minaQのつぶやき 네토미나

嫌韓(いやかん)ってホントはどうなの?

日曜特集 帰ってきたハングルちゃん

 

夏休み、ソウル焼け野原特集

ハングルで見る朝鮮戦争のすべて

 

 

朝鮮戦争中の旧総督府総督府の前の光化門はこの当時、総督府敷地の東側に移設されていた。左側の電信柱の向こう側がT-34戦車の行進した路面電車通り

ちなみにこの写真は鉄くずを拾う「ソウルの被災民」の様子で、路面電車のレールまで剥がしたつわものもいたそうです

 

まずはここから

 

安全 眼前  안전

これはハングル表現の揺れで辞書によっては用例として最後の方に出ている場合もあるものです。

 

敵軍が眼前に迫ってきた  敵軍が安全に迫ってきた こうやって書くと何やら切羽詰まった状況が目に浮かびますが、そう考えるのは漢字で書いてあるからなんですよ。韓国人のハングル脳では 「敵軍がアンジョンに迫ってきた」というカタカナで思い浮かべるようなものなのです。するとどうなるでしょうか?

銃を持った韓国軍の小隊長だって、「そっか、アンジョンなんだな」「とりあえず逃げとくか?」「よしこれでアンジョンだ」「ところでアンジョンってなんだ?」なんて程度に思いを浮かべるだけでした。

旧ニホン軍は韓国人に発砲したことが無かったので、鉄砲隊も武士団も軍隊も無かった韓国人は銃声を聞いても花火か何かだと思ってますからね、朝鮮顔のおじさんやおばさんは「戦争は兵隊のすることだから私たち市民には全く関係が無い」なんてね。戦車がやってきてもうれしくて手を振っちゃう。こんな感じじゃなかったかと思いますね。

 

さて次はこちら

 

前進 転進  전진

「ジョンジンせよ」

前に進むこと、方向を変えて進むこと「ソウルはどっちだ?」「ここがソウルです」

負けて兵を引くことを旧ニホン軍では転進と呼んでいました。韓国軍はソウルから転進したのですが、集合場所にたどりついたのは1/3程度だったそうです。しかも武器や軍服は全部捨てていたようですね。

韓国軍も訓練で「前進」なんて言うんでしょうね、それを聞いた兵隊はキョロキョロするしかないわけです。そいうことね ちなみに体育の授業で”でんぐり返り”はハングルでどう書くのかと疑問が出てきます 前転ですね えぇ チョンジョンって言います。

 

敵軍 赤軍  적군

「チャックンが攻めてきます」

これは韓国では違和感無しに使われがちですよね。多くの韓国人にとって敵は赤軍ってことで認識は間違っていません。しかし、同じハングルを使うキタ朝鮮では自軍とどのように区別しているか分かりませんけどね。

80年代くらいまでの韓国では運動会は紅白で組分けしていましたが、最近はアレルギーもあって紅白じゃありません、おめでたいときの紅白の幕もニホン文化をイメージさせるそうで、1970年代までなら紅白幕だったんですが、最近のお祝い事では薄青色と白色の幕を使います。まぁニホンではお葬式なんかの色使いだと思ってください。

しかし韓国のサッカーはレッドです。これは国際大会のサッカーで国のカラーを決めるってときに、「ニホンは赤を選ぶだろうから先に赤を取ってしまえ」という思惑があったそうです。しかし李舜臣将軍の白衣従軍なんていう与太話で白衣民族らしく白い色に人気がありますね。

 

 

 

警報 競歩  경보

キョンボに決めた」

古くは朝鮮戦争がはじまったばかりの頃、負けてばかりの韓国軍の将兵10万人は釜山を目指して後退しました。10万人の将兵は、「軍服を着たまま重たい銃を持っていると敵軍と出会った時に死刑になる」と信じられていたので、軍服を脱ぎ銃を捨てて民間人の衣類を徴発しながら逃げたわけです。その光景はまるで競歩大会のようだったことでしょう。 ちなみにこの開戦時の韓国軍はまるっきり旧ニホン軍の装備品を着ていて。小銃は九九式だったし脚絆だって巻いていたのです。あのほら、慰安婦おばあさんが「ニホン軍がやってきて」と言うのはニホン軍の恰好をした韓国人の兵隊がやったことを言っているのですね。  キョンボ キョンボーって感じ

 

▲旧ニホン式装備の南朝鮮防衛隊はそのまま韓国軍と呼ばれることになった。仁川上陸後にマッカーサーがそれを見て米軍装備を用意するように本国に打電しているので、撤退中の韓国軍は旧ニホン軍装備だったことがわかる。

 

ちなみにキタ朝鮮軍などに何度も占領されたことのあるソウルですが(最初は1950年6月28日~9月25日、2回目は中共軍によって1951年1月5日~3月14日)、韓国側はソウルに空襲警報を発令したことがありません。キタ朝鮮軍中共軍の空軍戦力に爆撃能力が無かったこともあって空襲を受けたことは無かったようです。それでも国連軍は敵占領下の一部施設を空襲したことがあって、臨時政府の国璽が爆撃によって消えたという与太話はまことしやかに語られることがあります。

 

韓国の体育大会などで「次は競歩です」なんてアナウンスするとサイレンが鳴ったりするのかもしれませんね ♫

 

 

装備 葬費  장비

「チャンビを配ります」

停戦交渉はソ連側の提案で開戦の翌年に始まりました。その直前に韓国軍が大敗したからです。その原因となったのが縣里の戦いで、惨敗した再建されたばかりの韓国第3軍団は、米第8軍司令官ヴァン・フリート将軍によって1951年5月26日、電撃的に解体されました。 また、1軍団指揮権も米8軍が直接統制するなど、休戦交渉中の韓国軍の勝手な作戦がアメリカ軍の怒りを買ったのである。当時、3軍団解体の過程でヴァンフリート将軍と劉載興(ユ・ジェフン)将軍との対話は有名なエピソードがある

 

월간중앙

ヴァン・フリートは、"劉将軍、あなたの軍団は今どこですか?"すると、劉載興(ユ・ジェフン)将軍は"分からない"と答えたという。
これにヴァン・フリートは"あなたの隷下師団はどこですか? すべての砲と輸送装備を喪失したというのか."と詰問すると、"そうです。"と答えた。 これにヴァン・フリートは"あなたの軍団を解体します。 他の補職でもやってなさい!"と話した。

といったハナシで、韓国軍は朝鮮戦争の停戦交渉の邪魔をしたというのはよく知られています。そのうちの県里の戦いでユ将軍の軍団は後退した米軍の重砲など装備一式を受け取って陣を構えていたんですが、国境の向こう側にちょっかいを出して反撃を受けて全部放り出して逃げてきたというハナシです ユ将軍っていうのはニホン陸軍士官学校卒のひとで、ペク将軍と並んでニホンでは人気のあるひとなんですよ、2011年まで生きていました。

 

通訳を介してバンフリート将軍に叱られたんですが、「装備はどうした?」「葬費なんかありません」 こんなやりとりだったのかもしれませんね

 

 

                ◇ ◇ ◇

 

 

 

 

復員 復元  복원

단청 벗겨진 숭례문 "선명한 색 위해 쓴 호분 덧칠이 문제" : ZUM 뉴스

 

2008年に放火炎上した崇礼門の復元で青丹塗りを復元した伝統技能士と自称した人が賠償金支払いの判決を受けていました。塗ったのが剥がれてきたことや工事費用を水増ししたのが容疑でしたね。材料の塗料は貝殻を細かくしたもの色を混ぜたもので膠(にかわ)で溶いて塗るんですが、韓国にはそうした技術が全く伝承されていなかったんですよ。そいでも1960年代の復元工事のときに現場で若僧やってたのが建設会社やってて、復元工事に手を挙げたわけでした。  そういえば 伝承 戦勝 전승   

 

朝鮮戦争の最末期には韓国軍の兵隊が60万人にもなっていました。そのほとんどが徴兵された兵隊だったので、戦争がおしまいになると復員するわけです。その前の停戦ですら反対していた李承晩は兵隊の復員にも反対したのです。しかし国連はさっさと国連軍の兵隊を帰したんですね。それで韓国軍の徴兵の兵隊の服務年限が3年(のちに2年9ヵ月)になって新しい兵隊を入れながら徴兵された兵隊を帰したのでした。そのころには韓国軍は米軍のお古が大量にはこばれてきたので米軍式装備になっていました。

復員しても予備役訓練があるので、復員したときに持ち帰った兵隊靴と軍服上下に軍帽を自宅で保管しています。引っ越しなんかで無くしたりすると罪ですが、予備役訓練には明洞の軍装品屋さんで買うひともいるようですね。

ちなみに昨今の就職難では兵舎暮らしから娑婆に戻ってきてもお仕事なんか全く無いらしいですね。そのため兵隊から下士官志願するのがいたりするそうです まぁ選抜もあって落ちたら娑婆に追放されちゃうんだけどね ふふ

 

 

 

 
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ハングルちゃんは不定期に掲載されます。

 

 

 

 

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