minaQのつぶやき 네토미나

嫌韓(いやかん)ってホントはどうなの?

李舜臣関連遺物の所在が確認


1969年以降、紛失推定
李舜臣将軍の遺物の行方と価値は

'発見された'狀啓別冊'手がかりに、'ガムギョル'など2点経路追跡


イメージ 2[日曜ミーナ]1969年以降、紛失されたと推定される忠武公李舜臣関連遺物である'狀啓(狀啓)別冊'の所在が確認された中で、この遺物を含め、紛失の遺物2点など3点について警察が捜査に着手した。
23日、警察と祠の管理所によると、徳水李氏の忠武公、宗婦のチェ某さんは、1970年以降に李忠武公の宗家で保管する行方を見つけられなかったガムギョル(甘結)と右議政症ジクギョジなど3点を探してほしいと、警察に捜査を依頼した。

所在が確認された李舜臣将軍の遺物'狀啓(狀啓)別冊'をはじめとする彼ら3点いずれも宝物級の遺物だ。 警察と祠の管理所側は上場別冊を盗んだ誰かが残りの二つの遺物も一緒に持っていったと推定している。


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①戦乱のうち李舜臣将軍が兵士たちに激務規律と関連して命令をしたもの
②宣祖が全羅水軍にイ・スンシンを右議政で伝えたもの。 ➂狀啓

今回の捜査の手がかりになったのは、今月初めに乱中日記教頭完訳本を出版した汝諧(ヨヘ)古典研究所長が国立海洋博物館に所蔵された'チュンミンコンギェチョ'(忠愍公啓草)を分析した結果、これまで紛失状態として知られた狀啓別冊がまさにチュンミンコンギェチョという事実を確認する過程で始まった。 国立海洋博物館側は上場別冊を過ぎた2013年、天安に所在する民俗館側から購入し、現在国立海洋博物館に展示されている。

この本は、徳寿(ドクス)李氏◆忠武公の宗家で伝えて下されてきた遺物と確認されている。 警察は国立海洋博物館などを相手に上場別冊の本物であるかどうかや購入経路などを調査するなど、関連遺物についた行方を追っている。
顕忠祠管理所によると、上場別冊は李舜臣死後の1662年に作った筆写本で、文禄の役の勃発直後の1592年4月15日から1594年4月20日まで李舜臣が宣祖と世子光海君に捧げた戦争状況報告書68編(実物は筆写した人の脳内で創作された)を収録した。

この本の紛失時点は、一部で、日帝時代と推定していることとは異なり、1969年に報道された新聞記事に収録された祠の遺物展示館の遺物資料の現況に表記されたものを基に、その後に紛失したものと推定している。 誰かによって隠されていたが、40余年ぶりに遺物の取引市場を通じて日光を見たのだ。
狀啓別冊の出処確認とともに盗難されたものと推定されるガムギョル(甘結)と右議政症ジクギョジの2の遺物の出所と行方を追う手がかりとなっている。 警察は上場別冊の所在地が確認され、一緒にこの忠武公(チュンムゴン)の終値で紛失されたものと推定されるガムギョル(甘結)と右議政症ジクギョジの行方を見つけるのに力を入れている。 遺物ヤミ市場などを追跡したり、遺物売主の行方を探すことができるだろうと見ている。 顕忠祠管理所関係者は"やっと見つかった上場別冊をはじめ、ガムギョルグヮ右議政症ジクギョジすべて宝物級以上の重要な価値を持っているだけに、紛失された遺物を探すのに最大限協力したい"、"李舜臣将軍の関連遺物がすべてに顯忠祠に集まっているだけに、これらの遺物も顕忠祠に戻ってこそ、当然だ"と強調した。


(翻訳:しらん)




忠武公・李舜臣(イ・スンシン)将軍の子孫の家門が保管していて紛失した「状啓別冊」が国立海洋博物館に所蔵されていることが明らかになった。状啓別冊は忠武公が壬辰倭乱文禄の役)当時の戦場の状況を王に報告した文書を集めたものだ。
ノ・スンソク汝諧古典研究所長は6日、「海洋博物館が2年前に購入した『忠愍公啓草』が状啓別冊と同じ冊子であることを突き止めた」と明らかにした。日本帝国主義の強制占拠下にあった1928年に撮影された状啓別冊の写真を忠愍公啓草と比較して確認した。
同冊子は忠武公が亡くなった後の1662年に作られた書写本で、全68編の報告書が盛り込まれている。いつ、どう子孫の家門から外部に持ち出されたかは明らかでない。冊子の題目である「忠愍公啓草」は忠武公を記念して、1601年に全羅南道麗水(チョルラナムド・ヨス)に建立された「忠愍社」から取ったものだ。

まぁそのままじゃ読めないんだけどね


国姓爺合戦という読み物があります、時代は江戸時代初期ですから李舜臣将軍の死んだひと世代くらいあとの鄭成功のお話です。

李舜臣が流れ弾当たって死んだ雑魚のような卑怯者の代名詞で通用したとすれば鄭成功はニホンでも浄瑠璃になるような実在の英雄なわけです。
さあて、ここからが重要なのですが、鄭成功が台湾で明国再建のココロザシナカバで死んだことはその年のうちに長崎平戸にも伝えられニホンでも生前の活躍などが知れ渡ってきました、ちょうどその時、清の属国以下の扱いでどん底のところにあったのが朝鮮ですよね。
鄭成功という英雄のウワサを聞きつけた朝鮮人”ウリの国にも英雄が欲しい”と心の底から願ったことは疑いようのない事実です。
そこで李舜臣という人物を作り上げ、ちょっと前の記録を書き足して創作したのが李舜臣伝説だとしたらどうでしょうか。李舜臣の名が歴史に登場したのは鄭成功が死んだ1662年に”書かれた”乱中日記に登場します。これが最初から創作だったとしたら


たとえば陸軍参謀本部編の日本戦史. 朝鮮役 (文書・補伝)では確実な資料も無いまま後世の伝え聞きの補完資料として彼の死後に書かれた乱中日記などから内容を引用しています。いかにも実在した人物のように書かれていますが、実在した人物とは実在した時代の資料に残っていることが必須条件だとすれば、”李舜臣将軍”という人物は活躍したとされる時代の60年も後に書かれた記録にしか名前が出てこないわけです、そして歴史に名前が出てきたタイミングが鄭成功という英雄の死んだ年だということなのです。

日露戦争で東郷元帥の相手はロジェストウエンスキー将軍なことはその時代のニホン人ならほぼ全員が知っていたことです、そのあとではマッカーサーの名前も昭和一桁生まれなら節をつけて歌えることでしょう(出てこいニミッツマッカーサー~♪)

これは相手の将軍の名前がニホンで新聞記事になっていたから知っていたことですが、文禄の役の記録で読むことのできる征韓録には李舜臣の名前は一度も出てきません、戦った相手の名前なんか知らないのが当たり前なのですから、記録があるわけはありませんが、李舜臣という名前がニホンで初登場するのはおよそ200年後の江戸時代中期となります。
つまり同時期に書かれた壬辰録は小説になり、もうひとつの李舜臣将軍のほうはいつのまにか史実だったとされてしまった可能性があるということです。
しかも”乱中日記”というそれらしく書かれた創作までセットになって彼の生い立ちから幼少期にことまでひっくるめて大河ドラマになっちゃったのかもしれません。


彼の死後に書かれた直筆の乱中日記
1700年代中頃に朝鮮では国内が疲弊しながら”実学” というのが流行りました(中国の実学とは全く別のもの)。これは朝鮮の歴代の王に追叙することから始まりました。
世宗大王という呼び名もこのころに付けられそれ以前は”世王”でしたね。
李舜臣の活躍という創作は実に手が込んでいます。実在した領議政の成龍の死後に書かれた懲毖録李舜臣将軍という記述が登場して、その前後に李舜臣将軍の日記が発見されこれがいろいろ書き加えられながらその乱中日記のなかに亀船が登場したりして ”超時空将軍” が誕生しました。その後、朝鮮王朝実録にも加筆が加えられると李舜臣将軍の大活躍は当時の朝鮮でも歴史的史実となってしまいます。

靖国神社を否定する理由もあった
あの青山里なんていうのは大陸馬賊討伐ですが、韓国の歴史ではニホン軍の連隊長までやっつけた大勝利なんだそうですよ。彼らはそれを信じちゃっていますから始末に負えないのです。「そんな戦いは無かった」なんて言ってもダメなので、証拠として加納連隊長が靖国神社に祀られた年月日がハッキリとわかっていますよね。そういう事実を突きつけられると韓国人はメンタル崩壊します、それで普段から”靖国神社悪役説” で記録を否定しようとするのです。

これと同じことを現在もまだ生きているペク将軍の英雄伝にしようとして本人の口から語られない活躍がものすごいことになっていたりするのも韓国人の特徴です。

ニホンでは人気の高いぺク将軍ですが、彼もまもなく100歳で死期が近づいているわけですが、彼の口から真実が語られることはあるでしょうか。
彼の部隊があったのは現在のキタ朝鮮の開城市にあった第1師団ですよ、師団の本拠地を開戦の半日で放棄して、その次に彼が歴史書に出てくるのは釜山です。カレが歩いて釜山まで逃げ延びたのか、汽車を乗り継いだのか知りませんが彼が指揮する部隊はすぐに壊滅しちゃったのです。彼自身の口から英雄伝が語られたことはありません、そういう役回りだったと本人が回顧録に書いています。

ところがペク将軍はその回顧録ですら口述という形でしか残していません。いくつもある回顧録では戦後になって明らかにされた敵軍の兵力や布陣が事細かに書かれていたりするので笑いどころ満点ですよ。国連軍と国軍を混用して新聞報道で韓国軍大勝利なんて嘘を記事にしたので韓国人の多くは”朝鮮戦争は韓国軍大活躍” なんてことを信じていますよ。

でも開戦の翌月には韓国軍は解隊されて、国連軍の指揮命令下に入りました。まぁ一方では軍事訓練も後方で行われました。実際の戦闘に韓国軍が参加するようになったのは停戦交渉が進んで中共軍と国連軍が兵力削減をしたそのあとです。



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李将軍の活躍した記録って鄭成功の活躍と似てるところがあるよ