minaQのつぶやき 네토미나

嫌韓(いやかん)ってホントはどうなの?

京仁戒厳司令部のおしらせ

 
 
 
落伍将兵は今もいる
 
 
 
 
イメージ 3[ミリタリーミーナ] 1950年10月5日、国連軍の手でソウルはひとときの平和をとりもどしました、東亞日報が復刊したその日に京仁戒厳司令部発で公告が通達されました。
 
これによれば"軍服の着用を禁ずる 軍服上下 帽子 軍靴 外套類"とあります、市民向けの公告なのになぜ軍服が出てくるのでしょうか?  答えは簡単でした、落伍将兵に関してと書かれた部分には六月二十五日以後京仁地区で落伍した将兵は一両日中に出頭せよ 来ないと敵前逃亡:と認定して厳罰になっちゃうよ と書かれています。
 
開戦からわずか100日のあいだに散りぢりになった韓国軍の兵隊は推定で7万人以上、このほとんどが山に逃げ込んだとする証言にもあるように韓国軍の兵隊の逃散はひどいものだったようです。 
当時の韓国軍は創軍間もなかったこともあり連合国式(特に米軍)の余剰となった武器・装備を譲り受けて配備していました、とはいっても韓国軍の軍備増強に乗り気じゃなかった軍政司令部は要求された米式装備をなかなか渡そうとしなかったため朝鮮戦争の開戦には結局間に合いませんでした。
つまり日本軍が残してきた”仁川被服廠”に残されていた旧日本軍の軍服が韓国軍の軍服だったのです。
ところが6月25日の事変勃発で事態は一変しました。 
共和国軍から見れば同じ朝鮮人でも敵の軍服を着ていればそれは敵になると言うことですね。 開戦序盤から部隊を離れ逃げ出した韓国兵たちは途中で装備を投げ捨てて文字通り裸になって逃げ回ったということです、 またそれを拾った市民がやがて来る冬に備えて軍服を着たりしました、 もちろん兵隊の持っていた鉄砲とかは村々のどこかに隠されたそうです。
 
 
イメージ 1
 
 
▲国連軍がソウルを再占領したとき真っ先に戒厳司令官名で公告が出された10月5日付けの東亜曰報の新聞には治安・配給といった文字が並んでいる。
 
 
 
記録によればキタ朝鮮軍に鹵獲された韓国軍の武器や火砲、車両など、開戦から1週間で集められた武器類はおよそ8千人分、捕虜は2000人程度でしたから武器を捨てて逃げた数がいかに多いかがわかります。
 
釜山までの撤退の最中に計7万人が行方不明になるという未曾有の総崩れというのは近代史上でも稀にみる喜劇だということだそうです。
(話題のインパール作戦でも行方不明者は1000名程度でした。)
 
韓国軍は翌年になると反攻のために兵隊を集める事を企画しましたが、その際に選ばれたのは逃げ出した兵隊を再集するのではなく、新たに募集することでした、そんな彼らがそのあとどうなったのかは歴史になって残っていますね
 
 
 
 
イメージ 2
 
檀紀四二八三年というのは西暦1950年のこと 戦争がはじまってまだ100日にしかならない、このあと3年も続く戦争のなかで韓国兵は武器を捨て荷役に注力することになる。
 
 
 
其の三 身分証明書無効に関して... 国連軍の反攻が速かった為に再占領地の中には多くの共和国軍の兵隊が取り残されたりして混乱していたようです。 
 
戦時では戦闘に参加する兵隊は軍服の着用が義務付けられているので裸だったり私服を着ている"兵隊"というのは脱走兵やスパイに分類されて処刑されたりします。
ここで軍服を脱ぎ捨てた韓国軍の兵隊とその軍服を着て韓国軍に成りすまそうとする共和国軍の兵隊が出てくるのですが、どちらも同じような朝鮮人でしたし、話す言葉も一緒なので区別が付きませんでした。 
 
また韓国軍のほうでも"部隊全部"が逃散したために兵隊の記録なども亡くなったため再編成までに時間がかかることになったのです。 そのため戒厳司令部ではそれまでの身分証明書を全廃して再発行することにしました。 
 
その結果もう一度、山のほうに逃げ出した韓国軍の兵隊が続出したようです。
 
戒厳司令部はこのあとも再三にわたって落伍兵が原隊復帰するよう号令を掛けますが結果としては部隊再編成はほとんど行なわれることなく3年後の停戦を過ぎても山から出てこない敗残兵のために大規模な山狩りをするなどの苦労をすることになります。
 

 
(翻訳:ネトミナ)
 

 
なんとも勇ましい記事がいっぱいあったりするんですが、このころからすでに"だったらいいな"を記事にする習慣があったようですね。
 
 
 
 
   おまけ  大活躍の第3師団も北上中ですよ (荷役部隊だけどね)
 
イメージ 5
 
▲ソウルの人口が42万人減ったり
 
 
イメージ 6
 
▲国連軍が元山に迫るころ韓国の第三師団は150kmも後方だったり
これは別名"白骨部隊"って言います、後方部隊として占領地の警備とかしてました
 
 
 
イメージ 4
 
▲やっぱり元山までは遠かったみたいです 通川から元山まで150km
荷役部隊だからね