3.1運動の独立万歳の写真がおかしいっ
97年前の今日...鐘路区タプゴル公園で叫んだ"の独立万歳"
1919年3月1日、日帝強占期の中で最大民族運動だって?
記事で紹介している写真は1945年8月16日のなんだけどな
[NEWSミーナ]ソウル鍾路(チョンノグ)タプゴル公園の雰囲気が尋常でない。 若い学生たちは誰かを待っているように焦っていますが、その人はどうも現れない。
演壇の学生が己未独立宣言書を朗読すると、残りの生徒たちが太極旗と一緒に準備された己未独立宣言書を市民たちに配った。
これを受け取った誰か"対する独立万歳"という言葉を低めに口に出し、その瞬間誰が先にというのもなく、すべての人々が"対する独立万歳"を大声で叫んだ。 1919年3月1日。日本の植民地支配期35年間にわたって行なわれた民族独立運動の中で最も規模が大きかった万歳デモが始まった。
3・1運動は事実そのして2月8日東京で先に開始された。 日本留学生の李光洙(イ・グァンス)、チェ・パルヨン、金ドヨン、ソン・ケベクなどは日本の心臓部である東京YMCA会館で独立宣言書朗読と共に万歳デモを繰り広げた。 2・8独立宣言だ。
国内独立運動家らはこれをもとに国内でも'独立意志'を見せなければならないという結論を下した。
当時、1次世界大戦が終わった後、世界列強らは弱小民族が、自ら意思決定をできるように解放させてやろうは意志を見せた。 ロシアレーニンは帝国主義に逼迫を受けた弱小民族を支援するとしており、米国のウィルソン大統領も、民族自決主義を唱えた。 独立運動家たちは'平和的万歳デモ'が独立に向けた民族の熱望を見せてくれるだろうと判断した。 ※民族自決は戦勝国の理屈、ニホンも戦勝国でした
当時、日本は、政治・経済・社会・文化の各分野において暴力と収奪をほしいままにする武断統治を実施したが、このために多くの抗日運動家たちを虐殺されたり投獄されており、農民のはじめとする民衆の生活は大きく悪化した。
結局、民族代表33人を中心に3・1運動の準備が進められた。 六堂・崔南善と万海・韓竜雲は己未独立宣言書を製作して太極旗と共に印刷した。 場所は塔骨(タプゴル)公園だった。 彼らが己未独立宣言書を朗読すれば、学生らは太極旗と己未独立宣言書を配る方法で平和的万歳デモが行われる予定だった。
しかし、いざ3月1日当日になると民族代表らは足を向けた。 鐘路区タプゴル公園に人がたくさん集まろうともすれば暴力闘争につながることを恐れたからだ。 これを知ることができなかった学生たちは大人たちを待ったが、自ら大韓独立万歳を叫ぶようになった。
平和的な万歳デモだったが、日本はこれらを平和的に接しなかった。 憲兵警察は刀と銃で無慈悲に市民たちを殺傷した。 しかし、国民はこれに屈しなかった。 鍾路(チョンノ)で始まった万歳デモは中小都市で全国に広がり、満州、沿海州日本米国など全世界的に伸びていった。
3・1運動が独立に連結されなかったが、実りはあった。 暴力的だった日帝統治方式は文化統治に変わって、それなりに韓国民族を蘇らせた。 だけでなく、以後、韓国民族は独立運動に対する自信感を持つようになって国外、内面的に積極的な独立運動をできる原動力になることもした。
(翻訳:みそっち)
どうにも写真が小奇麗なものですからクリックしてみるわけですよ そしたら違うんですって 韓国の”超時空独立運動”ではそのへんがごちゃごちゃなのです。
1919年のデモ集会と1945年の棚ぼた独立(アメリカ軍政だけどね)を意識的にまぜまぜしてるんですね。
当時の写真についている漢字交じりハングルさえも現在では解読不能なのですよ
そして韓国のほとんどのひとが柳寛順っていうのがこのときに官警に捕まって拷問されて死んだと思っているのです。