minaQのつぶやき 네토미나

嫌韓(いやかん)ってホントはどうなの?

今度はABCマートが憎い



ABCマート、日本本社へロイヤルティだけで数百億ウォン

'靴専門ショップ1位' 国内進出の際日本の持分51%の韓日合作企業としてスタート
最近100%近く拡大…常時割引・攻撃出店で国内メーカーとの格差を開けて


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[ソウルミーナ]日本の靴専門ショップ企業ABCマートが韓国内でこの7年間ロイヤルティの名目で約347億ウォンを持っていくことが確認された。 同期間の累積営業利益2571億ウォンの約13.5%に当たる金額だ。

現在、本社の持分率が100%に近い日本企業であることにも国内進出初期に韓日合作社で市場に早く安着した利点をベースに、韓国の後発業者らを大差で振り切って、1位に君臨している。 
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2002年12月、狎鴎亭1号店を皮切りに、国内事業を開始したABCマートが日本にロイヤリティを支給したのは2010年からだ。 2010年1月1日から日本本社と'ABCマート'商標権および履物ブランド'ホーキンス'販売権に関する契約を締結し、毎年一定額を支給している。 

本社が持ち帰ったロイヤルティーは△2010年25億4303万ウォン△2011年33億9290万ウォン△2012年42億8190万ウォン△2013年52億2093万ウォン△2014年60億106万ウォン△2015年63億740万ウォン△2016年69億5653万ウォンなど7年間で約347億ウォンだ。 昨年にはロイヤルティーのほかに支配会社の配当支払いの名目で40億7528万ウォンを追加で持っていった。

ABCマートは国内進出当時、日本本社の持分51%で日韓合弁会社の形で開始し、市場に早く安着した。 2009年の売上1348億ウォンに進出7年ぶりに1000億ウォンを突破して以来、支配構造に変化が生じた。 本社の持分率は2010年68%、2011年100%に拡大された後、2015年まで維持した。 昨年末には本社の持分99.96%、国内の経営陣が0.04%保有した構造に変わった。
※2011年に前の韓国人経営者が不正会計で追放された。


シュマコ(shoemarker)、レスモア(lesmore)、フォルダ(folder )など、国内会社が登場し、市場が大きくなったが、ABCマートは独歩的な1位を維持している。 2・3位の企業が最近、3年間1000億ウォン台の売上に留まっている間にABCマートは△2014年3718億ウォン△2015年3976億ウォン△2016年4334億ウォンの売上で、格差を広げた。 売場の店舗数も2003年10件だったのが、最近200個に増えた。

業界ではABCマートが市場の優越的地位をもとに、同伴成長を損なっているという批判の声が出ている。 他社に対して大規模な物量が供給される条件をもとに同じ製品も安く販売し、独歩的な価格競争力を持っているためだ。 ここに韓国メーカーというイメージが強く、'反日感情'ハンディキャップもなしに、国内で大活躍しているという指摘だ。

A会社の関係者は "国内進出以後、支配構造の変化がよく知られておらず、日本問題の度に、不買運動に批判される他の日本ブランドに比べて注目が足りない"、"価格メリットもあるが、ライバル会社割引行事時対応できるよう、売り場ごとに常時使用できる割引広報物を具備していると聞いている"と話した。 

B会社の関係者は "核心商圏の具合の良いところには店舗を出して、認知度はさらに高まっている"、"'常時割引'イメージも強く、後発会社の立場では価格競争で持続的に不利な状況に置かれるしかない"と吐露した。

これに対してABCマート側は"ABCマートは、大規模な物量の確保、地域別の特性を反映した店舗などで差別化した戦略で競争力を育ててきた"、"配当やロイヤリティーの支払い比率などは、本社の政策と関連した内容で細かく明らかにし難い"と話した。


(翻訳/みそっち)


 
 
あのほら、合弁企業でいいのかな、現地の韓国人もお金を出して経営権に参加してくるアレなんですが、現地の経営者は例によって会社のお金は自分のお金という感覚ですから、つい捕まっちゃうんですよ。 
その共同経営者っていうのが秘密資金造成の背任・横領・財物損壊や業務妨害でクビになると3年ぐらい争っていたけど韓国の裁判所は ”韓国人無罪” の原則で無罪判決してました。結局ニホン法人が株式を買い取ったし健全な経営もあって業績が伸びたんですね。 クビになった前の社長さんは、いまでは別の靴屋さんの社長におさまっているのかな。


そんな時に韓国から撤退するか、現地の株式を全部買い取るかってところなんですね。 そうやって韓国から手を引いたニホン企業も多いんですが、こういうのもあるというわけで。 いえいえ東京靴流通センターが近くにあるから・・・(チガウシ)





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特別読み切り付録


韓国の履物事情⑫
 
 
日帝強占期に入ったゴム靴、韓服の基本だ

歴史と伝統がゴム靴だって? 朝鮮皇帝も履いたゴム靴
1960年代の国交回復からニホン向けの下請け生産で活況に、



イメージ 1[ソウルミーナ]韓服はわが民族の服でありながら、もう、大多数の人々にそっぽを向かれ、道で韓服を着た人を見ることが難しいです。

ところが、韓服を着た人を見るとゴム靴を履いた人が多いですね。 まるでゴム靴が韓国の伝統浮かれてなるように言葉です。 それもそのはずが我が韓国の韓服で学界最高学者であるとの方は自分の本に、"最近はたいていゴム靴と靴を兼用しているが、韓服には足袋にゴム草履を履くのが原則だ。"としていました。 正しい言葉でしょうか。
※ゴム底の靴ではなく、すっかりゴムで出来た朝鮮草履のこと
 
  
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▲60~70年代に人気を集めていた黒いゴム草履(左)、鋼鉄よりもっと丈夫という日帝強占期の地球印ゴム靴広告(右)  ※これが割と厚手で重いらしい


イメージ 6日帝強占期直前まで朝鮮人は、裸足か草鞋と草履を主に、両斑らは革で作った革靴でテサヒェ(太史鞋)やダンヒェ(唐鞋)を履きました。
最近になり創作された新素材の草履►
しかし、草履やわらじはザラザラしているだけでなく、不便で雨が降る時に履く下駄も厚い足袋を履かなければ、足が痛くて遠く行くことができませんでした。
 
このような朝鮮人にあった1910年代末、ゴム靴が入りました。 ゴム靴は"ホモファ(護謨靴)"としたが、"ホモ"の日本式発音が"ゴム"だったのです。

ゴム靴は、わらじ五足分の代価を払ってやっと一足買うことができるほど高かったが、着用感がよく、経済的なゴム靴の需要は爆発的でした。

イメージ 3当時、ある新聞では"昨年(1921年)以来、ゴム靴がどうしてよく売れるか京城はもちろん、地方僻村で、草履を履いていた人までようやくぐにゃぐにゃしたゴム靴を履けるようになった。"としたんです。
 
しかし、このようなゴム靴は丈夫ではあるが、汗が出れば、抜け出すことがないため、衛生上で深刻な問題がありました。

これによってゴム靴中毒によって、幼い子供と女子生徒たちの足に腫れ物やできものが出来て問題を起こすという報道が新聞に出たりしたんです。
※ゴムの成分で足裏が茶色になるらしい
  
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そのようなゴム靴を韓服に基本だとは、まったく合わない話です。 韓服は朝鮮時代に定着した服です。 したがって、韓服を着るときは、朝鮮時代の人々が履いていた靴を履くのが原則だと言うべきことです。 ※古写真を見るときには足元にも注目しましょう
 
ただ、今では草履や紙のわらじを履いては悪いので、それに固執することはできないのです。 今テサヒェに踵をつけて改良したものが出て、国楽人らが公演する時履く革靴があって韓服には似合います。


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伝統革靴と草履を模倣して製作されたゴム靴?
伝統革靴と草履を模倣して製作されたゴム靴は1916年、日本の植民地時代に大いに流行した。 手頃な価格と強いゴム材質で作られたゴム靴は長く履くのにぴったりだった。
ゴム靴は、当時にゴム製品では履物が唯一の生産品だった。 また、革靴やダンヒェ・草履より防水がうまくなって実用的であり、価格も紙が25銭に比べて40銭と安かった。
ゴム靴の需要が増えたのは日本の靴業者らが朝鮮に入ってきて出す販売を開始してからだ。 これによって数千年間、庶民が履いていた草履は次第に消えて、ゴム靴は需要の増加で品薄現象が起きたりもした。

朝鮮で最初にゴム靴を履いた皇帝は純宗だという。 このように朝鮮の人々にたくさんの愛を受けてきたゴム靴は値段が安くて便利であり、長持ちする長所だけでなく、皇帝、両班(ヤンバン)、商人、白丁の誰彼なしにみなが好んで履いたために身分を判断できない靴つまり'平等の靴'だった。
 
イメージ 81960年代ソウルの町はずれを背景に描かれている我が国の代表アニメ'黒いゴム靴'►も一時代を風靡したゴム靴の'平等さ'を加味した思い出の漫画だ。
3代が集まって住んでいる大家族の家の息子の小学生のキエイと丸坊主の中学生キチョリが行ったさまざまな物語の中に貧しい環境も家族間の愛で勝ち抜くメッセージを込めて、国民に愛されてきた作品だ。 
※1950年代を舞台にした韓国アニメ、1992年に連載開始され1999年にカラーでアニメ化された

一方、1960年頃から足の皮膚と衛生的な面を考慮して製作された運動靴と西洋から入ってきた靴が生活化されてゴム靴は次第に姿を消したものの、依然としてゴム靴は、当時の時代的背景を見せてくれている。

今はたとえ'変心'したときに使われる言葉で意味が変形された部分もあるが、厳しい時期を乗り越えとした1900年代当時、国民の必需品'ゴム靴'こそ韓国の真の固有の文化ではないだろうか。

(朝鮮ゴム草履研究家:みそっち)



ゴム靴

英語の表示:Rubber Shoes
分野:政治・経済・社会、経済・産業、生活・民俗/生活
タイプ:概念用語/概念用語(一般)


[定義]
釜山地域でゴムを材料にして作った靴。

[はじまり]
開港と共に釜山地域に新たな物資が流入し始めたが、ゴム靴も当時、流入された物品の一つだった。 ゴム靴が入ってくる前まで韓国人たちが愛用していた最も庶民的で大衆的な靴は、まさに草鞋だった。 しかし、草履はすぐになくなる上、雨の日には白い足袋が濡れてしまっている反面、ゴム靴は耐久性と着用感が優れて防水がうまくいってたいへんな人気を集めており、高級品で認識された。

 
▲各種新聞広告 1970年代まで見かけることが出来る
 
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日帝強占期から生産され始めた黒いゴム靴は光復と6・25戦争を経て、大韓民国最高のアイコンになった。 当時、ブームは最近流行する'ナイキ'や'アディダス'それ以上だった。 代表的な黒いゴム靴ブランドは、大半が釜山地域で生産されており、国際化学・テファゴム・三和ゴム・東洋ゴムなどは韓国の靴産業の先鋒であり、中心地だった。 これは1965年の韓日国交正常化後、日本の靴業界が、低賃金や豊富な労働力の活用が可能な釜山を生産基地にしたのが決定的なきっかけになった。

 
[変遷及び現況]
釜山(プサン)地域の靴産業は1923年8月釜山広域市東区佐川洞688番地に日英ゴム工業社を設立したことから始まった。 日英ゴム工業社は、当時、年間19万2000足のゴム靴を生産した。 1925年21ヵ所だった靴の工場が1933年72ヵ所へと急増すると、政府が13ヵ所の靴の工場を合併した。 これによって1934年9月18日、東区凡一洞に三和ホモ(三和護謨)が設立された。 当時、年間1000万足を生産できる施設を備えており、、1937年日中戦争当時には軍需工場の役割を担当した。

光復以後、釜山(プサン)の靴メーカーは、サムファゴム[1952年に設立、三和ホモ払下げ]・ボセンゴム[1936年に設立]・朝鮮ゴムなどの敵産工場と京城ゴム・ササンゴム・天日ゴム・新興ゴム・新羅ゴムなどの土着資本、国際化学[1949年に設立]・テファゴム[1945年に設立]・東洋ゴム[1953年に設立などの新興の資本が三つ巴(三巴戰)を浮かべながら成長した。

1950~1960年代の代表的なゴム靴商標では京城ゴムの満月ピョ、国際化学の王子印、太和ゴムのマルピョ、三和ゴムのボムピョ、東洋ゴムの汽車票、チンヤンゴムのチンヤンなどがあった。
ゴム靴工場は現在の釜山鎮区凡川洞、東区凡一洞など洞天(東川)周辺に密集した。 洞天では産業用水の供給を受けて、近くに追い込まれた避難民で労働力も容易に確保することができたからだった。 これによって太和ゴム、三和ゴム、東洋ゴム、チンヤンゴム、ボセンゴム、大洋ゴムなどがこの洞天一帯でゴム靴を生産した。

1960年代半ば以降、日本から新しい靴製造技術が入って布靴[canvas shoes]、ケミファ[人工皮革、化学繊維利用、chemi shoes]の生産が増加した。 1970年代以降は、生活水準が向上され、靴の主力製品がゴム靴からスニーカーに変わってしまった。


(翻訳:みそっち)


 
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