minaQのつぶやき 네토미나

嫌韓(いやかん)ってホントはどうなの?

韓国人が見るエジプトあれこれ

カイロ現地でみたエジプト革命
2011-02-17 10:30    示唆IN Live
 
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(c)Xinhuaカイロ警察らが1月25日ムバラク退陣を要求して通りで行進をした反政府デモ隊に向かってこん棒を振り回している。   ※韓国ではこんなことこの間までやってるし
 
エジプト国民の独裁政権に対する怒りと民主化に対する熱望は驚く程大きくて強烈だった。 チュニジアの独裁者ベン アリが民衆蜂起に追い出される姿を生き生きと目撃したエジプト民衆はそれから10日の後の1月25日エジプト全域で奮い立った。 首都カイロで燃料を入れて火をつけた反政府民主化デモは第2都市アレクサンドリアスエズ・ポートサイド・イスマルリア・ルクソールなどエジプトのほとんどすべての主要都市で野火のように広まった。 日ごとに沸き上がる物価と高い失業率、ますます広がる貧富格差、執権層の古ぼけた腐敗、30年長期鉄拳統治に対する炎症と怒りの大爆発だった。
取材中に会ったデモ隊、特に若い層大部分は"人間らしく生きたい"という原初的ながらも切迫したいいわけをした。 "大学を卒業しても働き口得るのが至難のわざで、難しく職場を得るとしても沸き上がる物価に飢えを凌ぐこともギリギリで、経済力がなくて結婚は夢見ることも出来ない状況をこれ以上耐え難い"という吐露であった。 "30年を我慢してきたが執権層は不正腐敗にやつれるだけやつれて私腹を肥やすことにだけ没頭して、国民の怨念の声を公権力でとって押すばかりである現実は奴隷の人生と違わない"という自嘲も続いた。
希望をなくした民衆の切迫した蜂起にエジプト政府は'公式'のままに警察を総動員して催涙弾とこん棒に鎮圧に出たし、それでもデモがだんだんなくならないので実弾まで使う超強硬鎮圧をはばからなかった。 デモ開始社四日ぶりに数百人が亡くなって数千名がケガした程犠牲は雪だるまのように大きくなった。 だが、ムバラク政権は先立ってイランとチュニジア事態でベンチマーキングしたように通行禁止を拡大して、インターネットと携帯電話網を切りながらもデモ動力を弱化させようとありったけの力をふりしぼった。
 
執権延長のためのムバラクの見せ掛けの形
他の一方では改閣を通じてわかるだろう内務長官など国民の非難対象だった一部閣僚を更迭して刷新姿を見せた。 また、長い間の側近のスレイマン情報局長を副大統領に任命して事実上後継者に指名した。 政府与党政策委議長を引き受けていた自身の次男カマルを後継ぎ構図で排除する意向を表わして民心なだめに出た。 だが、30年の間抑えられたエジプト国民がその程度の取り繕う策に満足することが皆無だった。 政権のこざかしい策と強硬鎮圧に怒った市民が次から次へ加勢しながらデモ隊は日ごとに増えた。
慌てた警察はとても想像さえできない残酷な方式でデモ隊殺傷に出た。 ジャケットを脱いで二腕を上げて非武装であることを見せてくれた男性に容赦なく射撃を行ったし、さらに背を向けたデモ隊を照準射殺することもした。 またどっしりしている警察車両を全速力で走らせてデモ隊を打ってなぎ倒すことも一度や二度ではなく犯した。 警察のこういう蛮行は市民の携帯電話にそっくり入れられて何日か後インターネットが復旧しながらユーチューブ等を通して赤裸々に公開された。
 
http://imgnews.naver.com/image/308/2011/02/17/9554_19418_3012.jpg 
(c)Reuter=Newsis ‘政府側デモ隊’の目標物は反政府デモ隊だけでない。 海外言論人も無差別暴行する。
韓国で同じことがまた起きたらニホン人のサンケイ黒田次期大使候補(うそです)とかも  うひひっ
 
警察の過度な鎮圧はデモ隊を怒るようにしたしこれはエジプト全域の警察署に対する集中攻撃につながった。 警察署が燃えて警察に対する報復が増えるとすぐに数十万に達する警察は驚くべきことに一瞬にして痕跡をなくした。 警察が消えた席にはタンクと装甲車を前面に出した軍、そして市民自警団が入った。
軍は"デモ隊の要求は正当で軍がデモ隊を攻撃することは決してないだろう"という一声で一見デモ隊肩を持つような姿を見せた。 主に青年で構成された自警団は住宅街路地路地に石とタイヤでバリケードをはったまま鉄パイプと角材などを持って受賞した者らの出入りを統制した。 家族と財産を守るために自発的に夜を明かしながら苦労するこれらではあるが、世の中がハ受賞して見たら凶器を入ったこれらの存在も異邦人には不安に近づいた。 普段挨拶を交わした町内青年は"政府が若い人々がデモに加担することを防ぐために数十個の刑務所門をわざわざ開いて悪党らを送りだしている。 これらを防ぐために昼間にはデモに参加して夜には自警活動をするほかはない"と耳打ちした。
警察が消えながら気勢が上がったデモ隊は2月1日カイロ都心タフリル(アラビア語で'解放'を意味するということ)広場周辺に数十万人が集まったことをはじめとして全国的に100万人超えて通り(距離)で出て来て政権の懇談を涼しくさせた。 ムバラク大統領は9月大統領選挙不出馬というもう一つの譲歩案を出して危機をまぬがれようとした。 だが、デモ隊はムバラクの直ちに退陣を要求してタフリル広場に陣を敷いて長期座り込みに突入した。
 
政府側デモ隊攻撃で10余人死亡
次第マジノ線と感じた大統領選挙不出馬宣言が見栄えが良く拒否されるとすぐにムバラク政権は次の日会心の勝負の賭けに出た。 制服を脱いだ警察とチンピラらを動員して反政府デモ隊を攻撃して出たのだ。 奇想天外にもラクダと馬に乗った先鋒隊が鉄パイプと長剣を振り回して反政府デモ隊に向かって突進したのを信号で、あっという間に勢力を伸ばした官製デモ隊は石とレンガ投石、さらにいつ準備したのか近所高層建物屋上から火炎瓶まで投げて無防備状態のデモ隊に猛攻を浴びせた。 反政府デモ隊もあたふたと透析で対抗したがクンの無策傍観の中に被害は大きくなっていった。 いわゆる政府側デモ隊の攻撃は次の日まで続いたし二日の間にだけ政府集計で10余人死亡、1500人負傷という途方もない人命被害を招いた。
私服警察を含んだ政府側勢力の目標物はデモ隊だけでなかった。 外信報道の論調が気に入らなかったのか海外言論人らに対する無差別暴力も行った。 CNNの看板アンカーアンダーソン、クーパーが取材途中2度も暴行にあったあげく結局現場取材をあきらめて帰国の途についたのをはじめとして、エジプト政府に最も批判的なアラブ衛星放送アルジャジーラの記者らは片っ端から連行した。 身辺威嚇を感じたアルジャジーラ記者らは生放送連結中にも本人の位置を露出しなくて匿名に便りを伝える空前絶後な報道方式を使うことさえした(26~27ページ記事参照).
 
国内記者らもこれらの魔手から抜け出せなかった。 聯合ニュース特派員がタフリル広場近所で暴漢らに暴行受けたし、SBS取材チームも政府側勢力に囲まれてむやみに押し退けるということにあう過程で現地カメラマンが誰かが振り回した鈍器に当って膝に血がびっしょり溜まる擦過傷と打撲をした。 一度は留まった建物外で外信記者らを狙ったこれらの暖冬(無法な振舞い)が広がること知らずになにげなく出て行こうとしたがある現地人が差し迫っているように外側事情を話したせいで裏口に抜け出てかろうじて辱めを避けたくらっとした瞬間もあった。 何日が過ぎてはナイル河辺で政府建物を撮影して軍人に摘発されたカメラマンが24時間の間拘禁されたこともあった。
 
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(c)Reuter=Newsis 1月7日カイロで開かれた犠牲者追慕集会である少年がロウソクのあかりを入っている。
 
エジプト'1987年韓国'の後に従うか   ※ ついこの間でしたね もうじき次のドタバタが ふふっ
ある国際言論団体集計結果政府側勢力の活劇に被害にあった外信記者らだけ60~70人に達することが明らかになった。 個人的な感じでは、遠くイラク戦争とアフガン戦争から近く2年前行くとすぐに戦争などかなりの紛争を近くで取材してみたが、今回のように取材現場で瞬間毎緊張を緩めることができなかったことは探してみるのが難しいようだ。
機甲部隊で登場してタフリル広場周辺を恐怖の血なまぐさい場所で作った政府側勢力は反政府デモ隊が'ムバラク追放の日'で命名した2月4日突然痕跡をなくした。 数十万人に達するデモ隊の勢いに力不足を感じたり、停滞(正体)が事実上坦路出ながら後日責任を避けるために後退した可能性が高く見える。 雰囲気反転を狙った勝負の賭けが無為に帰しながらムバラクは次男カマルを含んだ政府与党指導部総辞職という譲歩カードをまた、一つ差し出した。 これと共にスレイマン副大統領を前に出して、不法団体で烙印したムスリム兄弟団など野党圏団体らを交渉テーブルに引き込んで非常戒厳法廃止と改憲、言論自由保障など改革措置も約束した。 本人の早期退陣を除いたすべての要求を聞き入れるという姿勢であった。 権力空白にともなう混乱を心配した米国まで漸進的な権力委譲側に傾きながらムバラクは少なくともいくらか権力維持の踏み台を用意するのに成功したように見えた。
だがタフリル広場を死守している反政府デモ隊は"政府の改革案と宥和策は時間を稼ぐためのトリックだ。 ムバラクが退く時までデモを止めないだろう"と明確に明らかにした。 実際に広場中央には巨大なテント村が造成されて数多くの市民の寝床(トンボ)で活用された。 臨時治療所と食べ物行商も登場して長期座り込み者にとても重要な役に立った。 市民らは昼夜を分けないで自由発言と討論を通じて戦意を固めて歌と詩朗唱、律動を共にして広場の名前に似合った解放感を満喫した。
広場で会ったこれらは全部みすぼらしい身なりに疲れるとみられるが目つきだけは生きていた。 また"30年ぶりにしたい話明快にすべてして、志を同じくする人々どうし交流する喜びは一ケ所寝て食事まともに間に合わせられない苦痛に比べるところ違う"とひと声で話した。 2月11日ムバラク大統領がついに辞任を宣言しながらこれらは偉大な市民革命を成し遂げた。
エジプトの現状況は色々な面で大韓民国の1987年を浮び上がるようにする。 その年私たちの民主化デモ隊は独裁政権を崖っぷちまで追い込んだが結局押し出せなくて仕上げは政界に任せた。 だが信じた野党圏は分裂したし、独裁者の後継者に選挙を通した当選という正統性まで抱かれた。 エジプトやはり合法化が切実なムスリム兄弟団の電撃参加で政界の交渉が始まったし、モハメド・エルバラダイ前国際原子力機構(IAEA)事務総長とアムル無事アラブ連盟事務総長など有力野党圏人々はすでに分裂兆しを見せる。 スレイマン副大統領が与党単一候補に出てエルバラダイと無事、ムスリム兄弟団最高指導者ボディー例などが野党圏で乱立すればまちがいなく1987年韓国の再現になる可能性が高く見える。
24年前韓国のように未完の革命に留まるのか、でなければ成熟した意識で世界を驚かせた市民革命を成しとげるだろうか。 エジプト民衆の動きと選択、そして決断に世界の注目が集まっている。
カイロ・イ・ミンス(SBS特派員)
 


 
エジプトのことを我ごとののように喜ぶ韓国報道ってアレですよね、さてあの時の韓国ってどうだったのでしょう
目に浮かぶようです 今度こそソウルが火の海になる日を   北朝鮮はそのあとでイイです 何だったら一緒に燃えちゃっても歓迎ですね