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嫌韓(いやかん)ってホントはどうなの?

あの朝鮮戦争でも活躍した韓国人荷役隊の源流

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大院君が使いニホン軍の手先にもなった軍隊があった


あの朝鮮戦争でも活躍した韓国人荷役隊の源流は朝鮮500年続いた褓負商
現代に残された朝鮮文化の内で褓負商団のみは民族的魂魄を有して居った




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[ソウルミーナ]現代の朝鮮人は最早この ”褓負商” の文字すら判らぬようになったが李氏朝鮮五百年間民族の生活を支配し、民族的窮習と行跡とを残したものは只だこの制度一つである


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負褓商ともいう。朝鮮で各地の市場を巡回する行商人をさす。おもに金属器,冠,笠,筆墨などやや高価な雑貨を取扱う褓商と、木器,土器,草むしろなどやや安価な日用雑貨を取扱う負商の総称。その発生については諸説あるが,新羅統一期前後と考えられ,朝鮮王朝 (李朝) 時代に政府の公認を受け,組合をつくり,固い規律のもとに活発な商業活動を展開した。
彼らは平時は商業に従事し,有事には運糧,偵察,通信などの軍務に献身した。朝鮮王朝末期にいたり政治団体に動員されることもあり,光武2 (1898) 年には守旧派の皇国協会の行動隊として独立協会を襲撃し,その後は共進会と称し尊王改革を標榜,あるいは一進会と呼応して日韓合邦論を主張したりもした。


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李氏王朝五百年間、魚、塩、水鉄、土器、木物、麺子等の百貨を独占専実したる坐買行商した褓負商、京郷三千の市場と問屋を管理した左社と右社、そして慶弔相助の約束を実践し、強盗土匪の荒掠を防衛し、行路に悩む病人、国難に赴く義勇軍、これ五百年間褓負団の姿であった
恰も近代的青年団と称する若者が異様な風采にて肩を立てつつ歩くが如く昔の褓負商民は頭に綿花をつけたる尖角の冠—平涼子を彼むり、手には勿尾杖を帯び、元気よく洞里の巷や都邑の辻々に横行闊歩して居った
この団は今より二十五年前(1910年頃)にその形貌を廃せられ、その団体の特権と存在まで禁止された、爾来二十有余年、彼等の頭目や重なる残徒は、王朝五百年の長かりし彼等の歴史を振りかえり見て幾多の手を改め品を換えて其改造と存在の認許をその筋へ陳情したが、当局は遂に之を許容しなかった、否な之が改造の研究すらも専念しなかった


近代の事跡

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この商団近来の事跡に就いて二三の事跡を語ろう。 西暦1866年フランス艦隊が江華砲撃に際して摂政大院君の国防軍に投じて最も勇敢に戦った軍士はこの団員であった、彼等はこの国難に際して戦場の勇士であったばかりてなく運搬、通信、探情、治安等の任務にもこの商兵が最もよく活動した、そして天主教禁圧の下手人は大抵この団体に委かせられてあった、故に大院君はこの商兵の総裁となり、この団の頭目中より高官に任用したものもあった。

その後東学党の乱に際して朝鮮政府はこの団員を以て東学軍に対抗させた、明治二十七年四月古阜黄土峴の戦に於いて東学軍と戦い七白余名の戦亡者を出した話は有名である、褓負商団の憲法は如何なる場合に於いても、王家の命に赴き、国の指揮に従い、官憲の下に服従することがこの商団唯一の信条である


独立協会一進会 ⇔ 皇国協会褓負商

降って明治三十一年独立協会の運動が起り、青年党の改革運動漸く猛然となるや、王宮政治家は遂に独立協会に対抗するため褓負商を以て皇国協会を組織し、この二団の対抗は一時革命騒ぎの如くであった、独立協会と皇国協会の対抗運動は近代朝鮮の大争闘であった

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日露戦役が始まり、一進会なる一団が興り、日本軍のため運搬其他の便用を務めた、当時この団を指揮した宋秉峻は東学徒の残類を集め、遂には東学の残徒巨頭によって一進会を動かしたゆえ遂に東学徒と宿怨浅からざる褓負商は一進会より手を引き遂には日韓併合に功労多かった一進会より断然排撃された、併合後真先きに解散せられたのはこの褓負商であった

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形式は無くなったが五百年間の実態は現存した、それ故彼等は屡復興を計った、大正八年の万歳騒動、日本勢力排撃の民族運動が始まった時に於てその主要勢力は東学の変体である天道教であった、その巨魁は東学の首領 ”孫秉熙” であった。
褓負商は彼等復興の機会は今日なりとして日本の命に従い、総督本府の指揮に服従し、蹶起結束してかの万歳騒動に当たるべく申し出でた、大正八年の末方より九年秋まで彼等の頭目等が商務研究会、総商社、総商協会、商務社の看板を揚げて排日運動に対抗したその目覚しき行動と熱情は最早現代の官場人も言論子も忘却したかも判らぬ、特に大正九年十一月三日を期して万歳派の青年団排日主義の青年連盟に対抗し、之を撃破した事跡は目覚ましきものであった

万歳騒動の鎮定、民族運動の休止に就て、彼等褓負商団の貢献は尋常でなかった、故に彼等は大正九年末より昭和三年に至る間、如何かして商団の改造と復興に尽力して官の諒解と国の認可を請願したが、遂に彼等の報酬は無かった。少くとも万歳騒動に抗して日本の国憲に忠実なりし彼等の働らきを侮笑の下に葬り去ったことは甚だ心残りした事件であった


大正九年十一月三日彼等は誓って排日運動の青年団と戦う決心を以て南大門並に通路に出勤したが早くもこの事排日派に知られ遂に無事にして鎮定した、排日運動が気勢を無くしたことはこれからであった
大正九年の秋彼等の首領等は連合協議の末国境整備の補助任務に就くべくその臨機の万策とて国境開市の管理を与えられたき旨を請願した


(ソウル/みそっち)



というわけで 朝鮮軍は行商人 だったというおハナシです。 だってほら、朝鮮軍には将軍や部下はいたけど兵隊はいなかったでしょ。兵役はあったけど兵役の対価は布貨を納めることで免除だったでしょ。 そいうわけで朝鮮には訓練された兵隊という職業がなかったのです。

※最近朝鮮時代の歩兵の鎧が帰ってきた。でも実際に捕虜になった写真はこれ


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1871年辛未洋擾当時、米軍の捕虜となった朝鮮軍。(同じ格好してる)


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1950年、韓国軍ってどんなだった?

かの、朝鮮戦争で韓国軍が活躍した写真で、彼らが銃を持っている写真はほとんどありません。前にも度々紹介してきたように、戦争当事国であり、大活躍をしたと堅く信じられがちな韓国軍ですが、実際には1950年7月14日に軍の指揮命令系統がアメリカ軍に移譲されます。その段階で韓国軍という作戦指揮系統はすべて、米軍からの命令を受けることになりました。

6月25日の初日に総崩れした韓国軍精鋭10万ですが、着ていた軍服や装備品はニホン軍が仁川に残してきた被服廠にあった旧軍の上下でした。つまりゲートルを巻いたニホン式軍隊だったわけです。

それが着の身着のままで釜山まで後退するあいだに韓国軍っていうものは無くなってしまったのです。(釜山で再集結したら3万人)



その残存兵力が米軍の武器供与を受けて最前線で戦ったということなら韓国軍もなかなかやるねっ!っとなりますが、実際には米軍との作戦会議ですら意思疎通が困難な韓国兵の使い道は戦場には無かったのです。


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▲変な帽子をかぶり旧軍開襟軍装に九九式小銃を
装備した南朝鮮警備隊はそのまま韓国軍となる

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▲ニホン式装備で教練を受ける韓国国軍兵 彼らは銃を持つのが初めてだった
※こんなのに小突かれながら韓国軍慰安婦になった慰安婦が大勢いるらしい。



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▲ニホン式軍装品そのままの南朝鮮警備隊の人と後方は警察部隊
ニホンの将校がこんなベルトの締め方をすればすぐに整列である。


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▲韓国では封印された韓国陸軍の写真、朝鮮戦争直前の様子
韓国人にとっては初めての軍隊創設が旧軍の装備だった

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仁川被服廠にはニホン軍の軍服がいっぱいあったし

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朝鮮戦争が始まると韓国人の本領発揮で荷役部隊に従事

ちなみにバラバラになった当時の韓国兵は敵前逃亡で全員処刑されるべき問題でしたが ”寄せ集めに罪はないだろう” という ”中世朝鮮式理論” でそのままになったのです。 あの宮本武蔵の初陣のころにもよくあった ”負け戦になると農民出身の雑兵は雪崩をうって散り散りになる” という中世そのままの戦争だったわけです。 
そんなふうに軍規なんてものとは無縁の韓国軍でしたから朝鮮戦争の最中には輜重兵の代わりに砲弾や弾薬や食糧などを運ぶことで戦争に参加したわけですが、韓国人の荷役部隊に監視の国連軍の兵隊が付いたりしなきゃならないほど逃げ足も早かったというのは戦争とはまた別の話ですけどね。
※彼らの身分は軍人ではない、荷役する民間人である。

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難民、難民 自称難民 脱走兵、犯罪者
  
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戦争が始まるとともに多くの韓国人労務者(のちに韓国国軍と認定)は実に多様な分野で国連軍を支援していた。
彼らは戦闘が広がっている前線に弾薬・燃料・軍資材・食糧・飲料水・補給品などを運んだことはもちろん陣地構築工事と前線ケガ人後送、その他に再び・橋梁保守などの役割を遂行した。

労務者の運搬手段は主に背負子(しょいこ)であり当時国連軍は背負子(しょいこ)が英語アルファベット‘A’を似ていたといって彼らを ‘A Frame Army(背負子(しょいこ)部隊)’と呼んだ。
米軍資料では戦争末期に133,000人が在籍しており、これらの中1951~53年間前線部隊を直接支援した労務者の中で確認された犠牲者は総8794人だった 
 

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前線に食料が届かない、全軍後退セヨ
 
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当時国連軍の小隊を指揮したオーストラリアの少尉は、"奴らの狙いは食べ物だ、重たい砲弾だけ運ばせてくれ"と本部中隊補給廠に駆け込んだ。
それは以前にトラック一台分の携行食糧(レーション)が一夜にして消えたことが発端だった、300人分にも及ぶ食料を載せたトラックの見張りを一晩韓国人軍属に頼んだのが間違いだったのだと気づいたとき、実は韓半島全土に駐屯するほぼすべての部隊で同じような報告が告げられていた。


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 韓国人の仕事とは荷物運びをすること、およそ30万人が強制徴用された

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▲砲弾(薬嚢)の運搬に従事する"韓国人労務者"その多くが第2国民兵で組織された、その多くが任務の途中で重い物資を放置して逃げ出した、後方の国連軍司令部では"キタ朝鮮スパイ潜入"を疑ってさらに多くの警備兵を配備することになった。

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▲山岳部の多い朝鮮半島の地形では"韓国人労務者"は重宝した、組織的に各部隊に人員を配置すると半数は途中で行方不明になることが繰り返された。 
※写真:韓国人労務者を見張る国連軍兵士


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▲1950年秋 ソウル市庁前。軍装がバラバラ


次回予告:韓国経済史3000年  朝鮮時代の民衆支配と兵役



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