崇礼門、伝統師団体が"石垣も工事させろ"
本来無かった石垣の継ぎ足し計画、見慣れた崇礼門の切手の文様にも無かった”利権開発型城門復元”
修復された崇礼門は最高の職人たちの参加を通じて伝統技法によって元通りに復旧され、日帝により撤去された左右城壁も、朝鮮後期の姿に復元されました。戻ってきた崇礼門が私たちと永遠にいっしょにいるを祈願し、記念切手1種を昨年5月に発行しました。
この切手発行でいくつかの議論が持ち上がっている、本来復元される計画の無かった城壁部分が過度に美化されているというものだ。
崇礼門の復元を指導した文化財庁によれば”2008年焼失した崇礼門の復元について識者からの意見を広く求める”とありました、ところがその段階で最初に浮上してきたのが修復の必要も無い石垣部分の復元を強力に推し進めるというものだったようです。本来火災などの災害でも城壁などの石造りの構造物は被害を受けにくいものとされてきましたが、石工の無形文化財保持者を推す一部の主張により建造物としての復元から城壁を含めたものへと文化財庁各局での利権争いや推し進めてきた人間無形文化財者による伝統的復元方法の再現という思惑と一致して復元計画に石垣復元が名をつらねたというものです。
駆け込みで選ばれた石匠無形文化財者
崇礼門城の修復工事は、2008年の火災以前から計画されていたが、復元工事と一緒に本格的に施行された。 工事に使われた1362m³(石垣復旧工事分を含む)の石はほとんど京畿道抱川から食料きた花崗岩である。
朝鮮王朝実録の記録と、1900年代初頭、崇礼門の写真などを参考に高める4〜6mに積み、上に行くほど石の大きさが小さくなる築造形式もそのまま生かした。
工事を担当した重要無形文化財第120号イウイサン石匠(2007年認定)は「残っているソウル城郭の石と、抱川で採った石の成分は95%以上一致する。 城の復元は、城壁に囲まだったソウルの原形を生かす重要な仕事だ」と述べた。
当時は正門、今でも正門
そんな崇礼門にはいくつもの不思議がある、今回復元されたのは向かって右側の城壁だが、古い写真を見れば確かに石造りの城壁の写った写真などが残されている、しかしその手前がわに写っているのは草葺の屋根とみすぼらしい住居ばかりだ。この住居跡も朝鮮末期に爆発的に増えた都市住民が勝手に住み着いて云々という傍若無人な説も存在するが実際にはすでに正門としての根拠を失った廃墟がそれまで残ってきたというだけのことだ。
▲朝鮮時代の漢陽(今のソウルの昔の名前)は総延長18.6㎞の城に囲まれていた。 崇礼門(南大門)は、外交使節などが王に会うために城の中に入るときに通過する必要がしていた漢陽都城(ソウル城郭)の正門であった。
2008年の韓国人の放火によって全焼した崇礼門はこれまでの過去に数回の修復を受けているが最初の大規模な修復はニホン統治時代のものだ。ニホン統治が始まると真っ先に取り掛かったのが荒果てた朝鮮時代の宮殿や城門などの修復だった、一部では誤解もされているが今でこそ朝鮮時代の王宮だとして保護されている景福宮でさえ開国当時には住む人もなく荒果てた状態だったし朝鮮帝国となった当時でも住む宮殿は雨漏りがひどくロシア公使館に避難していた時代もあった。
※中国の使者がやってくると朝鮮王はその都度城外まで平服に着替えひれ伏して迎えたんだけどね
何よりも体面を重んじる韓国人にとって300年間放置されてきた正門たる南大門(崇礼門)で海外からの使者を迎え入れるのは恥ずかしかったことに違いない。その一方で崇礼門や宮殿などの修復を真っ先に行なったニホン統治時代は当時の朝鮮人にも大きな自信を与えることになった。
(テキスト:2ちゃん番長)
崇礼門って正門ですからね あんな有様じゃガイジンさんをお呼びできないわけですよ、ちなみに中国清の使者は迎恩門っていうのが専用であったので中国様には失礼ではないという安心感もあったんじゃないかな