爆弾3勇士なら肉弾10勇士ニダ
すばらしい超時空戦果、ウソばっかり
韓国軍の活躍した戦争はなぜか国連軍のいないところで必ず起きるらしい
[国防ミーナ] ニホンでは戦中戦後におおくの戦争文学が書かれてきました、これらは多くのニホン人が読んだのはもちろんのこと、遠く玄界灘の向こうにある国でも読まれたそうです。
ニホンに戦闘機エースがいれば韓国でも朝鮮戦争時のジェット機による撃墜王が名乗り出るし、ニホン海軍に世界に冠たる提督がいれば当然韓国にもいることになりました、まさにニホンにあるものはすべて韓国にもあるという素晴らしい超時空がそこに存在するんですね。
※韓国空軍がジェット戦闘機を受け取ったのは戦後しばらく後のこと
日本陸軍における三勇士(さんゆうし)とは、独立工兵第18大隊(久留米)の江下武二(えした たけじ)、北川丞(きたがわ すすむ)、作江伊之助(さくえ いのすけ)の3名の一等兵である。1932年に第一次上海事変で敵陣を突破して自爆し、突撃路を開いた英雄とされる。「爆弾三勇士」「肉弾三勇士」と言われた。 ※この伝説のお手伝いをしたのは朝日新聞だったとか
韓国戦争勃発前の1948年から、南北間の武力衝突は、 38度線全域で行われていた。これらの武力衝突は南北が正式に国家を樹立した1948年後半以降、より一層激化され、 開城もこのような競合が激化している場所の一つであった。
似たような話で春川-洪川の戦いで全身を投げて戦車11台を生身で破壊した肉弾11勇士の話もある。この時、11人は全員生存して復帰した。
1949年5月3日、北朝鮮軍は奇襲的に開城の松岳山高地と陣地建設中だった味方陣地を陥落させた。奇襲攻撃に遭った韓国軍第1師団11連隊はすぐに反撃を開始したが失敗。これは、高地に北朝鮮軍がトーチカなどで防御施設を構築し、これを制圧していなくては反撃することができなかったからであった。
1949年5月4日午後12時、パク·チャングン軍曹が最初に手榴弾を持ってトーチカへの攻撃を敢行、トーチカのいずれかを破壊した。
※持っている小銃M-1カービンが韓国軍に供与されたのは戦争中のこと
これとは別には、韓国軍はトーチカを破壊するための特殊部隊を組織し、トーチカの破壊のために81mm迫撃砲弾や手榴弾を接続した即興の爆弾をそれぞれ持って可能な限り隠密に、それでいて簡単にアクセスしてこれを破壊することにした。もちろん、最初から自爆を明示したわけではない火力カバーなし歩兵だけ爆弾持って行ってトーチカを破壊するのは自爆コマンドまたは同様といえる。
1師団 11連帯副士官教育隊分隊長チェ二等上士が一番先に志願して引き継いて志願した特攻隊 8人まで, 合わせて総 9人はこの日午後 14時トーチカに近付いた、 北朝鮮軍の降りそそぐ砲火をくぐってトーチカに近付いて自爆するところ成功した。
しかし、当時の軍の観測記録には、爆発は4つだけ発生し、これに基づいて、4つのトーチカが破壊されたと推定している。
▲新聞に出たのは翌々日の6日 記事はこれだけ
開城市內(개성시내)에流彈(유탄) 國軍越南軍(국군월남군)을擊退中(격퇴중) 【開城五日發合同(개성오일발합동)】작四(사)일신관부산동(新舘扶山洞(신관부산동))부근에월남내습한북한인민군은동일오후三(...
戦争の後、10年後の1964年に採録された軍関係者の証言によれば、肉弾10勇士の活躍自体が嘘で、これらは迫撃砲の弾運搬中に北朝鮮軍に捕虜として捕えられと当時知られている、戦死したパク某少尉だけ脱出したが、当時パク少尉と親交のあったチェギョンロク中佐は師団長がすごく怒ってパク少尉を銃殺する動きを見せると、実際にはさっきした報告は正しくなく、実際には、すべてのトーチカに壮烈に自爆したと偽に戻って報告したものである。軍の上層部は、これらのことも知らずに、これを利用して詐欺を鼓吹させるために広く知られたものとされた。
▲10人をたたえる新聞は1949年5月21日付けで記事になった
※1949年とありますがそのころの韓国軍の実情は兵は充足数の60%程度、小銃は2人で1挺(ニホン軍の残していったお古、米軍の武器供与は1950年末から) しかも米軍は撤退を検討していて、その頃から韓国内には最小限の米軍が顧問団として残っていたにすぎないんだとか。
まさに誰も見てないところで大活躍の韓国軍
おまけ
国連軍はとなりで戦っている時の韓国軍のようす
1950年10月16日、平壌(ピョンヤン)へ北進中に創設された3軍団の指揮を取ったユ将軍は、翌年5月16~22日中共軍2次春季攻勢のときに行われた県理戦闘に兵力60%を失ない、創設8ヵ月ぶりに部隊が解体される恥辱を経験した。
※県里の戦い (县里战鬪)は、 1951年 5月16日〜5月22日の間、江原道 麟蹄郡 麒麟面県里で中共軍と北朝鮮軍 、 韓国軍の間で行われた韓国戦争中の戦闘だ。中共軍が春季攻勢をボルヨトウル時に行われた戦闘で麟蹄郡にあった韓国軍第3軍団が防衛に失敗しハジンブリまで押された。
また、ユ将軍は"作戦会議に出席する"として、作戦中、軽飛行機を利用して作戦地域から逃走して師団長などチェソク9師団長など軍指揮官らもそそくさと脱走する軍規の乱れを犯して兵士の士気を大きく落とした。
しかし、当時参謀総長だった白善燁将軍は自分の著書<ヴァン・フリート将軍と私>で"この時、劉載興(ユ・ジェフン)は作戦会議でさえ参加しなかった"と明らかにしている。
これにもかかわらず、国防部戦史の編纂委員会で発行した韓国戦闘史は県理戦闘について"中共軍2個群によって国軍3軍団隷下の3、9師団(3軍傘下の)が担当していたオミジェ防御線が突破されて退路を断たれて3軍団全員が撤退し悪戦苦闘を受け、70キロも後退した戦闘"と簡単に記録している。
しかし、当時、戦闘に参加した老兵と学徒兵たちは玄理戦闘について"敗戦ではなく、凄惨な敗走"と覚えている。
県理戦闘生存者であるチョンビョンソク(76)氏は昨年8月<連合ニュース>としたインタビューで"当時、指揮部が連絡機で脱出したという噂が広がり、味方の士気は地面に落ちた"、"戦況が切迫したため、迫撃砲など重火器はバンテ山岩の下に隠したまま、着の身着のままで抜け出した"と述べた。
当時3師団23連隊1大隊4中隊所属の伍長にこの戦闘に参加したパクハンジン(83)さんも "指揮部が先に逃走すると、指揮体系を失った兵力は中隊、小隊単位で10人規模でバラバラ飛び散り、小銃を捨てた兵士も数え切れないほどだった"、"一部の将校たちは恥ずかしくも職位を離れて逃げた" と述べた。彼はさらに、"悪戦苦闘の中に落伍された国軍多くは中共軍の追撃で犠牲にされたり、捕虜となって北朝鮮軍に戦線に投入されて味方に銃口を向け合う悲劇を経験した"と述べた。彼は"飢えと脱力に死んでいった戦友も大半だった"と残酷な状況を説明した。
当時、戦闘に参加した捕虜になって北朝鮮に連行され、さまざまな苦労をして1994年に脱北した帰還国軍捕虜1号のチョチャンホ少尉は劉載興(ユ・ジェフン)将軍と面談を要求したが、2006年に死亡するまで拒否されたという。
結局4日間で70キロを逃げた3軍団の兵力は5月19日午後、中国軍の包囲網を脱して平昌ハジンブでようやく収拾された。集結兵力は3師団34%、9師団40%に過ぎなかった。
▲銃を持っているのはキタ朝鮮の兵隊
あはっは~ ちょ~まじ