後に報告しようとしたものです"

ムーチョは歩いて5分の距離にある大使館に向かった。大使館はシェラトンホテルにあった。途中にUPIの、ビル・ジェイムズの記者と会った。

"大使は朝からどこへいきますか。"
"38度線に何が起きたように見える"

ジェームズ記者はこの言葉を聞いて第1歩を飛ばした。世界的な特ダネだった。
 
ムーチョ大使は午前9時に"北朝鮮軍の全面攻撃が始まった"という報告をワシントンの国務省に送った。東京の極東軍司令部にも送るようにした。ムーチョ大使はソウルに駐在する他の国の大使らにも戦況を教えてくれた。(その時の記録は割と残っている)
同日、ムーチョ大使は、景武台に急ぎ入って、李承晩大統領に最新情報を教えた。李大統領も、様々なチャンネルで報告を受けていたが、ムーチョ大使の報告がもっと正確だった。その時、米軍は約500人の軍事顧問団を韓国軍の様々な部隊に派遣していた。
 
午後に景武台(今の青瓦台、当時はニホン総督公邸のまま)に入ると李承晩大統領の隣にシン・ソンモ(申性模)国防長官があった。李大統領が"今から、閣議が開かれた"と話した。※シン・ソンモ国防長官は後退の責任を取ってこのあと辞職する
 
"私が共産軍に捕まったら国家的災害になるってことなので。私が先にソウルを離れることを決定しました"
 
ムーチョ大使は止めた。"韓国軍は劣勢でも今うまく戦っています。後退しているが、部隊単位で降伏した所はありません。ソウルで、閣下が構えているからです。しかし、政府がソウルを離れたという事実を戦線の部隊が分かるようになれば士気が落ちて崩れるのです。ソウルを離れる時期を最大限遅らせなければなりません。"
 
李承晩(イ・スンマン)大統領は"私が捕まってはならない" という言葉を繰り返した。1時間ほどしてから説得に疲れたムーチョ大使は立ち上がりながら話したという。"閣下が決定することです。我々は出発しません。"
 
6月26日午後、景武台に上がったムーチョ大使は李承晩(イ・スンマン)大統領がソウルを発つために2台の気動車を準備したという話を聞いた。李大統領は27日の明け方にソウルを離れ、水原(スウォン)に下がった。ムーチョ大使には、知らせなかったという。ムーチョは非常に腹が立ち、李大統領はすまないと言った。

ムーチョ大使は、李大統領のオーストリア人妻フランチェスカ夫人の助けをたくさん受けたという。フランチェスカ夫人は李大統領が誤った考えをしていると判断すればムーチョ大使に電話をかけて "一度立ち寄ってください" と話したりした。ムーチョ大使が李大統領を訪ねて1時間ほどいろんな話をすれば、その間大統領は考えていた話頭(キーワード)を取り出した。ムーチョは自然に対話に参加し、影響力を与えることができた。
 
1971年1月と2月に引退中だったムーチョ大使は、ワシントンで'歴史記録のための肉声証言'に応じて上の秘話を紹介していたことだ。ムーチョ大使は "その日、韓国軍は奇襲を受けても実によく戦った"と話した。
北朝鮮軍は当日中にソウルに入ることもありえた。そうなったら北朝鮮は戦争を起こした李承晩(イ・スンマン)政府が北朝鮮軍の反撃で崩れたと宣言し、国民が統一を歓迎しているとし、状況を既成事実化し、米国と国連の介入の根拠をなくすことさえもできたのだ。
 
ムーチョ大使は"韓国軍の組織的な抵抗と前線の暴雨(暴雨)が韓国を求めた"と話した。リッジウェイ将軍など、米軍側の回顧には韓国軍の無能と無責任性に対する批判が多い。韓国の事情をよく知っているムーチョは同情的だ。短期間に建設された韓国軍は米国が武器を十分に許さなかったにもかかわらず、よく戦っており、これがすごいという話だった。
 
※すでに故人となった駐韓大使のお話を韓国人記者が加筆創作しました
 
 
このように外国の報道機関の方が、特に当局の発表に依存、勃発後、実際に戦況(戰況)とは異なった報道を続けた韓国のマスコミに比べて比較的正確な報道をしている。
 
 
6月26日付の国内日刊紙は戦争勃発の事実を1面トップ記事で採用していたが大きくないように扱ったのが特徴。今の観点で見れば、真っ黒に白抜きのタイトルで書き出してもおかしくないのに、全然そうでなかった。1面に、戦争ぼっ発の以外の他の記事もたくさん乗せている。
ソウル新聞の場合6月26日付1面では戦争勃発の記事は30%程度だけ占めている。国会交渉団体問題など政治、外信記事も大きく扱われている。朝鮮日報の場合も6月26日付1面の30%程度を、戦争勃発の記事に割いているだけだ。国会交渉団体問題、・ダレス米国務長官訪日など政治、外信記事も重く取り上げている.社説も白凡1周忌に関するものだった。
 
しかし、6月27日付に移り、ようやく戦争関連記事の比重が非常に大きくなる。1面をはじめ社会面まで多くが、戦争関連記事で満たされた。しかし、内容は"国軍、海州(ヘジュ)突入"など、事実とかけ離れたものだった。
 
 
 
イメージ 2
 

▲東亜(トンア)日報は1面のトップに"国軍精鋭北上総反撃戦展開"というタイトルの下、国防部報道課が26日午前10時に発表した内容をそのまま掲載した。海州(ヘジュ)市を完全に占領したというものだった。

 
イメージ 5

朝鮮日報も、国防部の発表を紹介し、"国軍の一部、海州(ヘジュ)突入/敵射殺1580人、戦車など撃破58台"と報道した。
 
 
社会面はトップの記事にコメの価格暴騰を大事にしながら、市民の自粛を促している。この記事によると、6月25日の朝ご飯の言葉に2700ウォンだったが、夕方には3100ウォン台に急騰したそれさえも米屋がドアを閉め市民が苦労しているということだ。これにより、当局は、米の価格に制限令を下した言葉に2600ウォン以上を受け取った場合拘禁されるという内容を伝えている。
 
イメージ 3
 
▲京郷新聞は「燦!我軍勇戦に傀儡軍前線で敗走中 ​​」という1面カットのタイトルの下に「三軍一体敗敵猛追、一部は海州市に突入」というタイトルで、国防部報道部発表文を載せた。
 
 
この日の社会面の頭には「38魔線を粉砕しよう!力強い実地回復の軍號」というタイトルをつけた。 しかし、実際には26日に議政府が北朝鮮軍手元に渡った後、倉洞防衛線まで危うくなって議政府一帯の避難民がソウルに集まるようになり、政府機関とソウル市民が動揺し始めているなどの危機が高まっていた。
 
6月26日 
倉洞防衛線には陸軍参謀長がやってきて「6 月28日からB-29爆撃機100機が国軍を支援するようになった。」と言いながら将兵の士気を盛り上げて与えたが、これは士気昂揚のために即興とした言葉に過ぎなかった。
陸軍総参謀長チェ・ビョンドクは漢江鉄橋破壊の責任を問われてはるか後方の司令官に降格されて直後に戦死した。
http://ko.wikipedia.org/wiki/창동_전투
 
政府は27日午前3時景武台で開かれた緊急閣議でも実効性のある対策は立てられないまま、政府を水原に移す方針だけ立てた。 このように、韓国政府は急速に変化する状況になすすべもなく状態に陥って、ソウル市民を含む各機関のはじめに対策を立てる暇がなく、このため、100万人に達するソウル市民が避難時期を逃すなった。
ここにはマスコミが事実と異なる報道をすることにより、市民が戦況を正しく把握していなかった点も大きな影響を及ぼした。
 
なぜ、当時のマスコミは事実と異なる報道をしたのか。当時の関係者たちの言葉を総合してみると軍やメディアが事態を正確に把握していなかったのが「誤報」に大きな影響を及ぼしたようだ。ロイター通信従軍記者として6·25戦争を取材していたジガプジョン(池甲鍾)国連韓国参戦国協会の会長は、その原因についてこう語った。 「当時、国防部やマスコミや状況を正確に把握する暇がなかった状況判断能力もなかった。メディアは、前線の地域を取材する能力もなかった。三日目にはソウルが陥落して当局から検閲される間もなかったので、検閲のために事実と異なる報道をしたわけではない。従来にも38度線で南北の間の武力衝突が頻繁にあったので勃発初期には北朝鮮軍がソウルまでやってきたとは思わなかった。このため、26日の新聞が戦争勃発の事実を小さく扱ったものである。

◇ ◇ ◇

 
外国メディアは、正確に報道していたが、私たちだけ”足元が暗い(灯台下暗し)”ということわざ通り事態の深刻さを知らなかったのだ。 国防部傘下の戦史編纂委員会(現国防軍研究所)が87年に発刊した「韓国戦争」には、当時の報道態度について、次のように分析している。

「韓国の報道担当機関は、北朝鮮の南侵を知らせる最初のニュースを受信し、『ソウルが陥落したら、物事は終わりだ』という国民の潜在意識を勘案し、民心を安定させるために一次的な努力を傾けた。その結果、時間が経つにつれ、不利に変化していた当時の戦況を実際とは異なる方向に報道することになった。
 
 
 
(翻訳:みそっち)
 


 
ニホンではアサヒや毎日、日経とか新聞はウソを書くのが仕事ですよね、韓国ではすべてのメディアがウソを垂れ流すのです(当時メディアとは言わずに媒体と言っていた)
開戦序盤に壊滅した韓国軍が活躍するハナシがでてくるのは李承晩の去った1970年代になってからでした。特にこのあいだの朝鮮戦争では7月14日に作戦統制権をアメリカ軍に投げちゃったあとは米軍の公式記録には韓国軍の作戦参加が記録されるんですが、残念なことに”韓国軍”の再登場は1952年になってからなんですね。
それってつまり停戦交渉の邪魔をしたということですよ。朝鮮戦争は釜山までの後退から仁川上陸、鴨緑江まで退却~中共軍参戦~ソウル再陥落という1951年までにはほとんど終わっていたんです。それを長引かせたのも韓国軍だったということです。
このへんがなぜかというと、”負け戦決定” の前に一花咲かせたかったんじゃないでしょうか。とにかく停戦交渉が始まって最前線から国連軍が引き揚げを開始して、そのあとに現地入りした韓国軍が盛んにキタ朝鮮軍を挑発したのです。(開戦3年目ともなると米軍の余剰物資が韓国軍に行き渡ったころ)

そんな米軍の公式記録に残らない韓国軍の活躍はすごいものが一杯ありますよ。仁川上陸作戦に参加したり(参加してない)ソウル奪還で総督府に旗を立てたり(あれは記念撮影でした)平壌に一番乗りしたり(してませんね)
 

ところで今日の豆知識、現在キタ朝鮮領になっている”開城市”って6.25前は大韓民国だったんです、これはほとんどの韓国人が認めたくないことですよ。
開城市は、北朝鮮南部にある都市。高麗の王都として、また商業の中心として栄えた古都である。
 
現在キタ朝鮮である開城市には、6.25の当日、韓国の第一師団がありました。もちろん司令部ごとあったんですが、開戦の当日に消えちゃいました、みんな逃げちゃったんですね、その師団長ってペク将軍ですよ。 あひゃひゃっ
※韓国の第一師団は現在開城市の手前の農村集落に近い坡州にありますね。
 
 
 
こたつで読み直したい過去カキコ
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 4
 
大本営発表の起源も韓国にする?