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嫌韓(いやかん)ってホントはどうなの?

あの6・25戦争英雄シムイル少佐 公聴会



軍、'まやかし戦争英雄議論'の中 シムイル少佐を探すこと

"太極(テグク)武功勲章適法" 一方的に結論を出して24日、公聴会
陸軍軍事研 "当時、史料には昭陽橋へ北朝鮮自走砲の進入事実ない"
松嶽山 '肉弾10勇士' も日本軍国主義の神話模倣疑惑


イメージ 1[国防ミーナ]軍事政権時代、教科書には 'シムイル小隊長を先頭に、5人の特攻隊が北朝鮮軍の戦車に飛び乗って砲塔のふたを開けて手榴弾や火炎瓶を投げつけて飛び降りと、炎が高騰し、…' という6・25戦争英雄シムイル少佐の武勇談が載っていた。

イメージ 3戦争当時、中尉だったシム少佐は1950年6月、対戦車砲を率いて南下する北朝鮮軍のSU-76自走砲を向けて砲弾を撃って命中させたが、ビクともしないと、5人の特攻隊を編成して手榴弾とガソリンを入れたサイダーの瓶を持って敵自走砲の軌道を肉弾に攻撃し、2台を破壊した。 後、春川(チュンチョン)市内に入ったこと自走砲1台を単独に破壊して国軍主力の退路を遮断しようとした北朝鮮軍の計画を頓挫させたということだ。

■'シムイル少佐'公聴会波紋予告
国防部はイ・デヨン前ベトナム駐在公使が、あるマスコミを通じて "シム少佐の武勇談は偽り" と証言すると、昨年6月に、事実かどうかを確認するための '故シムイル少佐功績確認委員会' を構成した。 24日には関連の公聴会を開く。
 
同委員会は "シムイル少佐に、太極(テグク)武功勲章が授与された過程は適法かつ正当な手続きによるもの" だと結論を下したという。 しかし、合理的に妥当な疑問点を排除した結論だという点で公聴会で波紋が広がるものと予想される。
教育部が昨年公開した '正しい歴史教科書特別のホームページ' には '大韓民国の真の英雄' というタイトルでシム少佐英雄談が紹介されたことがあり、公聴会の結果は、国定教科書をめぐる議論でも広がる見通しだ。
 
■核心争点
国防部は 'シムイル神話' が崩れる場合、6・25戦争当時にあった、日本の軍国主義を模倣した他の '偽の英雄づくり' 問題に拡大する可能性があると見ている。 軍内外ではこれを遮断するため、一方的な結論を下して '組み合せ' 作業をしたという疑惑が提起されている。

公聴会の核心的な争点は、'シム少佐が、太極(テグク)武功勲章を受けるだけの功績があるのか'と'春川(チュンチョン)戦闘で敵の自走砲を破壊したのか'などだ。

功績確認委員会は "6月26日、昭陽江(ソヤンガン)付近の戦闘がなかったという問題提起は、文書記録や当時参戦者証言と相反する根拠のない主張" と一蹴した。 シム少佐の功績は米国銀星勲章推薦書(1950年9月1日)と、太極(テグク)武功勲章功績書(1950年11月)などで確認されたという結論を出した。

しかし、陸軍軍事研究所は "銀星武功勲章や、太極(テグク)武功勲章功績書に記録された6月26日当時ソヤン橋には、敵の自走砲が進入しなかった"、"功績確認委員会が厳正な文献考証と検証の代わりに、むしろ資料を歪曲・誇張して削除、追加までした"と反論した。 そして、イデヨン前公使の主張を裏付けるラジュパエプ ソ連軍事顧問団報告書を傍証資料として提示した。

■番地は'6・25、偽の英雄'疑惑 
イメージ 2軍内部で数十年間、操作疑惑が出ている事例が、松嶽山'肉弾10勇士'だ。 国軍10人の勇士が1949年5月の松嶽山戦闘で迫撃弾を抱えて敵機関銃陣地に体を投げ出し、壮烈に散華したという内容がうそだということだ。
肉弾10人の代表であるソ・ブドク上士は6・25戦争後、北朝鮮中央TVにも出演したが、軍はこれを無視した。 各地の自治体では肉弾10勇士祭りを制定して、毎年追悼行事まで進行している。
国防部軍事編纂研究所で発行した<6・25戦争参戦者証言録文章1冊>(2003)によると、ここにも日本の植民地の'肉弾3勇士'のような操作で指摘されている。
肉弾10勇士は1932年日本軍国主義者らが操作した肉弾3勇士を模倣したというのが、軍専門家らの大体的な評価だ。
過去'肉弾3勇士'を報道した朝日新聞は2007年の誤った軍国主義時代の操作の記事であることを謝罪したことがある。

国防部は9日、公聴会招待状を各界に送りながらも主題発表者と討論者はもとより、社会者さえ公示しなかった。 これは、軍当局の一方的選定による後遺症のためという。 公聴会提案者らは去る17日に最終決定された。 委員会は来月中に最終報告書を作成する予定だ。


(翻訳/みそっち)



登場人物・用語解説

イ・デョン前ベトナム公使南ベトナム敗亡のときにサイゴンに残されて2年ほどハノイヒルトンホテル暮しを経験した、朝鮮戦争当時は前線部隊指揮官

シムイル中尉:戦争初日にキタ朝鮮の戦車を見て逃げ出した対戦車砲の人、その後流れ弾に当たって死ぬと故郷のおばあちゃん一人がかわいそうなので勲章を授与され、死後少佐になる。韓国の教科書で一般人としては最多登場回数を誇る

松嶽山'肉弾10勇士'朝鮮戦争開戦前年に38度線付近で迫撃砲弾運搬中の10人がキタ朝鮮軍に捕虜になったが、これを激怒した師団長に部下の某連隊長が ”壮絶な自爆” と訂正して報告したところ新聞ネタになって銅像まで作られた。※生き残りが戦後朝鮮中央テレビに出演したというオチもある

米国銀星勲章:シルバースター勲章、ニホンの金鵄勲章みたいなもの

国防部軍事編纂研究所:1970年代になって提議された超時空戦記物をおもに編纂している。白頭山艦(PC-711)の朝鮮海峡海戦や空軍10人のP-51空輸などの創作戦記物を得意としている


◇ ◇ ◇


あのほら、李舜臣将軍のお手柄ですが、あれは彼の死後60年も過ぎてから創作されたものですよね。そこに亀船なんていうのが出てきちゃうわけです。すくなくともそんなひとは超時空ヒデヨシ軍は名前も知らなかったし、どこかで負けたという記録もなかったりします。んでも中国の明の将軍の名前は記録にあるんですよ。二度の出兵は朝鮮半島でヒデヨシ軍と中国明の軍隊が戦った戦いでしたからね。

朝鮮で李舜臣将軍なんていう ”読み物” が創作されたのは彼の死後60年も過ぎた頃ということでいいわけですよ。そのころに彼の ”日記” が書かれて、彼の登場する読み物が ”懲毖録” というものですね。それがいつのまにか歴史書になっちゃって正史になったわけです。 ちなみに懲毖録が書かれた頃にはその著者はすでに死んでいたという記録もあるので二重三重に用意された超時空戦記物のつじつまあわせという点では少しは見習うべきところがあるかもしれません。

ちなみに功績確認委員会ってところの主張は ”戦闘があって戦功は事実で、その裏付けとして勲章を授与されている” というものですよ。そこに前ベトナム公使で当時部隊長だったのが ”ありゃウソだよ” と言い出して、陸軍軍事研究所が ”あのへんじゃ戦闘は無かったですね” という記録を引っ張り出してきたのです。

まぁ ”勲章をくれてやったのだから貰っておけ!!”ということなんですね。このへんでビクビクしちゃうのがニホンでもおなじみのペク将軍ですよ。

白将軍こそ何もしちゃいません。彼自身の指揮した部隊は存在してませんからね、彼が平壌に行ったのも米軍に通訳同行でくっついて行っただけの話です。
※ペク将軍が腰に拳銃を下げている写真は無い理由:カメラ記者と同様に戦闘に同行して観戦することが彼の任務だったからである。(カメラマンは拳銃持たないでしょ)

だいたい開戦初日にかれの師団(開城・ケソン工業団地のあるところにあった)はキタ朝鮮軍に負けて部隊が散り散りになってそれっきり再編されなかったんです。
つまり兵隊がぜんぜんいないのです。それでも韓国の歴史書は必死になって ”途中で徴兵しながら釜山に後退した” なんてこと言ってますけど、途中の徴兵は国民防衛軍みたいに裸足で飢え死してたわけですよ。それが通じなくなるといよいよ ”済州島まで後退した韓国軍は部隊の再編に...” なんてことを言い出しちゃうんです。そうなると韓国軍の再編が仁川上陸作戦に間に合わないというジレンマに陥りますよ。

ハングルの新聞が ”国軍と国連軍” を区別できなくて書き散らしたデタラメばかりがいつの間にか韓国の歴史になっちゃったんですね。

えっと開戦のあと翌月の7月14日に韓国軍は指揮命令系統はすべて解体されて(その時武器は武装解除されている)戦時作戦統制権が国連軍に移ります。その後、韓国軍は銃を持たずに荷役ばかりに従事しますよ。すくなくとも韓国軍としての軍事行動は単独では行えなくなったわけです。ですからすべての戦闘記録は国連軍に残ってるんですよ。そのために ”超時空韓国軍” は開戦から戦作権ポイまでの3週間の間だけで活躍するということになっています。

ほら見えてきたでしょ 白頭山艦 ムスタング空輸 これらは全部創作なのです


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韓国人は日めくりカレンダーをめくるように嘘をつくんです。

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