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嫌韓(いやかん)ってホントはどうなの?

初戦で敗退した韓国軍の実態⑭

 
 
 
消える物資"朝鮮戦争中の韓国人労務者"たち
 
 
イメージ 2[メディアミーナ] 1950年6月に始まった朝鮮戦争の特需で賑わったのは、1948年に独立したばかりの最貧国だった大韓民国国民だった。 豊かだったニホン統治時代から、わずか3年という短期間でこれほど荒廃した国と地域は他に見当たらない、略奪と無法が相次ぎ、まさに国民性をむき出しにした韓国型様式に彩られた時代だった。
それでも、創建されたばかりの韓国軍は数年のあいだは国連援助物資の横領や横流しで糊口をしのいでいたが、朝鮮戦争勃発とともに韓国軍人の目は国連軍物資に向けられた。
当時の韓国軍の規模は10万人ということが駐留する米軍との間で決められていた、朝鮮戦争勃発とともに、これらが国連軍の指揮下に入るわけでは無かった、各地にあった韓国軍部隊は自発的に戦線を離脱し各地で物資の徴発を続けながら南下していった、その間にも脱走兵が相次ぎ、解体された部隊は軍の命令簿に載っているだけだったのが実情だ。総崩れで南下した韓国軍にやがて避難民が追いつくと更に徴発が始まった、これが後にアカ狩りと呼ばれる韓国の暗部に違いない、その死者は100万とも500万とも言われている。
 
国軍兵士〓後方で赤狩り   第2国民兵〓前線で物資隠匿  
 
 
 
 
 
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国連軍の指揮下にはいった韓国軍の部隊編成についての詳細な表 
 

 I隊本部 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 3,014 
郷土部隊(第一、第17、第18連隊) ・・・・  ・・・・・・・6,644 
第8師団(第10、第16、第21連隊) ・・・・・・・・・・・・ 8864 
 II隊本部  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 976 
第1師団(第11、第12、第15連隊) ・・・・・・・  ・・・・・7601 
第6師団(2D、7日、19連隊) ・・・・・・・・・・・ ・ ・・5727 
韓国陸軍本部  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 3,020 
 3D部門(第一騎兵隊、22D、23D連隊)  ・・・・・・・・・ 8829 
その他韓国軍 (海軍・空軍)・・・・・・・・・・・ ・・・・11881 
交換用訓練部隊・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  9016 
済州訓練部隊 ・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・ 8699 
光州訓練部隊  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 6244 
釜山訓練部隊  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 5356 

合計総数 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・94570 
効果的なトータル割り当て  ・・・・・・・・・・・・・・・・ 85871 
負傷者と戦傷外死傷  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 8699  
    
これらの兵が各地で敗退しながら 洛東江南岸まで後退した8月末までには総数が30000人余になっていた、 すでに7月から米軍指揮下にあった韓国軍は再編成されることもなく各地に分散していたが、米軍軍事顧問団ではこれら将兵を物資運搬要員(A Frame Army)として使うことを容認した。
 
 
 
韓国軍はすべてが荷役作業に従事せよ
 
 
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参戦した国連軍兵士らへの詳細な聞き取り調査などから仁川上陸作戦の全貌は明らかになっている。特に米軍の退役軍人会のリンク先では参戦者の証言をもとにした戦闘の推移が詳しく再現して見ることもできる。その中には国連軍の指揮下にあった韓国軍の活躍の記録はどこを見ても出てこない。
ニホンでも人気のあるペク将軍などは当時30才になったばかりだったが多少の英語が通じた為、”最前線で戦う韓国軍”の写真モデルとして重用されていた。ペク将軍の姿を写した記録は多いが彼の部下の部隊を写した写真はただの一枚も存在しない。彼が戦時中のことを話すのを極端に嫌うという理由がそのままそれである、時には巧妙に戦闘のあった時期をずらして語るといわれる。まるで従軍慰安婦被害者の供述のように証言が二転三転するといわれる彼の参戦記は1960年代になって創作されたものだと彼自身が語っている。
 
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▲仁川上陸作戦の連合国側の公式戦史記録には韓国軍の参戦の記録は一行も無い、毎年開かれる仁川上陸作戦記念式典で”韓国戦争で一緒に戦った参戦軍”という言葉が使われない理由はまさにそれが理由だ。
 
 
在韓米軍による朝鮮戦争への介入が及ぼす影響として、ソ連中共軍との衝突を避ける意味とアメリカ国内の厭戦風潮と侵略戦争であるという批判を避けるために、”最前線では韓国軍が活躍している”とする偽の報道協定がつくられた。仁川上陸に韓国軍海兵隊部隊が参加した事実は一切無いがその後のソウル中央庁舎奪還から平壌占領までの間、記念撮影として記録が多く残されている。
 
その頃、解体寸前だった総勢30,000人あまりの韓国国軍は済州島に後退し兵力の回復をしながら戦場の後方での弾薬の運搬などに使役することになる。
作戦権の移譲で独自の軍隊を失った李承晩はソウル奪還後に再度の韓国軍の再建のため第2国民兵までを徴募することにした、これが後の国民防衛軍事件となり餓死者30万人ともいわれる惨事である。
 
 
 
韓国軍が参加しなかった仁川上陸作戦 
 
イメージ 8●米第5海兵連隊  9月12日に釜山で編成された レッドビーチとグリーンビーチに上陸
 
●米第1海兵連隊  8月にニホンで編成されブルービーチ上陸から仁川市街へ突入
 
●米第7海兵連隊、 9月9日に神戸を出発 
9月21日に上陸
 
●米第7歩兵師団  9月17日に上陸
 ソウルを奪還したあと上陸軍の主力だった米軍は韓国人に任せた荷役作業の遅延によって再び退却を余儀なくされた。
 
韓国人の荷役で遺棄された弾薬などの物資はおよそ6万トン、窃取された食糧は40万人分以上と推定されている。
 
 
 
 
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前線に食料が届かない、全軍後退セヨ
 
イメージ 8当時国連軍の小隊を指揮したオーストラリアの少尉は、"奴らの狙いは食べ物だ、重たい砲弾だけ運ばせてくれ"と本部中隊補給廠に駆け込んだ。
それは以前にトラック一台分の携行食糧(レーション)が一夜にして消えたことが発端だった、300人分にも及ぶ食料を載せたトラックの見張りを一晩韓国人軍属に頼んだのが間違いだったのだと気づいたとき、実は韓半島全土に駐屯するほぼすべての部隊で同じような報告が告げられていた。
 
 
 
 
難民、難民自称難民 脱走兵、犯罪者
  
戦争が始まるとともに多くの韓国人労務者(のちに韓国国軍と認定)は実に多様な分野で国連軍を支援していた. 彼らは戦闘が広がっている前線に弾薬・燃料・軍資材・食糧・飲料水・補給品などを運んだことはもちろん陣地構築工事と前線ケガ人後送、その他に再び・橋梁保守などの役割を遂行した。
労務者の運搬手段は主に背負子(しょいこ)であり当時国連軍は背負子(しょいこ)が英語アルファベット‘A’を似ていたといって彼らを‘A Frame Army(背負子(しょいこ)部隊)’と呼んだ。
これらの中1951~53年間前線部隊を直接支援した労務者の中で確認された犠牲者は総8794人だった
 
 
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▲韓国人A型労務団は総3個の師団および2個の旅団で編成、運用されたと記録に残っている、しかしそれも休戦後の"韓国型帳簿上操作"によるものでその多くは脱走兵や犯罪者らで組織された。
 
 
第2国民兵の動員はそのまま
 
第2国民兵を主に徴集・動員したので準軍事的軍団規模の特殊な組織体で機能したとする記録にウソはない、休戦の時まで国連軍によって運用された労務者の数だけで労務労務者9万3000人余り、背負子労務者7万5000人余り、契約高用労務者2万人余り、海・空軍およびその他機関の労務者1万3000人、という集計が現れたのは戦後から10年も過ぎた1960年代になってからだった
 
 
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▲第2国民兵、韓国人後方物資輸送部隊整列、彼らの所属した部隊は公式に存在しない、また彼らの経歴や軍籍なども全く存在していない、これらの彼らがその後どうなったのかという資料も無い、あるのは1970年代になっての聞き取り調査で"後方輸送部隊に勤務した経験のあるもの"という報告書に上げられた1000人余りのみである。
 
 
 
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国労務団の国連軍支援
 
前線で戦闘する国連軍には戦闘兵員を削減して戦場に補給品を運ぶ、韓国人人材が必要ではないかと主張し適当な人材を集めて‘韓国労務団’を創設した。 その中には"難民、逃亡兵、住所不定、犯罪者、窃盗犯罪、組織員"といったあらゆる、"韓国型温床"が詰め込まれていた。
 
最前線に届くはずの砲弾が届かずに国連軍の前線部隊は後退を余儀なくされたこともあった。
 
 
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▲砲弾(薬嚢)の運搬に従事する"韓国人労務者"その多くが第2国民兵で組織された、その多くが任務の途中で重い物資を放置して逃げ出した、後方の国連軍司令部では"キタ朝鮮スパイ潜入"を疑ってさらに多くの警備兵を配備することになった。
 
 
 
頻発する支援物資の紛失と労務者の逃散
 
このような労務者の戦争支援活動に関し当時国軍・国連軍の戦闘指揮官は一様に“どんな意味では戦闘の半分は彼らが払った”と口をそろえて証言している。要するに、前線支援物資運搬を命令すると"半分だけ"が前線部隊に届いたということになる。
 
労務者の役割は何より戦闘勤務支援を忠実に遂行することによって国連軍の戦闘兵員が他に勤務支援に投入されないで戦闘任務に充実することができるようにしたということにその重要な意味があると自己弁護する意見も出てきているが、"軍籍もなく、出身も不明"の韓国人労務者に砲弾の運搬を命令したのは失敗だったと言う、これは韓国人労務者を多用した部隊での切実な報告だ
 
 
 
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▲山岳部の多い朝鮮半島の地形では"韓国人労務者"は重宝した、組織的に各部隊に人員を配置すると半数は途中で行方不明になることが繰り返された。 
※写真:韓国人労務者を見張る国連軍兵士
 
 
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▲前線に向かう部隊と一緒に移動した"韓国人労務者"部隊に補給物資の運搬を任せたあと物資がすっかり消えて無くなったため"キタ朝鮮匪賊の襲撃"と報告し引き返してきた部隊もあった。
 
 
"韓国型の温床"
 
韓国人労務者は軍が遂行しなければならない多様な行政や技術的な部分を分担した、また、最前線で戦闘兵員が担当しなければならない任務を引き受けることによって兵員を最大限節約したという点も役割面で抜かすことはできない部分なはずだった。
ところが実際の当時参戦者などの証言によれば労務者運用で兵員面や技術的な面で多くの問題を残した点を指摘している。"すぐに逃げる、ウソを報告する"などは"韓国人気質"によるものなので韓国人に物資の管理をさせてはいけない、という現象は各地で起こった。
※米軍による韓国(人)兵の使い方(英文)が作られたのがこの頃のこと。
 
 
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▲砲弾はいつの時代でも手で運ぶことになっている、運び入れた倉庫でも帳簿上は完納となるがそこから先の前線部隊に届くことはなかった。
 
 
【米軍による韓国兵の扱いマニュアル 】
1.韓国人には強気で押せ。抵抗する場合は大声で命令しろ。
2.命令を聞かない場合は身体で解らせろ。
3.同じことをくり返す場合、犬のように何回でも同じ様に叱れ。こちらが上と言うことを身体で解らせろ。
4.理由は聞くな。どうせ大したことは言っていない。
5.身体で解らせた場合、根に持つ場合があるので、後で身辺には気をつけて行動  しろ。但し、徹底的に解らせる迄、手を抜いてはいけない。
6.相手を3才児と思い、信用したり頼りにはするな。重要な仕事は任せるな。
 
    
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▲物資運搬に志願した"韓国人労務者"武装した米兵が見張りで付いている、これも前線部隊への補給が確保されないためにとった緊急策だったに違いない。それでも物資の多くは韓国人労務者らによって横領隠蔽隠匿された、その量は戦争遂行に必要な量と同じだったと言われる。
 
 
 
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このように6・25韓国動乱(朝鮮戦争)の間韓国人労務者は非戦闘要員として作戦上必要とする橋梁・道路補修と食糧・弾薬・軍装備運搬などに動員されて戦闘部隊を直接支援するのに大きく寄与した。
(大きく邪魔をしたというのが正しい。)
 
 
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これらの活動に関し米8軍司令官ベンプリート将軍は“私たちは韓国労務団という無名の戦争英雄から多くの支援を受けた。彼らは驚くほどの強靭だということと根気で任務を遂行したし、万一、彼らがなかったとすれば米軍は最小限10万以上の追加兵員が必要だっただろう”と評価した。
一方で物資の補給を担当した当時のある高級幕僚は“前線へ送るはずの物資の半分は遺棄、隠匿されたとみる、これにより必要以上の武器弾薬、砲弾が浪費された、無人の野だったら軍費は半分で済んだだろう”と語った
 
 
 
(翻訳:みそっち)
 
 

 
 
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朝鮮戦争も一進一退から膠着状態になると韓国軍は国内へと目を向けた、指揮権は国連軍に移譲されたが糧秣などは自国で調達しなければならなかったからである。
 
国軍の名を借りた略奪団は市民を殺し物資を奪うと共産ゲリラ討伐としてその遺体を焼却し埋めたといわれる。