〈村に行った韓国戦争〉という本
葛藤する韓国人、朝鮮戦争前後の住民虐殺は無かったことに
相手を密告して蹴落せば、その土地家屋を自分のモノにできる時代があった
農村ではとなりの家を陥れることが頻発
▲全羅南道 霊岩郡 徳津面 永保里村の碑石。日本の植民地支配期に農民組合運動などを起こした永保里村の住民は、光復後、朝鮮建国準備委員会と人民委員会などを掌握したが、米軍の進駐と韓国戦争、人民軍の占領や後退などを経て、村の住民たちが集団で山間地帯に避難したが、多数が犠牲になった。
[午後のミーナ]微視史としての韓国戦争。これまでの韓国戦争研究が、戦争勃発の背景や進行過程、そして南北の政権と、外部の介入勢力間の駆け引きに焦点を合わせた巨視的研究が中心になったらパクチャンスン漢陽(ハンヤン)大学教授のは村単位で行われた小さな戦争に焦点を合わせる。
戦争の後、南側政府が発表した南の人命被害のうち、死亡者は軍人が14万7000人、民間人は24万4000人余りだった。 北では<統一朝鮮新聞>によると、軍人が29万4000人余り、民間人は40万6000人。南北の軍人死亡者の合計が約44万人なのに比べ、民間人死亡者の合計は約65万人。実際はこれよりはるかに多いが、これらの中でも戦争期間に爆撃や事故などによる死亡者ではなく、意図的な虐殺、殺害で死亡した民間人が南だけで少なくとも10万、多くは数十万人に上るものと試算される。 そんな虐殺の大半がすぐ村単位の小さな戦争で行われた。
その膨大な規模の虐殺はどう行われたのだろうか。 その主な舞台である村単位の小さな戦争が起こった理由は何だったのか。 一体その背景の葛藤要因は何だったのだろうか。
この10年余りの間、忠清南道と全羅南道5つの地域の村の現場を踏査し、関連者口述を採録して、各種の資料と犠牲者氏族家門の族譜まで几帳面にリードされた朴教授は、戦争勃発60年が経った今も小さな戦争が繰り広げられた村がその精神的・物質的な後遺症に苦しんでいる現実を目撃した。 そのためか、彼は、天安艦沈没事件後、3日だけ踏ん張れば戦争で北朝鮮に勝てるという主張などが横行する現実を意識したのか"果たして'戦争も辞さない'を叫ぶ彼らは戦争がどんなものなのか思い出してみて言うのだろうか"して非難した。
この本が扱う5つの地域での民間人虐殺事件は、村の住民間の左右対立で生じた虐殺に焦点を合わせる。 最初の2つの事例の舞台は、全羅南道珍島(チンド)と霊岩の同族村内部親族である。 残りの3つは忠清南道扶餘郡と唐津郡、錦山郡が舞台であり、一つの村の内部よりは2つの村または複数の村の間で起きた事件が中心である。
最初の事件の主要舞台である珍島のある同族村、***里(匿名処理しなければならないほどの悲劇は現在も進行中だ)。 珍島の両班村で(班村)の***里の支配氏族ヒョンプン郭氏の朝鮮時代以来の来歴と門中系譜から見た著者は、日本の植民地支配に視線を移す。 植民地時代、特に第1次世界大戦とロシア革命、その影響を受けた3・1運動と1920年代の疲弊した植民地の現実を反映した社会主義理念の拡散。そして独立後、地域情勢の変動を主導した建国準備委員会と人民委員会、それを導いた社会主義理念の所持者または同調者たち。しかし、彼らの'政権'は短く、1945年11月頃から米軍が地域に進駐し、権力移動が始まる。
米軍はすぐに韓民党と李承晩(イ・スンマン)が主導した右翼勢力を支援し、左翼を淘汰させる。 虐殺は1950年6月、戦争勃発とともに始まる。 先に地域警察などの右翼勢力が地域の潜在敵対勢力である左翼を保導連盟で縛って処刑する。 同年9月に人民軍が地域を占領すると、すぐさま左翼の報復が開始される。 その後人民軍が地域から全面撤退を始めてから親日派などが右翼虐殺を本格化する。 その後すぐに警察と国軍が進駐し、今度は地域の右翼の左翼に対する報復虐殺が始まる。 その結果、珍島**里は約600人の人口のうち、167人が犠牲され、'霊岩のモスクワ'と呼ばれたヨンボ 村は1千余の人口のうち、200人余りが虐殺された。
このように左翼と右翼が降ったり止んだり、南北が上がったり下がったり、したわずかその何ヶ月間のいわゆる'鋸挽き戦争'を通じて種を絶やすような血の報復が繰り返された。 これが韓国戦争の村単位の民間虐殺の基本パターンだった。
しかし、具体的な内部事情に入ると、葛藤構造と虐殺の形態は千差万別だ。
'地主は、右翼、小作農は左翼'、'両班村は右翼、ミンチョン(民村)は左翼'式の図式がどこでも通用するわけではない。
<村に行った韓国戦争>が特別なものはミクロの間ためだけではない。 ブルース・カミングスは、韓国戦争を前後した南部地方の革命的情勢造成の主な要因を小作農による地主階層に対する階級闘争に見たてたが、朴教授は、大規模な民間虐殺を招いた左右の衝突は、よく言われているような、階級と理念の葛藤よりも、両班-平民の身分の葛藤、親族内部の葛藤、村間の対立、宗教と理念対立などが絡み合った'複合的な葛藤構造'から始まっており、その中でも親族、村、身分間の葛藤がさらに決定的な役割をしたと考える。 朴教授はこれを実証的事例研究を通じて確認した。
葛藤のすべてが虐殺だけで表出されるわけではない。 地域葛藤要因が自主的に解消されずに、大規模な虐殺に帰結されたのは戦争のためであり、その戦争を主導し、住民間の葛藤を増幅させて利用した南北国家権力の介入のためだった。 朴教授は葛藤を対話と妥協で賢明に解決できなかった韓国人の未熟性が問題だと指摘しながら、依然として力で相手を屈服させようという未熟性が支配する韓国の現実を心配した。 60年が経っても、悲劇が現在進行形なのは韓国人の成熟を妨げる、植民地の残滓と南北をそれぞれ左翼と右翼の極端な社会で、停滞させている分断のせいではないか。
(翻訳:みそっち)
というのがあるんですね、さて、うちの両親は先週新幹線が通ったようなところの出身で戦後生まれですが、食べ物では白いごはんを隠さなきゃならなかったような時代のもうちょっとあとになるのかな。
ものの本によれば、ニホンでいう戦時中というのは日中戦争のはじまったころからを言うらしいですが、昭和の18年頃までは”勝ち戦”だと思っていて19年になっても負けないんじゃないかと思っていて、サイパン島から爆撃機がやってきても、やったらやり返されるものだと思っていて20年の終戦ではやっと終わったっていう程度のものだったというのを見ることができます、食糧事情ではちょっと田舎にいけばコメもイモも食べる分には不自由しないほどあって”ヤミ屋”の人の着物と交換しても余る程だったとあります、しかも戦争をやっていた最中に戦争に行ったのは男子全部では無いし、ちょっと世代が違えば近所の親戚でも戦争に行ったのは数える程だったという話です、そりゃそうですよね、田んぼに機銃掃射してもすずめが驚くくらいでしょうからニホンでは農地解放っていうのが戦後に行われたそうですがそれで竹槍を持ってえいえいおーなんてことはあったのかな?
さて韓国ですがニホン統治時代のあいだに農業生産が20倍にもなったという資料もあるくらいですからこれは大げさすぎるとしても3~5倍にはなったとみるのが一般的ですよ、ではそのときに土地を持っていたひとは美味しかったのかというとそれも微妙で、朝鮮末期に一応、身分制度がなくなって、今度は地主と小作という社会構造で税制も近代式に変わる時に”旧来型”の暮らしをしていたひとたちが朝鮮式生産性のままそのまま落ちこぼれていったのですから貧富の差が無くなるどころか広がったことは容易に想像できますね。
とにかく農村部では地主と小作の葛藤があって都市部では労働者と経営側の葛藤があるというのが今も...。
また朝鮮戦争のころに話が飛ぶけど、こうしたゴタゴタには当時の最大の武装勢力だった韓国軍による被害が一番多いのじゃないかというご意見もあります、これは手っ取り早く”キタ朝鮮軍”のしわざにしちゃえばよかったので最近になっても研究は進んでいないようですね。
もういちど戦争ですか? はいどうぞ