minaQのつぶやき 네토미나

嫌韓(いやかん)ってホントはどうなの?

韓国の伝統家屋の生活を教えてやんよ

 

これが韓国の伝統式住居だってょ

伝統韓屋村の成り立ちとか知らないでしょ。 教えてやんよ
開国期に増えた都市流入民向けの分譲式住宅も今では伝統韓屋村

 

[暮らしのミーナ]韓国人の居住スタイルは時代によって大きく変わっている、上から下まで同じ間取りの高層アパ―トが最新の流行だとすると、半地下のついた多世帯住宅の家主に収まることが極上だったころもあった。商業ビルの一室にシャワーを設置して寝泊りが出来るように(しかも税金が安い)したオフィステルもまだまだ多い。

しかし根本に残るのは彼らの精神世界をそのまま具体化した散らかり具合であったり、半地下で一緒に暮らすこおろぎやカマドウマや、壁のひび割れだったりする。

 

 

▲ソウル市内に限らず、韓国全土でも草ぶきの朝鮮家屋のほうに限るとユネスコ無形文化財で知られる伝統家屋のなんとか村 ぐらいしか残っていない。これは過去に紹介した農村の光景だ。

 

 

その一方で韓国がまだ朝鮮だった頃の建物がソウルには『韓屋村』などの名前で残されている。ソウルも草ぶき屋根の土壁ばかりが不規則に立ち並んでいたのは建築当時だけだったわけだが、ソウルの伝統韓屋村はユネスコ無形文化財とは全く関係ない。

 

 

ユネスコ無形文化財で保存されるのは田舎の草ぶき伝統韓屋だけだ

関連過去カキコ:おっ おぃ韓屋ってすごいところだぞ

 

 

 

最新の地図や航空写真で見ると景福宮の右側あたりに不気味に似たような屋根が犇めく一角が残っているのがわかる。Wikiでは北村韓屋村で解説されているが、中庭を真ん中にしつらえたコの字やらロの字の瓦屋根がぎっしりと建ち並んでいる様子を見ると韓国人特有の住居感覚を理解する一助になるかもしれない。くりかえすが、こちらの伝統韓屋村はユネスコ無形文化財とはまったく関係無い。

 

韓国版Wikiによると、朝鮮王朝が成立した14世紀末頃から昌徳宮や景福宮などに隣接する北村は、権力を持つ家門や王族をはじめ、身分地位の高い両班の居住地とされてきたと信じられている。

しかしこのような北村は朝鮮征伐以降には焼け野原となっていた景福宮のように300年以上に渡って使われずに残された、むしろ朝鮮末期の都市流入民向け分譲住宅を建てるのに適した纏まった土地だった。このため今日見られる狭い路地に軒を連ねて韓屋が密集する北村の景観は1930年以前には無かったものと推察されている。

景福宮が焼け野原のままで300年も再建されなかった歴史を考えると、そのとなりに位置する水の不便な小高い禿山の上に身分の高い人など住むはずがないじゃん。

 

▲1950年代の撮影とされる韓屋村は写真のとおり、今もほとんどこのまま残っている。1930年代に、宅建設業者の建陽社が大規模な韓屋団地を建てて分譲したものをそのまま近年になり都市型近代韓屋(改良韓屋)と呼んでいるわけだ。

 

              ◇ ◇ ◇

 

戦前の時期(ニホンでは昭和初期に当たる)に韓国人が経営する不動産業者による土地開発が山の上の空き地の細かく区割りして当時の建設資材を使い分譲したものが最近の観光ブームに載せて伝統韓屋と呼ばれて、観光客を呼び寄せているのである。

そういう素性なので、ユネスコ文化遺産とは関係なく、やたらと文化財が乱発されている。登録文化財はもちろん、指定史跡や、民俗文化財的価値、文化財資料などとの関連が立て続けに指定された。もちろん付近には小洒落たカフェもあるし、韓服のレンタルもあるので、観光客気分で記念写真を撮るのもイイかもしれない。

 

多世帯住宅の原点がここにある

ここには現在もひとが住んでいる。当時であれば最新の分譲住宅に当時の生活様式のまま住むのだろう、家長夫婦を頂点として、ジジ・ババ若夫婦が同居する。当時の朝鮮は早婚だったから女性は20歳までに2~3人のこどもを生む。この間取りでも小さいこどもも数人いるだろう。もちろん女子供は奥から出てこないと知られている。嫁取り前の若夫婦の兄弟もいっしょに同居する。このように2~3世代がまとめて住んでいた多世帯住宅だったことが知られている。当時を研究した資料から俯瞰図で紹介しよう。

 

                

 

外見からも分かるが隣家との間隔はとても狭く密集して建てられている。とても狭い中身をニホン式に説明すると、4畳半程度の四角い部屋を隅に配置し、3畳、4畳間を継ぎ足したような構造となっている。それぞれの建物の間口は7m~10m程度となっているから4畳半が3つ入るわけではない。中庭があることを考えれば雨漏りには我慢して風通しはなかなか快適だ。しかしこのなかに3~4世帯が同居することを考えれば、奥の方で横になって寝るだけの空間だったと言える。(オンドルは寒い地方のモノなのでソウルの韓屋にオンドルは無い)

 

▲間口10mタイプの住宅平面図を示した、改装後の図では水洗トイレが見られる。

※伝統韓屋を分析すると必ず登場するのがトイレだが、当時の韓国人住居にはトイレが無い、トイレの設置義務が制定されたのは1934年以降の大通りに面した家屋敷だけだった。

▲糞尿処分場が出来たのは1926年のこと、個別な便所が無い地区では集合便所が設置された。※それまで糞尿の回収は行われたことが無かった。すなわち道路に垂れ流しだった。

 

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部屋の奥に住むジジ・ババのおまるを流すのは嫁の役目

 

 軒下にはキムチ壺が隙間なく並べられ、物売りが狭い路地を行き来するのである。こうしてみると寝て起きて食べることに不自由は無い、ソウルでも広く水道が引かれるようになる1970年代までは少し歩いて水汲みが日課となっていた。

朝鮮時代、洗濯と水汲みの区別があいまいだった。水汲みと洗濯は家事から解放される唯一の逃げ場だった。

そして何より苦痛だったのが、トイレの無かった住居の住人の垂れ流す糞尿を表の道に捨てに行くソウル嫁の仕事だった。おまるの中身を毎朝嫁に捨てに行かせることでジジババは「家庭に君臨しているのは私たち」という認識を持ち、脳内平衡を保つことが出来たのである。

チゲ鍋の食べ残しを与えられ、おまるの中身を捨てに行かされる。こうした日常の繰り返しで、ソウル嫁は自身の社会的地位が下位にあるものを刷り込まれ、ジジババは支配する喜びを得ることが出来た時代が朝鮮時代だったわけだ。  スゴイダロ

 

 

 ▲ニホンで言うと昭和初期にあたる1930年代半ばの洗濯の様子、洗濯桶やたらいはまだあまり普及していない。ブリキの大たらいはMade in Japanで超高級品だ。最近の研究によると婦女の行う洗濯は一日4時間にも及ぶという。決して洗濯が辛いことは無い。むしろジジ・ババのおまるの中身を表の道まで捨てに行く。そうした社会習慣のようなものが韓国女性の社会進出を促したわけだ。

ちなみに当時の朝鮮服は言わば柔道着のような生地を仕立てたものだ。

 

ソウル北部の起伏の多い地形は1970年代に都市開発が及ばず水道や下水道の接続がとても遅れた地域だった。このような路地には練炭を積んだリアカーがくまなく配達をするのである。練炭の灰はそのまま道普請に使われることが多く、これを住宅共同体の成しえた路地の簡易舗装に役立ったと理由付ける研究者までいる。

 

 

 

大家族が同居する朝鮮の生活様式に合わせた多世帯住宅型として最初から建てられたため、住宅地としての土地の区割りは長屋などの江戸の暮らしよりだいぶ広い。そのため1970年代の経済成長期に多層住宅の建設が推進されるとそのまま多世帯住宅が多層化した韓国式多世帯住宅へと移り変わることができたことは高く評価される。

 

 

新築当時が無かったなんてことは無いだろう。着色や装飾が無かったわけでもないが、伝統韓屋は当時の新築分譲住宅だったことは確かだ。

 

この建物の新築時には中にはトイレが無い。総督府がトイレの設置を強要したのは行商などが売り物を並べる市場とその通りに面した家屋だけだった。また伝統韓屋には収納が無い。最近の研究では螺鈿細工の朝鮮箪笥があったはずだとされる。もちろん韓国には畳もない、寝るのは板の間に敷かれた万年床だ。

 

 

あちこちに残る改良韓屋村

1930年代に分譲された初期の分譲地がいくつかそのまま残されている。衛星写真を見ても分かるように、特徴的な中庭を真ん中にしつらえたの字やらの字の瓦屋根の建物が見えているのは、まず、ソウル市 鐘路区 益善洞の益善洞韓屋村と呼ばれる一帯だ。

 

ここはバッカス公園のすぐ裏手だが、ソウルっ子の声に代わって説明するなら、単にソウルの恥部なのである。決してタクシーなどで行こうと考えてはいけない、運転手も戸惑うハズだ。ましてや。韓服に着替えて写真のひとつでも>>>>> もう、勝手にどうぞなのである。

※最近になって屋根のブルーシートは取り払われ、瓦屋根と同色の防水布に代わっている。遠目で見れば整然とした韓屋村に見えるだろうか

 

おなじみの360°ビューで散策をお楽しみ下さい。 http://kko.to/dJNKwWEzIL

 

◎益善洞一六六ノ五(舊樓洞宮址)瓦家10間から25間、30余棟建築中、数日内竣工などと景気の良い文句が並んでいる 1930.7.27 朝鮮日報

・桂洞、體府洞、寛勲洞、昌信洞などのうち開発が進んで伝統韓屋の痕跡が跡形も無いところもある。

の文字に注目するとどうやら土地の意味らしい、ニホンでは全く別の意味だ

 

 

イメージ 3
언론사뷰누더기 지붕 즐비한 인사동, 한옥보전구역 맞습니까?

 

このへんは桂洞通りで知られる。入り組んだ路地は韓国人の好む、狭く、暗く湿った、散らかって狭いところという条件を充たしている。まさに韓国人の暮らしの原風景なのだろう。

 

このへんもきっと当時は新築瓦家だった頃があったはずだ。狭い路地も今では簡易舗装されているが、雨が降ればぬかるむ泥道だった。キムチ壺がズラリと並ぶ路地を思い浮かべるのも良い。 

360°ビューは http://kko.to/8zG_DyJOjz



 

 

 

 

 

 

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