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嫌韓(いやかん)ってホントはどうなの?

大統領緊急命令第5号を知る

 
 
 
 
韓国大統領李承晩による大統領緊急命令第5号
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「戒厳下の軍事裁判に関する特別措置令」(1950.7.26 大統領緊急命令第5号)は、戒厳宣言区域内の軍事裁判の訴訟手続きを簡単にすることにより、犯罪事件の処理の迅速を期するを意図している。

背景
戒厳下での軍事裁判を通じて裁判をする場合には軍事裁判の訴訟手続きを簡素化し、犯罪事件の処理を迅速に行うための緊急命令である。

内容
 緊急命令第5号に規律している事項は次のとおりである。
 1。 本領は戒厳宣言区域内の軍事裁判の訴訟手続きを簡単にすることにより、犯罪事件の処理の迅速を期することを目的とする。
 2。 戒厳宣言区域内の高等軍法会議(以下、戒厳高等軍法会議と略称する)は、将校3人以上のジャッジとして設定し、そのうちの1人は軍法務官がなければならない。 戒厳高等軍法会議の設置大臣は、必要があると認めるときは、裁判官にとって軍法務官の職務を行わせることができる。
 3。 戒厳高等軍法会議の軍検察官は、「 刑事訴訟法 」に規定された検事と同じ権限を有する。 戒厳高等軍法会議の設置大臣は、必要があると認めるときは、検事をして軍検察官の職務を行わせることができる。
 4。 戒厳高等軍法会議においては、判事又は検事をして弁護人の職務を行わせることができる。
 5。 戒厳高等軍法会議の設置、構成、管轄他の本領に規定しない事項については、高等軍法会議に関する規定を適用する。 ただし、試験調査は、これを省略することができる。
 6。 戒厳高等軍法会議で言い渡された判決の執行は、当該軍法会議インストール長官の承認として、これを行うことができる。

解説
開戦から1ヶ月という時期に軍事裁判の訴訟手続きの簡素化のための大統領令が出された背景には、にわかに急造した韓国軍の質の悪さがあったと思われる。 ソウル陥落から全部隊の崩壊、洛東江ライン後退までの歴史的記録はほとんど残っていない、一部の部隊による組織的反攻という輝かしい戦歴ですら後世の創作であることは当時の関係者らの証言からも明らかになっている。
開戦直前に作成された"新編韓国軍大要綱"によれば韓国軍の編成は陸軍およそ9万、海軍2千、空軍1千、その他約1千となっている。 この中にはニホン統治時代~米軍政期に収監されていた犯罪者などが多く含まれており、現代の韓国人感情の中にある徴兵〓懲役といった考えがこの時期に形作られたことは想像にかたくない。
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(翻訳:みそっち) 
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1950年7月26日といえば、韓国軍が国連軍に指揮権を投げ渡したあとになります、この段階では韓国軍はすべてが国連軍の指揮下に入ったという事になっているため一見して矛盾しているようにもみえる大統領令ですが、内容が軍事裁判手続きの簡素化となっているところからこの開戦から1ヶ月という時期に韓国兵の脱走や犯罪行為が頻発していたことが伺えます
 
 
 
 
 
参考 韓国の軍制度
 
米軍ソ連軍政時代  1945年9月2日~
 
国軍準備隊
米軍政庁期1945年12月16日に結成された軍事組織、不法軍事団体と規定され、1946年1月12日に国軍準備隊は解散される
 
国防警備隊・沿岸警備隊
大韓民国国軍の前身として、1946年 1月15日に米軍政が1個連隊の兵力に創設した
 
 
大韓民国時代  1948年8月15日~
 
国軍
1948年8月29日に国防警備隊が国軍に編入された。陸·海軍総兵力5個旅団15個連隊の将校1,403人の兵士49,087人など50,490人を保持しており、1949年1月7日旅団の創設した直後に「国軍組​​織法」第3章第13条に基づき、各旅団を師団に昇格させた。
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学生軍事訓練
政府は、1948年12月26日「学生軍事訓練の実施令」に基づいて、学生軍事訓練を中等学校以上の学校で実施することを決定した。 これは正規軍徴兵の前段階として学生に教練を施すものである。
 
護国軍
護国軍は、 1948年に大韓民国政府が樹立された後、最初に組織された予備軍だった。 建軍当時、在韓米軍が撤退を断行した状況で、兵力増強は当然の問題だったが、兵役制度自体が志願兵制度で構成されていたため、正規軍の拡充が困難な状態だった。
護国軍は1949年8月6日<兵役>(法律41号)の公布にあわせ青年団体統合する目的で編成されてから10ヵ月後の1949年8月31日に解体された
 
青年防衛隊
青年防衛隊の創設は、国内に乱立する各青年団体を統合して、兵役に編入されるまで、「兵役法」第77条に基づいて軍事訓練を実施することであった。 青年団は青年防衛隊の創設のために1950年1月初めに第2回の青年団の全国大会および中央執行委員会を開き、青年防衛隊編成の問題を議論したあと、1950年3月初めには青年防衛隊の組織のための詳細を発表した。青年防衛隊の編成は、1950年4月30日に完了したが朝鮮戦争勃発により自然解体した。
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国民防衛軍
1950年12月16日国民防衛軍設置法によって"国軍ではない武装組織"の設立を目的として17歳~40歳までの男子を募集した、その結果約30万人もの死亡者・行方不明者を出して翌1951年4月30日、国会は防衛軍の解散を決めた。※国軍じゃないところに注目
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学徒義勇軍
学徒義勇軍は「兵役法施行令」(1959.2.18大統領令第1452号)第107条の規定に基づきすれば、1950年6月29日以降の学徒義勇軍(在日学徒義勇軍を含む)に国連軍や国連軍に隷属して、1951年2月28日に解散するまで勤務した者をいう。
 
 
 
 
それでね このなかに出てこない朝鮮戦争時の韓国軍っていうのは何をしていたのかというと
 
 
難民、難民自称難民 脱走兵、犯罪者
  
戦争が始まるとともに多くの韓国人労務者(のちに韓国国軍と認定)は実に多様な分野で国連軍を支援していた. 彼らは戦闘が広がっている前線に弾薬・燃料・軍資材・食糧・飲料水・補給品などを運んだことはもちろん陣地構築工事と前線ケガ人後送、その他に再び・橋梁保守などの役割を遂行した。
労務者の運搬手段は主に背負子(しょいこ)であり当時国連軍は背負子(しょいこ)が英語アルファベット‘A’を似ていたといって彼らを‘A Frame Army(背負子(しょいこ)部隊)’と呼んだ。
これらの中1951~53年間前線部隊を直接支援した労務者の中で確認された犠牲者は総8794人だった
 
 
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▲韓国人A型労務団は総3個の師団および2個の旅団で編成、運用されたと記録に残っている、しかしそれも休戦後の"韓国型帳簿上操作"によるものでその多くは脱走兵や犯罪者らで組織された。
 
 
第2国民兵の動員はそのまま
 
第2国民兵を主に徴集・動員したので準軍事的軍団規模の特殊な組織体で機能したとする記録にウソはない、休戦の時まで国連軍によって運用された労務者の数だけで労務労務者9万3000人余り、背負子労務者7万5000人余り、契約高用労務者2万人余り、海・空軍およびその他機関の労務者1万3000人、という集計が現れたのは戦後から10年も過ぎた1960年代になってからだった
 
 
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▲第2国民兵、韓国人後方物資輸送部隊整列、彼らの所属した部隊は公式に存在しない、また彼らの経歴や軍籍なども全く存在していない、これらの彼らがその後どうなったのかという資料も無い、あるのは1970年代になっての聞き取り調査で"後方輸送部隊に勤務した経験のあるもの"という報告書に上げられた1000人余りである。
 
 
 
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国労務団の国連軍支援
 
前線で戦闘する国連軍には戦闘兵員を削減して戦場に補給品を運ぶ、韓国人人材が必要ではないかと主張し適当な人材を集めて‘韓国労務団’を創設した。 その中には"難民、逃亡兵、住所不定、犯罪者、窃盗犯罪、組織員"といったあらゆる
"韓国型温床"が詰め込まれていた。
 
最前線に届くはずの砲弾が届かずに国連軍の前線部隊は後退を余儀なくされたこともあった。
 
 
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▲砲弾(薬嚢)の運搬に従事する"韓国人労務者"その多くが第2国民兵で組織された、その多くが任務の途中で重い物資を放置して逃げ出した、後方の国連軍司令部では"キタ朝鮮スパイ潜入"を疑ってさらに多くの警備兵を配備することになった。
 
 
 
頻発する支援物資の紛失と労務者の逃散
 
このような労務者の戦争支援活動に関し当時国軍・国連軍の戦闘指揮官は一様に“どんな意味では戦闘の半分は彼らが払った”と口をそろえて証言している。
要するに、前線支援物資運搬を命令すると"半分だけ"が前線部隊に届いたということになる。
労務者の役割は何より戦闘勤務支援を忠実に遂行することによって国連軍の戦闘兵員が他に勤務支援に投入されないで戦闘任務に充実することができるようにしたということにその重要な意味があると自己弁護する意見も出てきているが、"軍籍もなく、出身も不明"の韓国人労務者に砲弾の運搬を命令したのは失敗だったと言う、これは韓国人労務者を多用した部隊での切実な報告だ
 
 
 
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▲山岳部の多い朝鮮半島の地形では"韓国人労務者"は重宝した、組織的に各部隊に人員を配置すると半数は途中で行方不明になることが繰り返された。 
※写真:韓国人労務者を見張る国連軍兵士
 
 
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▲前線に向かう部隊と一緒に移動した"韓国人労務者"部隊に補給物資の運搬を任せたあと物資がすっかり消えて無くなったため"キタ朝鮮匪賊の襲撃"と報告し引き返してきた部隊もあった。
 
 
"韓国型の温床"
 
韓国人労務者は軍が遂行しなければならない多様な行政や技術的な部分を分担した、また、最前線で戦闘兵員が担当しなければならない任務を引き受けることによって兵員を最大限節約したという点も役割面で抜かすことはできない部分なはずだった。
ところが実際の当時参戦者などの証言によれば労務者運用で兵員面や技術的な面で多くの問題を残した点を指摘している。"すぐに逃げる、ウソを報告する"などは
"韓国人気質"によるものなので韓国人に物資の管理をさせてはいけない、という現象は各地で起こった。
 
 
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▲砲弾はいつの時代でも手で運ぶことになっている、運び入れた倉庫でも帳簿上は完納となるがそこから先の前線部隊に届くことはなかった。
 
 
【米軍による韓国兵の扱いマニュアル 】
1.韓国人には強気で押せ。抵抗する場合は大声で命令しろ。
2.命令を聞かない場合は身体で解らせろ。
3.同じことをくり返す場合、犬のように何回でも同じ様に叱れ。こちらが上と言うこと  を身体で解らせろ。
4.理由は聞くな。どうせ大したことは言っていない。
5.身体で解らせた場合、根に持つ場合があるので、後で身辺には気をつけて行動  しろ。但し、徹底的に解らせる迄、手を抜いてはいけない。
6.相手を3才児と思い、信用したり頼りにはするな。重要な仕事は任せるな。
 
    
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▲物資運搬に志願した"韓国人労務者"武装した米兵が見張りで付いている、 
 
 
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このように6・25韓国動乱(朝鮮戦争)の間韓国人労務者は非戦闘要員として作戦上必要とする橋梁・道路補修と食糧・弾薬・軍装備運搬などに動員されて戦闘部隊を直接支援するのに大きく寄与した。
(大きく邪魔をしたというのが正しい。)
 
 
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これらの活動に関し米8軍司令官ベンプリート将軍は“私たちは韓国労務団という無名の戦争英雄から多くの支援を受けた。彼らは驚くほどの強靭だということと根気で任務を遂行したし、万一、彼らがなかったとすれば米軍は最小限10万以上の追加兵員が必要だっただろう”と評価した。
一方で物資の補給を担当した当時のある高級幕僚は“前線へ送るはずの物資の半分は遺棄、隠匿されたとみる、これにより必要以上の武器弾薬、砲弾が浪費された、無人の野だったら軍費は半分で済んだだろう”と語った
 
(翻訳:みそっち)
 
 

 
 
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