minaQのつぶやき 네토미나

嫌韓(いやかん)ってホントはどうなの?

ニセ警官御用達のアレ

 
 
 
全国で飛び交う警察身分証3988枚…犯罪悪用憂慮
 

イメージ 1[今日もミーナ]2010年以後全国の警察公務員証紛失が何と3988件に達した。  1ヶ月に71個の格好で身分証を紛失するわけだ。
 26日セヌリ党ファン・インジャ議員が警察庁から提出させた'警察公務員証紛失現況'資料によれば年度別で2010年742枚、2011年1147枚、2012年780枚、昨年755枚、今年8月現在564枚の身分証を紛失した。

また、警察退職者公務員証未返却現況を調べたところ、昨年以後今年8月まで退職した警察官のうち身分証を返却しなかった事例も206件に達することが明らかになった。  地方庁別に調べると京畿(キョンギ)警察庁が122枚で最も多かったしソウル警察庁が41枚で後に続いた。
 
反面、警察庁付属機関である警察教育院、中央警察学校、警察病院は身分証紛失と未回収件数がただ一件もないと調査された。
ファン議員は"粗末な警察身分証管理体系が改善されなければ警察を詐称した強力犯罪につながる可能性も排除することはできない"として"警察身分証は所持者の意図により各種強力犯罪に悪用されて国家の秩序を揺るがす危険性がある"と話した。
これに続き"さらに国家安保などと関係した重大犯罪ならばその後遺症と波紋(波長)が大きくならざるをえない"として"警察公務員証はさらに厳格に管理して紛失などに対しては明らかな措置を取る必要がある"と指摘した。
 
 
(翻訳:2ちゃん番長)
 


 
韓国っていうとニセ警官が多そうに思いますがニセ警官になってすることといえば詐欺でしょ、それってふつうの警察官のお仕事と何一つかわりないのでニセ警官に数はそれほど多くありません。警官のあがりを掠めるわけですから警察にもマークされますよね、そーいうわけでニセ警官に化けるメリットはあまりまさそうです。
偽物に化けるといえば朝鮮戦争のときに兵隊に化けるのは流行りました。しかも個人で化けるのではなくて組織的に小隊を編成して戦場から後退しながら食料を徴発するアレですね。
朝鮮戦争当時兵隊の給料日は毎月25日でした。当時は徴兵の兵隊も数が少なくて給料はふつうの下級公務員と一緒でしたから進んで志願したらしいですよ。戦争が始まると弾の飛んでくるところはイヤですからみんなで逃げ出したのです。
そして公務員俸給の支給が再開されたのは何と翌年の1951年4月からでしたから、それまでの間かれらは自給していたんですね、はっきりいえば軍服を着た盗賊でした。
なにしろ国が釜山だけになったし当時の政府にはお金がありませんでした。
それでも兵隊には食べ物が必要でしたから”作戦指揮権”を国連軍に投げ渡して食料も米軍などにお願いしようとしたわけです。それで韓国軍の人数を国連軍が数えたら3万人という結果が出たわけです。これは韓国軍の報告による公式な調査結果ですから今更訂正することができない恥ずかしい黒歴史だそうです。
戦後になってその10万人いたハズの韓国軍の行方を調べようとしたところ戦死者が5000人くらいであとは逃げたひとだったのですが、戦争が終わらなかったので荷役部隊の再編などで復帰したのもいて正確な集計は今でもワカラナイそうです。
 
 
 
ハナシは変わって、おなじみペク将軍の回顧録でも面白いのがありますよ
 
[白善燁(ペク・ソンヨプ)の6・25懲毖録⑯]
戰史にも出ない恥ずかしい真実:戦時に師団長2人がソウルで逮捕された事情 
 
 
国軍2個師団、中国共産軍に一晩で瓦解、指揮官たちは戦場を捨てて投げ出して…。
(3)、鴨緑江(アプロクカン)水引きこと
油断が生んだ悲惨な結果
この席で、重ねて言うが、私は運が良い方だった。少なくとも1950年11月末中国共産軍の参戦と、大規模な攻勢の時迎えた国軍と国連軍の全般的な後退状況ではそうだった。私が率いる国軍1師団は米軍1軍団に属していながら彼らから強力な火力を支援を受けており、彼らの作戦統制に従って動いて、犠牲を最小化できたのだ。
中国共産軍の1次攻勢時、韓国軍1師団は捕虜にした中国共産軍の供述内容、4個大隊に上る米コサポ団の火力支援、私と一緒に中共軍捕虜を尋問した後、中国の参戦事実を深刻に悟った米1軍団長フランクミルボン少将の迅速な判断のおかげで大きな被害を受けないまま後退することができた。
問題は、いわゆる'クリスマス攻勢'と呼ばれた国軍や国連軍の進撃と、これを正面に打ってきた中国共産軍の2次攻勢だった。1950年11月24日、マッカーサー指揮部の命令によって国軍と国連軍は再び鴨緑江を向けた進撃に乗り出した。中国共産軍の参戦、事実と彼らの攻撃力を途方もなく引き下げて本マッカーサー司令部の失策であった。

 戦争で油断は禁物。そして最も恐ろしいことが兵力の分散だ。特に防御または後退の時に敵にどこを開いた場合、兵力は容易に散らばっている。敵が押してくる場合、味方の兵力が分散の兆しを見せた時、その後の結果は非常に惨憺する。2次クリスマス攻勢に出た私たち1師団も、そのような状況を迎えた。
平壌(ピョンヤン)近隣の立席で10日あまりの再整備期間を経た後、1師団は、平安北道泰川(テチョン)を越えて鴨緑江への押し入りに再び乗り出した。博川に到達した時だ。11月24日、中国共産軍が全面に現れるよう、続いて翌日には彼らの本格的な大規模攻撃が加えられた。私は戦線のすぐ後ろに小さな'前方指揮所'を作っておいてそこで戦況を見守っていたが、状況が非常に深刻だった。1師団2個連隊が崩れていたためだ。
私は現場へと急いで走った。各年代の隷下人大隊本部をやたらに走り回るなければならなかった。前線の将兵たちはもう多くが敵に背中を見せながら逃げていた状況だった。私は息が顎に着くくらいに急いで駆けた。各大隊を訪れ、などを見せて戻る将兵に向かって"こうしたらいけない、このままでは、私たちは皆終わりだよ!"と絶叫するように叫びながら彼らをはばんだ。
それでも状況はなかなか収まらなかった。私は口の中から焦げ臭い匂いがするほど走ってまた走った。各部隊と部隊の間を夢中で走り回りながら"押されれば、私たちは最後だ"と督戦を重ねた。すると、少しずつの隊列が安定を取り戻した。急いで負けていた状況が、慎重に後退するほうに変わっていた。押されたときミリても敵に最大限打撃を加えて後退する形で雰囲気が変わったのだ。
 
兵力の分散が最も恐ろしいこと
動揺しない電熱(戰列)は、そのためにも必要だ。戦線に立った将兵は隣に立った部隊と同僚の信頼を後ろに着て戦う。したがって、戦列の一つが崩れれば、すぐそばの部隊が深刻に動揺する。その熱列)を維持しながら攻撃を行ったり、後退を共にしなければならない。戦列の片隅があっけなく崩壊してと、すぐ近隣部隊の戦闘力の喪失につながる。このような時がくれば攻撃や防御みんなが不可能だ。
 
私はその点をよく分かった。戦闘を指揮して本指揮官が決して分からないことがない戦いの基本に該当する。戦線の指揮官はそんな'分散'の状況を最も恐れなければならない。したがって指揮官は一か所にただ座っていることはできない。戦闘指揮所で戦況を把握してもいつも現場に沿って動かなければならない。急な場合は直接電線を通いながら戦いの意志を蘇らせる'督戦(督戰)'を展開しなければならない。
幸いにも、国軍1師団の2個連隊は、無秩序な後退を止めて戦列をすぐ整えた。中国共産軍の攻勢に一方的に押されず、冷静に反撃し、3日程度を持ちこたえた。その後に韓国戦線に赴任して戦争を率いたジェームズ・ヴァン・フリート将軍はその点をいつも強調した。後退しながらもいつも敵に反撃を加える'後退移動'、つまりretrograde movementだった。当時、1師団は、戦列を崩しておらず、彼によって、着実な反撃も繰り広げられて被害を最小化できたのだ。
この点が国軍1師団と私の幸運だった。しかし、東に進出した米9軍団所属の米2歩兵師団は問題だった。これらは長くて狭い谷間に入って道の両側に待ち伏せした中国共産軍にとても厳しくて厳しい攻撃を受けた。前の回で紹介したいわゆる'インディアンテヒョング'だった。米軍の2個連隊と工兵大隊、師団直轄部隊、砲兵部隊がとても深刻な被害を被った。2個連隊以上の兵力の大部分が崩れ、米軍の戦争史でも記録に残るほどの敗北だった。
 
◆ ◆ ◆
 
しかし、国軍2軍団の被害はさらに深刻だ。徳川と永遠に進出した国軍2軍団隷下の7師団と8師団は、一夜に師団が崩れた。戦闘力をほぼ喪失するほどの莫大な打撃だった。前に先に紹介した通り、2軍団の主力と数あった6師団は鴨緑江に先着して水をしゃくって敵の包囲に巻き込まれ師団が崩れた。一ヶ月後、味方の'クリスマス攻勢'では残りの2個師団が戦力を喪失したことで、2軍団全体がなくなる結果をもたらしたわけだ。
米2師団を率いた人はローレンス・カイザー所長だった。彼は攻撃を行う時いろんなことを逃した。まず、退路(退路)を上程しなかった。先に進むことできるが、後ろに退く時の危険を見過ごしていたのだ。なかでも、敵がすでに待ち伏せしているかも知れない谷間に入り、夜間に部隊を移動させた。とても大きな失策であった。
部隊の後退時間が昼だったら、米軍は優れた火力で敵に対抗することができる。しかし、夜なら、状況が変わる。見えないところから飛んでくる銃弾と迫撃砲弾に対抗できないほど視野が結ばれて、それだけ恐怖が増える、攻撃を繰り広げる攻路での油断、後退する道の退路での性急さが結局災いのような米2個戦闘連帯の崩壊につながったことだ。
 
ソウルに逃げた戦線指揮官
しかし、より大きな問題は韓国軍だった。7師団と8師団は徳川と永遠で中国軍の攻撃を受けて戦闘力を完全に喪失した。一晩で瓦解されたことだ。韓国の戦史はこれを正しく書いているのだろうか。政府が刊行した公的な歴史記録を私たちはコンガンサ(公刊史)と呼ぶ。大韓民国政府が戦争の記録を出した公刊史には7師団と8師団の被害状況が詳しく書かれていない。
私も当時、国軍1師団を率いていた一介の前線指揮官だった理由で隣の師団である7、8師団の被害状況をまともに把握することができなかった。それだけすべての戦線の状況は大慌てで帰っていた。しかし、60年余りが経った今日も公刊史をあちこち探しても彼らに関する記録をまともに探してみることができないほどだ。
しかし、私は中国共産軍の攻勢に押されて国軍と国連軍がソウルを再び奪われた1.4後退頃に衝撃的な知らせを聞いた。その知らせを聞いた私は当時、あっけにとられた。'私たちが本当にこのように戦うもいいかな'という考えがまず、リードした。次に訪れたのは'私にもそのような場合が襲うならばならない'は深く深く自省)だった。
 
戦線で、崩壊した2師団の最高指揮官と関連した話だ。二人はとても残念にも、ソウルの街で、韓国軍に逮捕された。中国共産軍にソウルを奪われる寸前だ。多分憲兵がその二人を逮捕したのだ。なぜ韓国軍の憲兵が前線に立った2人の指揮官を逮捕したのだろうか。彼らは自分たちが率いた兵力を離脱したためだ。彼らの離脱は何を意味するだろうか。1万人を超える師団兵力の命を負ってしまって逃げたという意味だ。
師団長は、いわゆる'指揮官の花'と呼ばれる。自分が率いた兵力の人事権と行政権、司法権を手に握った人だ。昔の式で表現すると、部下の将兵の'生死与奪の権'を持った人である。そんな師団長がたとえ敗れたとはいえ、戦線のどこかに散らばっている私の部下たちを差し置いて、彼からかなり離れたソウルの街を徘徊したというのは何を意味するのか。とても深刻な問題だった。その二人は結局軍法裁判でとても重い判決を受けた。
指揮権を放棄して、軍をむやみに離脱しており、彼として自分たちが率いた多くの将兵の命を危険に作ったAからゼットまで指揮官としてそれ以上の罪がありえない。しかし、正直に言えば、問題は、その二人だけのものがなかった。その2人の指揮官は、もしかしたら当時の国軍指揮官が持つ一般的な姿を物語っていたのかもしれない。
戦争は非常に残酷であり、その中で生き残るために何を先にどうすべきかを私たちはまともに知らなかった。いや、もしかすると、私たちは戦争そのものを理解できなかった。戦争を理解する過程は時間がかかった。しかし、そのような過程をむなしく繰り返すには、戦争が投げた怪我があまりに深くて大きかった。
 
 
 
えっとねペク将軍は米軍と一緒に行動しています、ところが彼が指揮した”国軍第一師団”っていうのが眉唾なんですよ、彼の回顧録でも第1師団って出てくるんですが肝心な兵隊の写真がないんです、戦死者も無いし活躍した話もなくて
 
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