minaQのつぶやき 네토미나

嫌韓(いやかん)ってホントはどうなの?

ソウル宗廟には昭和8年3月改築の文字がある

 

バッカス公園から徒歩10分に昭和があった

ニホン人観光客の記念写真の名所…宗廟塀「天皇の年号」ジレンマ
ユネスコ遺産のため現状を変えることが出来ない

 

イメージ 1

[午後のミーナ]宗廟管理所「昭和」刻まれた9つの石の処理、1年以上苦心 「暗い歴史の除去は慎重に必要」

朝鮮王朝の正統性の象徴である宗廟(チョンミョ)の石垣に、天皇の年号である「昭和」が刻まれているという事実が知られてから1年が過ぎたが、石垣は依然としてそのままであることが確認された。

 

塀の前でカフェを営むファンさん「旅行者はよく撮影しているみたいですが何が書いてあるのか分からないでしょ、この塀を直したのはニホンだったんですか。感謝しなければなりませんね。」

 

ユネスコ世界文化遺産に登録された宗廟は、朝鮮時代の歴代王と王妃の位牌を安置した祠堂であり、朝鮮王朝のルーツであると同時に儒教的正統性の象徴である。 文化財庁は2019年に「昭和」の石垣の存在が明らかになったことから、実態調査を実施し、案内を行うと発表した。 しかし2月16日現在、石垣周辺には案内板が設置されていない。

 

 

f:id:ninoQ:20211009092635p:plain

 

f:id:ninoQ:20211009094322p:plain

宗廟の塀に刻まれた天皇の年号。 「昭和8年3月」と書かれている。 (韓国人には読めない)

現地360°ビュー 

http://naver.me/xDs5Cl6I


ユネスコ世界文化遺産であり、国の祠堂である宗廟(史跡第125号)の外郭塀にはニホン総督府時代の修繕の残滓が残っている。 宗廟外郭の塀に日本の天皇陛下の年号である「昭和」の文字を刻んだ石が9個も残っているのだ。 実際、宗廟の外郭道路である西順羅道に沿って歩いてみると、「昭和八年3月改築」という字が刻まれたそれぞれ石が確認できる。 昭和8年は西暦1933年である。 90年近く経ったが、その形態が鮮明で、読むことに困難はない。

ニホン人観光客にはよく知られる撮影名所で知られ2017年も話題になったことがある

植栽を変えて隠したり

 

年号は文字通り年を数える方法だが、天皇制にこだわる日本にとって年号はそれ以上の意味を持っている。 年号は各時代精神の象徴で、日本国民は西暦よりも年号を多く使う。 2019年5月までも官公署などの公式書類では西暦ではなく年号が使われていた。 新しい年号が発表された2019年4月には、各メディアが朝から年号の決定過程を生中継した。

韓国の文化財に日本式の年号が刻まれているという事実が知られると、文化財庁宮陵遺跡本部は2019年4月から8月まで宗廟外郭塀に対する調査を実施した。 その後に発刊された報告書「宗廟外郭塀の基礎現況資料調査」によると、天皇陛下の年号が刻まれた塀は計9基で、このうち8基は西順羅道がある西側に、1基は東側に位置していることが確認された。 この他にも60干支が刻まれた石73個がさらに把握された。

 

天皇の年号は、宗廟塀の修理時期に刻まれたものと見られる。 調査を担当した建築事務所は報告書で「宗廟の塀を修理·補修する際に当該年度を刻むことが法式になっていた」とし「現在、宗廟の塀に記載されている60干支は朝鮮時代後期、天皇の年号は1932年の栗谷路(ユルゴクロ)と開発当時、昌徳宮と連結した塀を崩し、改築の際に刻んだようだ」と推定した。※その前年に石垣が崩れて京城市は翌年の予算で修繕を決定している。工費の一部としてニホン皇室から1070円から提供されている。

 

日本による植民地時代当時、日本は朝鮮の統監府庁舎を朝鮮総督府庁舎に使用した。 さらに、都城内に滞在していた日本人は主に南山の北斜面(今の明洞・梨泰院あたり)に居住するようになったが、問題は日本人の主な滞在地が都城内の道路とつながっていなかったということだ。※宗廟の

 

交通が不便だった日本指導部は、「市街地整理」を名目に京城市区改善事業を始める。 この事業の一つが宗廟と昌徳宮の境界を貫く道路を造ることだった。

朝鮮王朝の正統性を破る事業に純宗と全州李氏一族は激しく抵抗した。 にもかかわらず1932年に工事は進められる。 この過程で宗廟の外郭の塀の一部が撤去され修理されたが、この時石垣に「昭和」の銘文が刻まれたものと考えられる。 つまり「昭和」の石垣は、植民地時代に毀損された宗廟の暗い過去ということだ。

文化財庁は2019年「この銘文は朝鮮を卑下したり日本による植民地時代を称賛する内容ではない」としながらも「調査を通じて確認された事項を市民に知らせる」という立場を明らかにした。 問題は1年が経った現在、昭和の石垣前でこれに関する案内板は見当たらなかったという点だ。 2月14日から16日にかけて宗廟を訪れた結果、西順羅道の近くにはいかなる案内板も立てられていなかった。 ただ、石垣のすぐ前にごみ捨て禁止の案内板があっただけだった。

ソスンラ道の前、石垣に関する案内板の代わりにゴミ投棄禁止の案内板が設置されている。 文化財庁はこれについて文化財庁宗廟管理所側は「固定式の案内板ではなく、移動式の案内板を宗廟の入口側に立てておいた」と説明した。 確認の結果、移動式案内板は実際の石垣から約1km離れた場所にあった。 徒歩でも15分ほどの距離だった。 それさえも観覧日と時間内に案内された。 宗廟の中まで行かなくては、案内板が存在するかどうかは分からない。

このような状況のため、ここはニホン人観光客に正確な理由も分からないまま、宝探しをする場所になってしまった。

ある宗廟周辺の商人は「コロナのせいで外国人観光客が減ったが、少し前まではニホン人観光客が"昭和"と書かれた石垣の前で記念写真を撮ることがしばしばあった。 みんな笑っていたが、どのようなことで昭和が残ることになったのか正確に分からないようだ」という。

別の住民は「昨年、ある中年のニホン人男性が眼鏡を外して頭を下げて石垣を注意深く見守りながら写真を撮っていくのを見たことがある。 「なぜだろう」と思って行ってみると、天皇の年号が刻まれた石垣を撮影したのだった。 --(年号が)単純修理として残ったわけではないのではないか。 しかしこの部分が明確に説明されず、気分が愉快でなかった」と述べた。

 

このようにして撮った写真を観光ホームページや自身のSNSに掲載したニホン人もいた。 昨年7月、あるニホン人は自身のブログに宗廟と石垣写真を掲載し、「この塀にニホン語で年号が刻まれているという」「昭和8年3月改築と書かれているらしい」「すぐ隣には韓国式年表記もあるので日本による植民地時代の残滓のようだ」と説明した。

このほかにも宗廟(チョンミョ)石垣に関する文に日本のネチズンは「日本によって適切に管理されたという証拠であり、これを韓国側が最近知ったということは(韓国が)適切に管理していなかったという証拠だ」とし「昭和を消せば歴史を消すことだ。 昭和も宗廟の歴史だ」という意見を残した。

「昭和」石垣の処理をめぐり、宗廟管理所も1年以上にわたり頭を悩ませている。 宗廟管理所の鄭明煥(チョン·ミョンファン)所長は「最近、石垣に刻まれた銘文を消すべきだ」という苦情が少なくないのは事実だ。 「昭和」石垣はわが民族の胸の痛む歴史だ。 しかし、暗い歴史の痕跡である「ネガティブ文化財」をすべてなくすべきかについては、慎重な検討が必要だ。 消すことは簡単だが、一度なくしてしまうと後戻りできないので、さまざまな意見聴取と諮問を経て決めるべきだと思う」と述べる一方、「案内板の実効性については考慮に入れていない。 指摘を謙虚に受け止め,早急に修正?反映するようにする」と説明した。

 

(ソウル/みそっち)

 

 

 

あの韓国銀行の定礎の揮毫が伊藤博文なことはよくしられていますが、韓国では大きな建物看板を有名なひとが書くことはありませんでした。光化門の扁額を書いたのは朝鮮時代末期の新築現場の材料係の下っ端だったことが良く知られています。そのころであれば両斑が文字を書くことは恥ずかしいことだったので「おまえがやれよ」「おまえがやれよ」「おまえがやれよ」なんてことになっていたのです。石造りの独立門の扁額も「朝鮮独立の志士」が書いたなんてことにしたいのですが現在でもどこから独立したのか分からないらしくてもめていますよね

 

f:id:ninoQ:20211009095501p:plain

 

ええ、隠れた名所なんですよ 雑草をみてもわかるように放置されています。なぜならば茶碗の裏を洗わない国民性で説明できますよ。敷地の中は文化財ですが文化財の塀は道路を管理するソウル市などの管轄となります。だから昭和8年の塀もその責任はたらい回しされて解決しないのです。それも韓国型思考です