minaQのつぶやき 네토미나

嫌韓(いやかん)ってホントはどうなの?

大韓民国臨時政府の飛行学校開設の仮説は2009年に作られた

読んでから笑う?
 
だったらイイなを記事にする、常習的捏造犯罪者集団による喜劇
 
[ニュースミーナ] 世界中が腹を抱えて笑い転げた大韓民国臨時政府飛行学校”という熱烈な妄想記事の出だしは一昨年の3月に作り出されたことが明らかになった。
米国在住の“常習的英雄製造人”と批評されているハン・オソン氏による“だったらイイな”を記事にしてそれを大々的に韓国国防新聞が報じたものだ。
彼の主な手法は”断片的な資料”と“時代背景の合わない写真”を巧みに利用して、鎖国状態だった李朝朝鮮からアメリカに移住し市民権を取った挙句に飛行学校設立から“来たる日のための空軍士官養成”へと結びつける代表的韓国型脳内妄想によって“韓国空軍”の新しい歴史が作りだされている。
 
 
 
大韓民国臨時政府ウィルロス飛行学校(上)
 
臨時政府の‘秘密空軍士官学校’ 1920年
 
'韓国人最初パイロット ジョージ、リ’を発掘(週間朝鮮2045号報道)ある在米言論人ハンオソン(52)氏が自身が取材した上海臨時政府飛行学校とこれを支援した在米同胞最初百万長者キム・ジョンニムの話を送ってきました。 大韓民国空軍の根源で知らされた臨時政府飛行学校に対しては専門家たちの関連論文等を通して概略的な事実が知られていたが韓牛姓氏は1年にわたった現地取材を通じて設立から廃校に達する全過程を几帳面に復元やり遂げました。 特に飛行学校設立に決定的な寄与をした在米同胞キム・ジョンニムの活躍像が詳しく報道されることは今回が初めてです。 ハンオソン氏の寄稿を上・下篇で分けて紹介します。
 
臨時政府のウィルロス飛行学校は当時‘韓国人飛行学校’ ‘飛行家養成所’ ‘士官養成所’ ‘ノ・ベンニン(臨時政府軍務総長で飛行学校設立主導)軍団’等と呼ばれたし日本も‘護国独立軍飛行機学校’と称して神経を尖らせた所だ。 3・1運動の次の年の1920年2月、サンフランシスコから北に約230km離れたカリフォルニア州北部ウィルロス(Willows)市一員の広大な大平原にドアを開けたこの飛行学校では‘独立軍空軍養成’という臨時政府の遠大な夢が最小1年6ヶ月程度続いた。
数十人の韓国人青年たちがこちらで飛行士訓練を受けたしイム・ジョンウンこの中最小2人を(独立軍)飛行場教で公式任官させた。 ホンスヒョン(韓国独立運動史研究所責任研究員),ホン・ユンジョン博士(親日反民族行為真相究明委員会調査官)等この懸案に精通した学者が今日大韓民国空軍士官学校もこの飛行学校の法の正統をつなぐと信じる最も重要な理由だ。 現在の大韓民国空軍は公式にウィルロス飛行学校を自分たちの根源としている。
 
▲ウィルロス飛行学校の1920年の姿.‘米国嘉酒(加州·カリフォルニア)韓国人飛行隊…ノ・ベンニン将軍紙部下に’という句が刻んでいる。/ photo USC東アジア図書館
※単座の飛行機で飛行訓練という荒唐無稽な荒業は全く違う写真から捏造された。
 
戦勝国の一部だった当時の朝鮮半島
ウィルロス飛行学校がドアを開けた1920年2月は1次大戦が終わってわずか1年が少し去る時点だった。 列強に侵奪された弱小国の独立開くがいつの時より高かったし国内でも上海臨時政府が誕生(1919年4月13日)という背中独立活動家が戦列を整備した頃だった。
 
ウィルロス飛行学校を推進した主要人物中1人はノ・ベンニン臨時政府軍務総長(現国防長官に相当)だった。 大韓帝国陸軍武官学校長を過ごしたノ・ベンニンは1916年ハワイに亡命して独立軍養成に努めて自身が臨時政府群舞(軍務)総長に任命されたという消息を聞いた。
イ・スンマン、ソ・ジェピルなどと共に独立運動方略を相談するために米国本土に渡っていった彼はカリフォルニアで在米同胞最初百万長者キム・ジョンニムなどの全面的な支持と支援を受けて飛行学校を設立することができた。 ノ・ベンニンは軍事力を通した独立争奪を重視した人物で1次大戦を見守って空軍の効率性に注目して軍務総長になるやいなや空軍養成を臨時政府の公式政策で推進した。

祖国独立に向かった夢
1920年7月5日開所式…現地新聞大々的報道
韓国·中国などいろいろな所に飛行学校追加設立計画
ウィルロス飛行学校は1920年2月20日設立されたとのことが定説だ。だが、現地新聞‘ウィルロスデイルリジョノル(Willows Daily Journal)’は2月19日付で‘韓国人ら飛行場を持つ’として1面全体を横切る題名のトップ記事で飛行学校開設の便りを詳細に伝えていて飛行学校設立の正確な時点に対してはもう少し糾明が必要だ。
 
飛行学校設立よりも先に報じられた歓迎式典、その時点では“そういう計画中”
ウィルロス飛行学校設立は一瀉千里に進行されたと見られる。 ノ・ベンニンが飛行学校設立に対する事前調整なしでサンフランシスコに到着して同胞が斡旋した盛大な歓迎式を持ったのが1920年1月15日であったのに2月19日以前に飛行機3台と飛行場敷地40エーカー購買、教官と整備士採用、学校建物賃貸借契約、学生15人募集などが皆終えられたことで記録が伝えている。 これと関連してウィルロスデイルリジョノルは1920年2月19日付で“米農作業で金持ちになった韓国人キム・ジョンニムが韓国人青年たちに操縦技術を教えるために飛行場を設置する計画だと19日明らかにした。このために最近門を閉めたクイント学校(Quint school)を賃貸したし学校近隣飛行場敷地40エーカー(約4万9000坪)もすでに購入した。 教官も1人採用したし、最先端機種の飛行機3台もすでに買い入れてまもなく到着するが、整備士2人が責任を負うだろう”と報道した。クイント学校はこの地域白人移住者らの子供教育のために1914年開校して1918年門を閉めたところだ。
 
妄想はさらにとめどなく拡大する
ウィルロス飛行学校は設立後急速に席を占めながら学生たちも増えた。新韓民堡1920年3月19日付は“ノ・ベンニン閣下が経営するウィルロス飛行学校に進んで飛行術を練習することに決心した学生はがっしりした青年24人”だと書いた。 これらはパク・ヒソン·操縦イクチョン·モンニョン·ホンジョンだけ·チェ陵イクなどなのにキム・ジョンニムが当初学生数が15人といって約1ヶ月ぶりに24人に増えたのだ。記録によれば飛行学校学生数は6月22日また30人に増えた。
 
▲臨時政府飛行学校があったクィント学校建物一部(2009年1月23日撮影) / photoキム・サンギョン
※この建物周辺に飛行場施設のあった形跡は確認されていない
 
だから飛行機はいつ買ったのか?新聞記事には何も書いていない
ウィルロス飛行学校は6月22日初めての飛行機を所有することになる。この日ウィルロスデイルリジョノルは“飛行機がホールスコット(Hall-Scott)エンジンを装着した最新型”としながら“韓国人は飛行機を上手に扱い次第韓国に帰ってそちらにもあちこち飛行学校をたてる計画”と報道した。
当時この新聞は“韓国人は一般的に知らされたよりはるかに野心的”と評すこともした。当時面白味中国人もレッドウッドシティで対日戦争のための飛行家を養成していたが中国人は訓練機一台を整えて中国人青年数十人を訓練させる規模であった。 これに比べて韓国人は初期から最小3機の訓練機を整えて訓練生100人を同時に教育できる規模を念頭に置いただけでなく飛行学校を東北アジアいろいろな所で広める計画も持っていた。
 
じゃぁ誰が飛行訓練教官をしたのか? 単座の旧式戦闘機で単独飛行したという説まで
実際ノ・ベンニンは1920年3月1日付ウィルロスデイルリジョノルとのインタビューで“飛行学校は3·1運動の延長線にあって操縦士を養成して窮極的に対日戦争に動員されることができる”として“中国いろいろな所に飛行学校を設立する計画もすでにたてている”とした。
ウィルロス飛行学校は1920年7月5日同胞200人余りが参加した中で公式開所式を挙行したし切り取るということして米国人首席教官フランク プライオントゥが試験飛行をリリースした。 以後飛行学校はより一層体系化されたシステムを整えていった。 編成上飛行学校(飛行家養成所)の上級機関であり後援機関で一種の会社の飛行家養成社を置いたし‘飛行家養成社若い男’まで採択した。
当時採択された‘飛行家養成趣意書’はスタート趣旨が‘祖国の独立を目的に飛行家を養成することにある’(1章2条)を明確にした。 付則では‘本社は本社の目的を成し遂げるために飛行家養成所を設立するということ’(付則3条),‘飛行家養成所は監督1人を置いて管理するということ’(付則4条),‘飛行家養成所の監督は役員部が選定するということ’(付則5条)と決めた。 飛行家養成社初代総裁にはキム・ジョンニム、飛行学校初代監督にはクァク・リム代価各々就任した。 学校が位置するのを見たノ・ベンニンは臨時政府に行くために7月16日北米を離れた。
 
まだまだ長いから勝手に見に行ってね (´▽`*)アハハ
 
なんと尾翼部分には“大清国属国旗”まで書き足しています。
 
 
こんな機体だったらイイな  こちらは現存する飛行可能なあるコレクターの私有機
 
この二人にはありふれた名前が付けられ立派な経歴と抗日戦争での大活躍が期待されていた、また航空飛行士免状なる“ハングル”で書かれた怪しげな書類も実在したとなっている、
しかしいまだにその“出生日時”や“遺族”や“輝かしい経歴”を明かす証拠は何一つ公開されていない、 
 
戦争の混乱で資料が散逸したニダ