李将軍が倭軍の軍船330隻撃破?
李将軍が倭軍の軍船330隻撃破? 真実はこうだ?
[うっかりミーナ]12隻の朝鮮軍船Vs 330隻の倭軍、歴史を変えた偉大な戦争が始まる! 李艦隊の伝説的な勝利である慶長の役の鳴梁大勝を素材にした映画<鳴梁>の広報フレーズだ。映画<鳴梁>の公式予告編、宣伝ポスター、ホームページなどで鳴梁大勝は「朝鮮水軍12隻対日本水軍330隻の対決」と紹介された。
何よりも優先される”だったらいいな”という韓国型発想
しかし、この数値は、百科事典に収録された鳴梁海戦の記録とは違いがある。<斗山百科>と<韓国民族文化大百科>は鳴梁海戦を朝鮮水軍13隻対日本水軍133隻の戦闘と定義する。朝鮮水軍の艦船の差は1隻で大同小異である。
鳴梁海戦李艦隊... 12隻なのか、13隻なのか
鳴梁海戦に参戦した朝鮮水軍の艦隊を12隻に記憶する人は多い。これは、三道水軍統制使(今日の海軍参謀総長)李が先祖にあげた狀啓(今日のレポート)の記録が有名だからだ。先祖の王が朝鮮水軍を軍に編入することを注文してみると李舜臣将軍は、「新はまだ12隻の船が残っています」という内容の報告を使う。この記録は、李舜臣将軍の甥であるこの方の<ヘンロク>を介して伝えられる。壬辰倭乱当時、文臣の西涯柳成龍が書いた<懲毖録」にも李艦隊は12隻に記録された。
これに対し、朝鮮王朝実録である<先祖実録>には、朝鮮水軍の艦船が13隻に記録された。当代に使われたイハンボクの<総ミンサギ>やはり「船13隻を率いて」という詩がある。<先祖実録>の該当記録は鳴梁海戦戦勝狀啓を引用して、明に報告した内容である。つまり、<ヘンロク>は李舜臣将軍が直接書いた内容であり、<先祖実録>の記録は李舜臣将軍が直接書いた内容に基づいている。両方の記録はすべて信憑性が高い。
しかし、李舜臣将軍本人が異なる記録を残した点は疑問に残る。本<李の二つの顔(キム·テフン著)>は、狀啓が上がった時点を比較して答えを探す。<ヘンロク>の12隻の記録は鳴梁海戦前にあげた狀啓の内容である。一方、<先祖実録>の13隻の記録は戦いの後の勝利の報告を基にする。つまり、戦闘前の報告を書くときには12隻だったが、後に一隻を修理したり、建造して13隻が参戦したというのだ。これに関連しイジョンハク順天郷学校の李研究所前所長は、1997年<聯合ニュース>とのインタビューで「1597年旧暦9月9日(鳴梁海戦の1週間前)ソング将軍が戦船1隻を率いて参加したので船は13隻に増えた」とし、1隻が追加された背景を明らかにした。
もう一度目を通しておきたいニホン側のWiki ココ
3倍近く違いが出る日本艦隊は一体何隻あったのか...
何が真実なのか、それなら日本軍の艦隊は何隻だったのか? 公式記録は133隻である。百科事典だけでなく、ヒョンチュンサの鳴梁海戦記録も133隻だと紹介している。一方、映画<鳴梁>をはじめとする劇作品は330隻、あるいは333隻という設定を使う。映画<鳴梁>は330隻、KBSドラマ<不滅の李舜臣>は330隻。映画「天軍」は333隻という設定だ。朝鮮軍の艦船は一隻の差で解釈が分かれてるけど、日本軍の艦船は、分極を経て、3つの密接に差がある。130隻と133隻、そして330隻と333隻はすべて、文献に記録された内容である。
今<乱中日記>と呼ばれる<乱中日記直筆稿本>は130隻、李の甥が書いた<行録>も133隻となった。<先祖実録>も130隻という記録がある。これに対し、<李忠武公全書」に収録された<行録>には333隻に記録されており、やはり<李忠武公全書」に収録された<乱中日記>である「<忠武公全書本>は、 330隻と書かれている。これだけではない。柳成龍の<懲毖録>には200隻、<鳴梁大捷碑>によると、500隻という記録もある。
日本水軍の艦船の記録は、朝鮮水軍の艦船記録とは異なり、<乱中日記>に記載されている。第三者の証拠よりも信頼性の高い李舜臣将軍の文が伝わるだろう。現存する<乱中日記>両方のいずれかの版の日本水軍の艦船の記録は、次のとおりである。「積善130隻余りが私たちの船を取り囲んだ"<蘭州日記直筆草稿本> "敵船330隻余りが私たちの船を取り囲んだ" <蘭州日記李忠武公全書本> <蘭州日記>記録にも大きな差がある。しかし、<蘭州日記直筆稿本(便宜上、蘭州日記)>が<蘭州日記李忠武公全書本>よりも信頼できる。二版本の編纂時期に答えがある。<蘭州日記直筆草稿本>は、文字通り、李舜臣将軍が壬辰倭乱当時のに残した記録である。これに対し、<蘭州日記李忠武公全書本>は、正祖王の時の1795年に編纂された。壬辰の乱の200年後の記録である。つまり、李舜臣将軍と関連した各種の記録を後世に整理する過程で、日本船の数が膨らませた。壬辰倭乱直後、李舜臣将軍の甥が書いた<ヘンロク>も<李忠武公全書>に再編纂する過程で歪曲された。本来<ヘンロク>は日本水軍の艦船の数を133隻となったが、正祖王の代に再編纂され、333隻に増える。
折衷案もある。倭軍浦に停泊した船よりあったが、実質的に参戦した船が130隻ということだ。この場合、130〜330隻の違いを説明することができる。しかし、李舜臣将軍本人が当代に残した記録に優先するほど妥当な主張ではない。もし事実だとしても、数値計算では、実際に参戦した船の数問うほうが正しい。
何度でも目を通しておきたいニホン側のWiki ココ
”倭軍の規模過大に、李舜臣将軍の業績に役立つだろうか"
映画<鳴梁>の「朝鮮水軍12隻対日本水軍330隻」という船の数は、文献に基づいたことは事実である。しかし、映画<鳴梁>は、現存する様々な記録の中で、朝鮮軍船の数は最も少ない記録、倭船の数は最も多くの記録を採用した。これは、先に説明したように妥当性が落ちるの記録である。
映画<鳴梁>だけではない。映画「天軍」、ドラマ<不滅の李舜臣>で妥当性が低下する数値を書いた。さらにKBSドキュメンタリー「歴史スペシャル」でも、日本水軍の艦船の数を330隻と放映した。朝鮮水軍の艦船の数が12隻より一隻多い13隻とし、日本水軍の艦船の数が330隻ではなく、133隻とし李舜臣将軍の業績が卑下されているわけではない。優れた戦略と執念で比類のない強さの違いを乗り越えやり遂げたという事実は変わらない。白衣従軍ながらも、戦場に出て、民を守った李舜臣将軍の精神も変わらない。同じ脈絡でイジョンハク順天郷学校の李研究所前所長は、1997年<連合ニュース>インタビューで「倭軍倍の数を誇張することは、李舜臣将軍の業績を称えるために何の助けにはならない」と指摘した。もちろん、映画の特殊性を考慮すると、劇的な状況を作ることは劇的想像力で理解しなければならないという反論がある。しかし、映画「鳴梁>は、歴史的考証に忠実したことを確信している作品である。映画という媒体の波及効果も無視できない。最も妥当なものと評価される定説を使うほうが望ましい。
あっちの映画の解説は ココ
(翻訳:2ちゃん番長)
白衣従軍というのは官職から遠ざけられて一般人の立場で戦闘に参加すること、というのが今日では一般的な解釈ですがその言葉が作られたのは比較的最近のことで1954年に韓国の新聞に登場します。これって実は、武器を持たずに荷物を運んだ朝鮮戦争時の韓国軍のことを言うのです。
1960年代からはじまった”韓国型歴史ファンタジー創作劇場”では5000年前の檀国建国のころの歴史創作からはじまりニホン統治時代の”独立軍”の英雄的活躍や”満州でニホン軍”を負かした韓国軍などの歴史が作られました。そうした中で特に記録の残っていない李将軍という事績をここまで美化して創作したことは素晴らしいことですね♪
ううぅ