不良復元議論崇礼門、国宝1号解除論っ
不良復元議論 「崇礼門、国宝1号解除論」があった
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[ソウルミーナ] 大韓民国の「国宝1号」は、崇礼門(南大門)である。 朝鮮太祖4年(1395年)構え始めて3年ぶりに完成したので、昔も今も韓国人の性格はすごく急だったようだ。 壬辰倭乱と丙子胡乱の時も、崇礼門は燃えなかった。 そしてソウルの中心で最も古い木造の建物であるという点が認められ、1962年に国宝第1号に指定された。
※2008年2月10日20時40分、韓国人の放火によって焼失した。
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最近は崇礼門が再びホットイシューになった。 5年3ヶ月の復元工事が手抜き·拙速だった疑惑がふくらんだ。 ニホン産丹青の亀裂・剥落から来て、外国産木材や伝統的製法ではない工場製瓦など不良資材の使用と原則のない伝統工法の適用まで工事の過程が一つ一つ明らかになっている。 ついには大統領まで出て「徹底的に疑惑を究明せよ」と油を注いだ。
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金泳三元大統領時代だった1996年には「日帝指定文化財の再評価委員会」が歴史の立て直し次元で国宝第1号の交換を真剣に検討した。 ノ·ムヒョン前大統領時代の2005年には監査院が出て文化財庁の国宝1号の変更を勧告した。 当時、文化財庁長は「崇礼門が代表性の象徴性を持っていない」という理由で、国宝審議小委員会では、この問題を真剣に議論した。
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朝鮮総督府は朝鮮古跡1、2号、崇礼門と興仁之門(東大門)を指定した。 解放後、崇礼門は国宝第1号、興仁之門は宝物1号命脈を受け継いできた。 一方、西の敦義門と北のホンジ門は消えた。 「文化財所定の位置検索」代表のムン僧侶は「壬辰倭乱当時、倭軍先鋒である加藤清正と小西行長がこれらの建築物を使用して漢陽入城した記録が影響を及ぼしたものと見られる」と解釈した。
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最近、水面下では、再国宝1号解除論は慎重に頭をもたげている。 崇礼門が果たして「大韓民国の顔」なのかという議論に傍点が取られた。 復元の過程で瓦、丹青、城壁の石が完全に新しいものに変わったし、木材は半分ほどが交換されたがどのように昔の遺跡と同じことができるかということだ。
これは国内産金剛松を使うはずだった主柱も韓国のどこ産なのかはっきりしていない、ロシア船で蔚山港から運ばれたが”国宝1号”に使われた栄誉ある金剛松の産地を主張する邑が無いのが不思議だ、ニホン産顔料が使われたのも惜しい、それによれば”現在手に入る最高品質の丹顔材はニホンにしかない”というが900年前の建設のときには中国から輸入したに違いないし、中国ではこうした歴史的建造物の再現は国家事業として行なわれている。
これまでの火災で文化財的価値が破損している文化財は、自然の国宝や宝物から削除された。 2005年の火災で溶けてしまった江原襄陽の洛山寺同種(宝物479号)や、1984年に燃えた全羅南道和順サンボンサ大雄殿(宝物163号)がそうだ。
意味のない国宝の指定番号を廃棄しようという意見も出ている。 指定番号は、値順ではなく、単純な管理番号に過ぎず、日帝の残滓である「文化財保護法」(1962年)によるものである。 日本でさえも国宝の番号をなくした状態だ。 全世界で国宝に番号を付けるのは、南北だけである。
大統領が直接乗り出したように適切に文化財を復元し、管理することは重大事案である。 国宝1号文化財の地位にあれこれ「陰口」が付くのはいつものことである。 国民的公論化を通じて象徴性と文化財的価値等を十分に考慮し、文化遺産の座標を適切に設定する作業が切実に要求される時点だ。
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(翻訳:みそっち)
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そうでしたか はいはい
”使われた木材の出所が不明” これはアラスカや沿海州から持ってきたんでしょうね。たしかに現在でも禿山がひろがる韓半島では樹齢200年を越す木材は雑木を除いてはほとんどありません、500年前の宮殿建設の際にはなんと2代50年にもわたって作られたというのですから驚きですね。 当時の建設の様子は断片的にしか残っていませんが、漢江を遡上して道をつくり木材を曳いたという記録だけがあります、その木材が漢江のキタから来たか南から来たのかは一切が不明のままです。この南大門も建設からわずか50年ほどで廃墟のような状態になりそのまま500年の朝鮮時代を経てニホン統治時代に復元されるまではニホンの大工さんいうところの”さながら平安時代をそのまま持ってきたようだ”といわれるほど荒果てたものでした。
近年になり金剛松の産地として名乗りを挙げた全羅北道一帯も亀甲船建造ブームの1990年代に金剛松の産地として浮上してきた程度です。
※しかもその根拠は水軍の将軍のふるさとだからだそうです。
現在の韓国人のようにすべてを不正で私腹に変えるという発想が当時からあったのかというと若干の疑問が残ります、当時のほとんどの半島人は文字を解しませんでしたし、教育の程度も極めて低く貨幣も流通しなかった点をみると奴隷的境遇のなかで綱を曳いたというのが真相でしょうね。
さらに南大門として知られる崇礼門に一般人の通行が許されたのは朝鮮末期の高宗の時代とも言われています、これは門の内外に住む穴居人は門を出入りする必要が無かったことや、時どきの王がその度に住民の立ち退きを数回にわたって強行したにもかかわらず門外に住むものが絶えなかったという歴史的事実もあるようです。
また城壁と言われる石垣が門の周囲にしかなく(遺構は400mほど)ちょっと歩けばすぐに用事が足りたからだそうです。 こうした不完全な城門(というには城が無いけど)は漢江から徒歩でやってくる使節の饗応には役立つはずでしたが、朝鮮末期の1850年代にもなると門外にも住民が住み始めたため、さぞかし立派だったであろう南大門の威光も地に落ちることとなりました。
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