戦争日誌1950. 解説しよか
東亜日報 1950年10月4日の新聞にでていた戦争日誌
戦争中の新聞記公報処提供記事を分析してみよう、
[ミリタリーミーナ]今知られている史実と韓国人が信じていた韓国戦争ののウソがよくわかるかもしれないよ
この10月4日っていうのは9月10日の仁川上陸からソウル奪還の9月28日があって東亜日報が再発行されたばかりの頃、しかも国連軍が38度線を突破したのでイケイケどんどんの有頂天になっていた時期になります。
これはご存知のようにソウル奪還の直後ですから民間人虐殺があったころですよ ※これについてはシンちゃんが書いています ココ
東亜日報ソウル奪還記念十月四日号
リンクを貼ったから直接見てこいっ!
NEVERの過去新聞ライブラリーで誰でも読めますよ、但し記事コピーはできません。書き写すしかないみたいです NEVERの登録ってできるの?
▲六月二十五日◇午前五時北韓人民軍が不法南進を開始◇国連安保理事会北韓軍の攻撃を非難する決議案を採択◇UN安保停戦命令を発送◇申国務総理国連に武器援助を要請◇UN韓委緊急招集◇我が援軍臨津江方面に出動◇東豆川地区にて戦闘開始
アメリカ合衆国による北朝鮮への軍事進攻によって戦争が始まった6.25は平和を守ろうとする侵略に対立した正義のある戦争 中国の正史ね東豆川市はキタ朝鮮との国境の町、峠をこえるとすぐにキタ朝鮮、戦闘開始じゃなくて”キタ朝鮮軍”の攻撃開始が正しいかも。武器援助要請ってことは武器が無いってことですよ、何を手にして戦ったのかなぁ ※ホントに武器はありませんでした、360人の部隊に小銃110挺
▲六月二十六日◇我が軍部隊一部海州市突入◇釜山以南海上二十カイリ地点にてソ船舶一隻を撃沈◇敵機二台金浦空港に来襲◇美は緊急援助武器 東京から空輸◇マッカーサー元帥戦争物資輸送を訓令◇蒋介石氏援韓を提議◇事態収拾を李犬統領言明◇美行政府部戦闘 局部化に注力
我が軍部隊一部海州市突入というのは明らかに誤報、出処は6月26日の新聞にもあった国防部の嘘の発表。釜山以南海上ソ船舶一隻を撃沈も完全なウソ 過去カキコ = 伝説の"白頭山艦"のウソを検証する⑦この春川と洪川の戦いは戦ったとされる韓国軍部隊が存在していないことや戦後の調査などから大した戦闘はなかったとみられる。
6月27日午前4時に開かれた緊急閣議で、政府の水原遷都が正式に議決された、同日李承晩は大統領と内閣で構成され亡命政府を日本に策定する案を駐韓米国大使に連絡してきた李承晩は大田に三日間とどまった後、7月1日早朝に列車便で大田を残して来るに到着した。7月2日には再び木浦に到着し、船便で釜山に移った
▲六月二十八日◇トルーマン大統領海軍発動命令◇ソウルにマッカーサー戦闘司令部設置◇噴射機八十数機福岡出発◇ボーイング爆撃機参加◇韓国武力援助をUN安保七対一で可決◇戦闘即時中止を美国ソ連に要請◇国府軍本土攻撃命令
6月28日、ソウルは北朝鮮軍の攻撃により市民に多くの犠牲者を出した末に陥落した。この時、命令系統が混乱した韓国軍は漢江にかかる橋を午前2時30分頃、避難民ごと爆破した(漢江人道橋爆破事件)。これにより漢江以北には多数の軍部隊や住民が取り残され、自力で脱出する事になる。
※漢江鉄橋爆破の翌日のこと、ソウルでは残された避難民がウヨウヨいたらしい
◇李大統領 国民向け督口放送◇英国海軍出動◇李大統領マ元帥と会見
L-4連絡機などで手榴弾を投下したらしいことがこの我が空軍平壌元山を爆撃という部分らしい。 ※せいぜい徒歩のキタ朝鮮部隊の上をゆるく飛んで手榴弾を投げ落としたかもしれない程度。(爆発までの5秒では空中爆発がイイところである。砲弾に信管をつけて投げ落としたという与太話は映画青島要塞爆破命令を見てから主張されたらしい、主演:加山雄三)※砲弾ってあるけど韓国軍には大砲が無かったんだけどね(砲弾は手製爆弾~迫撃砲弾へと進化してゆきます)
7月3日に蔡秉徳(日本陸士49期卒・元日本陸軍少佐)が参謀総長を解任され、丁一権(日本陸士55期)が新たに参謀総長となり、混乱した軍の建て直しに当たっていた。派遣されたアメリカ軍先遣隊は7月4日に北朝鮮軍と交戦を開始したが7月5日には敗北した(烏山の戦い)。
李承晩大統領はすでに釜山に逃げて、申国務総理は”援軍が来るまで現状で戦線維持”って放送したのがこの日、但し、韓国軍はすでに個別に後退していて9月に釜山で整列させたら人数が1/3になっていたとかどうとか。しかも誰も武器を持っていなくてこのあと韓国軍は解体されることになります。このころニホンの板付飛行場でP-51ムスタング10機を受領した韓国空軍がどうのこうのしたことになっていますが、この新聞には一言も書いてありません。過去カキコ 30分の試乗で板付から韓国まで飛ぶ P-51戦闘機を飛ばしたのはアメリカ軍でした。ニホン海軍出身の飛行士とかが出てきますよね、※ニホン海軍が朝鮮人をひとりでも採用したという事実はありません。
▲七月四日◇聯合国地上部隊が北韓共産軍と全面衝突◇駐韓美軍総司令部チン少将任命◇対韓国際遠征軍 組織計画 発表◇東海で敵水雷艇六隻撃破◇我軍特攻隊南山方面奮戦◇UN決議支持国家三十八ヶ国◇◇聯合軍地上部隊 北カイ軍追撃◇元山飛行場を爆撃
半島にいなかったニホンで編成されて米軍が急いでたどり着いたのが7月4日のこと(これが初参戦)、ところが支えきれずに将軍が捕虜になる失態もあったりします、(派遣されたアメリカ軍先遣隊は7月4日に北朝鮮軍と交戦を開始したが7月5日には敗北した(烏山の戦い)。)
▲七月五日◇我軍漢江を逆渡河◇ソウル平野部で激戦展開◇B29極東方面に動員◇我軍水原飛行場を確保◇海兵隊戦闘参加決定◇敵機四十七台撃破(以北裏飛行場◇仁川港を我が軍が確保◇美政府は韓国事態を楽観◇美政府首脳部ホワイトハウスで秘密会議
漢江逆渡河っていうのは事実ではありません。烏山の戦い(Battle of Osan)は、1950年7月5日韓国戦争当時、米軍と北朝鮮軍との最初の交戦で北朝鮮軍がソウルを陥落させ、第2次攻撃を開始することにより、韓国戦線に積極的に介入させることにした米政府の措置に加えて、その地上軍先発隊が初出動して戦った戦いである。 結果は米軍の惨敗敵機47機撃破っていうのもとんでもない嘘っぱちのようです。(キタ朝鮮の飛行機を撃破する兵力は韓国軍にはまったくありませんでした。)
これってこんな分量で長く続くのです、面倒だからまたいつか続きを説明します。
(戦史研究家:みそっち)
解説の解説
朝鮮戦争の始まったころというのはすでにヨーロッパの冷戦がはじまって(ベルリン封鎖は前年)、中国本土では国民党軍が負け続けてたし米軍は第2次世界大戦の後ほとんどの兵隊が除隊していたりして、アメリカでは厭戦気分が出ていた頃になります。アメリカの若い兵隊を最前線に送り出すってことに対してアメリカ国内では反発もあって”アチソンライン”の向こう側での戦争には表立って参戦しにくかった時期でもあります。(アチソン表明は翌年の1951年だけどね)
韓国海軍の状況はもっと悲惨です。釜山港と済州島だけが残された9月始めの段階で稼働艦艇は無しだったそうです。陸軍や空軍にはニホン軍の経験者がいたので歩いて行軍することもあったし階級も守られましたが、海軍についてはニホンが全く教えなかったため”海軍”の経験者が誰ひとりいないところから創軍されたことで混乱が長く続いたみたいです。
これは国連での決議案で国連軍の派遣が決定したあと、中国側を刺激しないために韓国軍が前面で戦っていることにしておきたかった為ですね。ところが平壌まで押し返したところで人民軍が参戦しソウルはふたたび占領されることになりました。
その結果、各地で活躍したのは”作戦統制権”の無い韓国軍が主体となって反攻したという風に報道されてきただけのことです。
実際に戦闘に参加したとされる韓国軍(ペク将軍とか)の師団がどこで編成されたのかが謎なのもそうした理由からです。韓国軍が朝鮮戦争で活躍したなんていうのはそれ自体が与太話だということにほかなりません。
いいのかなぁこんなこと書いちゃって
↑ここのひと
▲ニホン海からの艦砲射撃をしている米戦艦の戦闘指揮所で記念撮影しているペク将軍、指揮する部隊もなく彼一人で”野戦戦闘部指揮官”という肩書きで第1軍団指揮官と名乗っていたころのようす 略帽の✩が2個なので少将進級後の撮影。(彼の指揮した部隊は存在しない。)
そんなことは知っていたというアナタも
ここ↓くりっくしてね