minaQのつぶやき 네토미나

嫌韓(いやかん)ってホントはどうなの?

江南の人口増加と時代背景や



'江南(カンナム)が発展した理由は何だ

田舎田舎だった江南から '天地開闢' の道に  
すぐ先の城南市には清渓川のバラックに住んでいた被災民を強制移住させたことも



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[ソウルミーナ]事実、わずか数十年前までは江南なんて大したものじゃなかった。 行政区域上、京畿道だった江南3区(江南・瑞草・松坡)がソウル市城東区編入されたこと自体が今からやっと55年前の1963年だった。 

ソウル市に編入されたものの、江南は依然として立ち後れた地域だった。 '夫無しでは暮らせても長靴無しじゃ暮らせない' という言葉が出回るほどだった。 道路が舗装されず、雨が降れば足がすっかりはまる泥んこの道だったためだ。

そんな江南に1960年代末から変化の風が吹き始めた。 いや、風を強制的に呼んできたという表現が合いそうだ。 様々な要因があいまって必然的に江南を発展させなければならない状況だった。


最も代表的な理由は爆発的な人口増加だ。 解放当時90万人だったソウルの人口は1966年379万人を超えた。 そして1980年までの15年間で、489万3,500人がさらに増えた。 1日平均900人余り。全世界を一概にも前例がない人口増加傾向だった。 

朴正熙(パク・チョンヒ)大統領にこれは大きな負担だった。 すべての都市機能が江北に集中している当時の状況でこのような人口増加傾向は副作用を伴わざるを得なかった。 住宅と上下水道、学校、交通の便など、あらゆるものが不足した。 江北(カンブク)に密集した人口を江南に分散しなければならなかった。 
※この江北とは現在の江北区ではなく、漢江の北側全体を差す


南北の葛藤が極限に達した時代的状況も江南を開発しなければならなかったもうひとつの要因だった。 韓国戦争当時起こった漢江人道橋の爆破事件がソウル市民の記憶の中に依然として残っていた1960年代末。一年おきに起きた1・21事態(1968)と蔚珍三陟(ウルジン・サムチョク)武装共匪浸透事件(1969)はソウルの人口を漢江(ハンガン)以南に分散し、政府の主要機関も移転しなければならない直接的な理由だった。 
1・21事態(1968)青瓦台襲撃未遂事件と呼ばれる、同日キタ朝鮮の特殊部隊が徒歩で38度線を越えて青瓦台の裏山にある彰義門で警察の検問で足止めされるまで浸透した事件。
蔚珍三陟武装共匪浸透事件(1969) :1968年の年末の2か月間キタ朝鮮の特殊部隊が東海岸から浸透しゲリラ戦を続けた事件

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このような状況で発表された経済開発計画は江南(カンナム)開発の引き金になった。 朴正熙(パク・チョンヒ)大統領は、輸出主導型経済開発計画を樹立して蔚山浦項、昌原(チャンウォン)など、慶尚道圏に工業団地を造成した。 問題はソウルとの接近性だった。 このため、1966年第3、漢江(ハンガン)橋(漢南大橋)を建設し始め、1968年、これと連結される京釜(キョンブ)高速道路の着工に入った。 この時から江南は '天地開闢' の道に入ることになる。


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江南(カンナム)開発は永東地区の事業という名で施行される。 今の江南・瑞草一帯は、当時は永登浦区の東という意味で永東(ヨンドン)と呼ばれた。 1968年の永東(ヨンドン)土地区画整理事業は、京釜(キョンブ)高速道路敷地を無償で確保するためだったし、1971年の永東(ヨンドン)〜2地区の事業は江北(カンブク)の人口を分散することに焦点が当てられた。 

このころ、江南は電気はもちろん、公衆電話や電信電話取扱所もなかった閑静な田舎だった。 永東(ヨンドン)地区の事業で、ここに道路が敷かれてマンション団地と一戸建て住宅が分譲され始めた。 破格的な支援策はおまけだった。 ソウル市は江南に住居移転を促進するため、1972年'都市開発促進によるソウル特別相場の課税免除に関する特別条例'を制定した。 公共機関が永東(ヨンドン)地区内に建てた建物には取得税が免除され、その他追加的な税制恩恵も加えられた。 

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江南不敗の序幕は、この時から開かれた。 1963年から1970年まで、江南区鶴洞の土地の値段は20倍、狎鴎亭洞は25倍、新沙洞は50倍上がった。 同期間に、中区新堂洞が10倍、龍山区厚岩洞が7.5倍値上がりしたことに比べれば、大変な上昇傾向を示した。  

土地の値段は上がったが、江南は江北(カンブク)に比べて依然として立ち後れた地域だった。 人口分散のためには、さらなる措置が必要だった。  


◇高校も相次いで江南に移転 まさに南岸開発計画

1972年の江北(カンブク)の都心は特定施設制限区域に指定される。 鍾路区と中区、西大門区一帯の各種風俗施設許可と移転を禁止して、デパートと大学等の新設・増設も阻まれた。 こんなに江北(カンブク)の都心発展を妨げた状態で永東地区は1973年に開発促進地区に指定される。 不動産投機抑制税、営業税、登録税、取得税、財産税、都市計画税、免許税がすべて免除される破格的な恩恵だった。

各種支援を背中に伏せて1970年代初め~半ばまでに盤浦(バンポ)住公アパートと鴨鴎亭の現代(ヒョンデ)アパート、そしてこれが再建築が進行されて大規模なアパート団地が建設される。 永東(ヨンドン)地区の事業で開発され始めた江南の骨格が獲得される瞬間だった。 

江北(カンブク)に位置した名門高等学校の移転も、この時から行われる。 京畿(キョンギ)高等学校を皮切りに、徽文(フィムン)高校とソウル高、京畿(キョンギ)女子高校に至るまで15校が今の江南4区(江南・瑞草・松坡・江東)に移された。 

江北(カンブク)の高速バスターミナルが江南(カンナム)に移転したのもこの時期だった。 ソウル市は、都心集中緩和と江南(カンナム)開発の促進に向けて1976年、江南(カンナム)高速バスターミナルを建設する。 わずか4ヵ月ぶりに急造されたターミナルは当時でも江北(カンブク)ターミナルから出発する高速バスがちょっと寄って行く途中乗車場の概念だった。 江南(カンナム)開発の目標と合わない状況を打開するために、政府は翌年の1977年、江北(カンブク)ターミナルを江南(カンナム)に移転しという行政命令を下した。  


骨格を備えた江南が大きく成長したきっかけは地下鉄2号線だった。 1978年に着工され、1984年に完工した地下鉄2号線は江北(カンブク)人口の江南移住を目に見えて増やした。 着工直前に、ソウルの人口は752万人で、江北9つの区が489万人、江南4区は263万人だった。 人口の割合は65対35に江北(カンブク)の人口密度が圧倒的だった。 地下鉄2号線が完工された翌年の1985年には状況が大きく変わった。 ソウルの人口964万6,000人のうち、江北(カンブク)10区の人口は522万人、江南7区の人口は442万6,000人で、人口比率差が縮まった。
※このころソウル市の周辺が相次いでソウル市に編入された、1980年当時のソウル市は17区だった(現在は25区ある)


◇高校平準化ながらも江南は名門を保つ

1980年代、江南の成長をけん引したのは教育熱だった。 ソウルで高等学校入試がなくなり、高校平準化時代が開かれたのは1974年のことだ。 この時から中学校卒業生は抽選制で高校に入学することになる。 学区制の導入だ。 ソウル市庁を中心に半径3km以内の地域は、共同学群に、残りの地域は5つの一般学区に区分された。 共同学群だけでソウル市内の文系高等学校87つのうち、46個が密集しているほど、江北の都心密集現象はひどかった。 

以降、江北(カンブク)の名門高校が江南(カンナム)に移転し、大きな幅の制度の変化が断行される。 1980年に行われた居住地中心の完全学区制がそれだ。 出身中学校中心の高等学校割当方式を居住地中心に再編したのだ。 共同学群に位置したソウル市内の最高の名門高校がすでに江南(カンナム)に移転した状況では。これらの学校はもう江南に居住する学生たちだけが入学できる学校になってしまった。 


実際、江南内の名門高校の躍進は、この時から目立つ。 完全学群制世代が初めて大学に進学した1984年、ソウル大学合格者の数を見ると、明確に表れている。 永東高校 78人、京畿高校 の74人、サンムン高校 の58人、ソウル高校 54人などだった。 高校平準化世代が初めて大学に進学した1977年、江南(カンナム)内の高等学校でソウル大学の合格者を最も多く輩出した永東高校が17人に止まったことを見た時に大きな変化だった。

◇'金があるなら、南下して、江南(カンナム)行けば名門大学行く' 

そんなに江南の名門高校が浮上し、江南の人口も暴騰する。 1980年代半ば、ソウルの世帯の増加率は7.9%、高校生の伸び率は1.2%に対して江南、瑞草(ソチョ)の世帯の増加率は23.4%、高校生の伸び率は57.5%に達したほどだった。  

江南の教育と不動産が合体するようになった時期がこの時からだ。 いわゆる'金があるなら、南下して、江南(カンナム)行けば名門大学行く'は言葉が飛び交った。 高位公職者聴聞会の時に、必ず登場していた偽装転入と不動産投機もこの時期から登場した。 


◇ ◇ 

さまざまな商業、オフィス施設が江南に入り始めたのは1980年代末からだ。 地下鉄2号線が開通し、江北(カンブク)の都心にいた企業が一つずつ江南(カンナム)に移転し、ソウル五輪誘致をきっかけに開発に拍車が加えられた。 特に江南を東西に横切るテヘラン路を中心に超高層ビルが摩天楼を形成し始めた。  

発展に発展を繰り返してきた江南(カンナム)だったが、事実1990年代までには江南の住宅価格は江北(カンブク)とは大きな格差がなかった。 盧泰愚(ノ・テウ)政府が1980年代末から第1期新都市建設を推進し、全般的な住宅価格が安定傾向を見せたおかげだ。 1997年発生した国際通貨基金(IMF)事態で経験した史上初の住宅価格の暴落も一役買った。 

実際、江南住宅価格が周辺部との格差が本格的に広がり始めたのは2000年代序盤からだ。 江南に位置した五万世帯余りの低層マンションの再建築が本格化し、もう一度開発ブームが起こったおかげだ。 1970年代、多くの恩恵の中に誕生した大規模な団地が高層住居村として生まれ変わることで、江南住宅価格は天井知らずに上昇した。 以後、江南は2008年グローバル金融危機の揺れも乗り越え、富裕層地域への立地を堅固にし、持続的な上昇を続いている。 もう江南の不動産価格は江北(カンブク)と比較することにも見るに忍びないほど高く上がってしまった。 

結果的に江南を'江南'で作ったのは、政府の政策だった。 江北(カンブク)に追い込まれた都心の機能を分散するため、多くの恩恵と開発を続けてきた末に今の江南(カンナム)に達した。 今になっており、人為的に江南不動産価格を抑えるというのが難しい理由だ。 



◇江南住宅価格、対策はないだろうか 

文在寅(ムン・ジェイン)政府はすでに再建築、貸し出し、請約、税金など江南不動産価格を抑えるためのほぼ全てのカードを書いた。 需要を減らすための強力な規制は、市場でかえって好材料となっている。 多住宅者たちは地方に分散投資した資金を回収して'はきはきしたあるまま'がある江南(カンナム)不動産に移行している。 特殊目的高校と自立型私立高校を廃止するという教育政策はソウルの他地域と首都圏各地に分散されたメンモドゥルの足を再び江南に戻している。 このような状況に安全診断強化で再建築事業の推進を困難にした政府の決定は新規の供給すら減らすものと見られる。 

特に'妙案'は見えない。 保有税引き上げカードをいじっているが、やっぱり需要抑制策に過ぎなかったうえ、金額が大きくなく、江南不動産を所有している富裕層に負担を与えることを大変だ。 残った選択肢は供給増加だ。 これさえも容易ではなさそうだ。 江南には空いている土地がほとんどないため、古いアパートを崩して新たに建設する再建築事業に新規供給が行われる。 文在寅(ムン・ジェイン)政府はすでに安全診断基準を強化しながら、新しい再建築事業を事実上、不許可した。 

そうとすれば、残りのカードは一つだ。 需要者に江南以外の選択肢を握って与える方法である。 江南の人気が高いものは単純に家が好きだからではない。 立地、交通、学区など、多様なインフラが江南に集中されたおかげだ。 江南地域に大企業のビル、便宜施設など各種インフラが集中するのを規制するとともに他の所に地下鉄、病院、ショッピングモールなどのインフラを建設して代替地を作ってくれば、需要の分散を図ることができる。 実際、盧泰愚(ノ・テウ)政府当時、江南を代替できる1期新都市が建設され、江南住宅価格が安定した事実がこれをある程度支えてくれる。  

電気も入っていない田舎から誰でも進出をを夢見た地域へ。1960年代末からこれまで半世紀の間、江南は、圧縮成長のすべてを見せてくれる、わが国で最も高い町で、生まれ変わった。 これから先の江南はどう変わっていくか。 




韓国は高層アパートというイメージがありますよね、ところがそれは最近の建物だけのハナシで、スゴイのや物凄いがまだまだたくさんあるのです。あれが分譲なんだけど自己所有もあれば又貸しで家賃で住んでる人もいたりして権利関係がぐしゃぐしゃなんですよ。そんなのがにょきにょき建ったのが1980年代になったころです。もちろんすべてが韓国式施工ですから、見ればあちこちがひび割れたりしながらとんでもないことになっています。 

そして居住者が全員 ”韓国人” ですからね、建て替え計画なんてものがまとまるハズも無いことは容易に想像できるかと思います。


◆現在の低層5階建てを21階建てに建て替える際(再建築)に新しい入居者が相応の費用負担をすれば現在の居住者は一切の費用負担することなく江南の新築高層アパートを手に入れることができる>>>> もちろんその部屋を転売したり又貸しすれば現在の居住者は江南で永遠に安寧な暮らしが保障されるニダ...。 ということなんですね。
※場所は ココ マジでそう考えているらしい




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ニダニダァ~








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