在日学徒義勇軍がコテコテのウソ
祖国のために玄海灘を渡ったらしい
「在日学徒義勇軍」のヨタ話
まばたきするようにウソをつく韓国人
Student Volunteer FROM JAPAN
[国防ミーナ]1950年6∙25戦争が勃発した直後、日本全国に居住する青年と学生642人兵役の義務がないことにも自ら進んで仕事と学業を中断し義勇隊を招集し、祖国戦線に参戦したがね。私たちはこの方を「在日学徒義勇軍」と呼びます。※在日学徒義勇軍はカトーサ(*韓国に駐留している米軍に配属された雑用をする韓国軍人)の始祖かもしれない
在日学徒義勇軍に6∙25戦争に参戦したこれらの大半は、潤沢な人生保証された日本の名門大学の学生たちでした。在日同胞青年たちはいくつかの理由で兵役の義務がないことにもかかわらず、自らの戦争に参戦したのでしょうか? ※現在では在日韓国人には兵役の義務がある?
6∙25戦争参戦を志願した在日同胞の多くは、日本の大学や高校に通っていた学生として卒業後出世が保証されているエリート層であり、信頼性の高い身分を持つ人々でした。当時、海外在住者には兵役の義務がなかったという点で、これらのの参戦は本当にすごいことですよ。
※ニホンでの安定した未来っていうのが現在でも韓国人の夢です。ワーキングホリディなどでニホンを目指す韓国人は現在でも西日暮里や鶯谷にたくさんいます。
※この記事は国家報勲処による韓国国内向け記事のため、”在日朝鮮人”が進んで参戦しようとしていたことを主張しています。
※帰還事業からみるとキタ朝鮮と韓国を選べたわけですがキタ朝鮮のほうが経済が発展しそうだった頃です(韓国がキタ朝鮮を超えたのは1970年代になってから)
その後、在日学徒義勇軍はどのように6∙25戦争に参戦することになったのでしょうか?
初めて6 ∙ 25 戦争のニュースを聞いた在日同胞青年学生は、祖国を守るために参戦を決心するようになったんです。在日同胞学生組織である韓国の学生同盟(韓学同)と朝鮮建国促進青年同盟(ゴンチョン)に集まった青年たちが自主的に参戦を決定し、その決定を在日大韓民国居留民団に提出しました。
それだけでなく、民団でも6 月27 日、中央本部執行委員会を招集し、大韓民国と祖国の同胞を助けることができる方法を模索して、6 月30 日、全国青年学徒義勇兵派遣と物資と慰問品を送る運動展開等の決議案を発表されます。
このようなニュースが在日同胞社会に知られ、短い期間に東京では約120 人、大阪では約80 人など、日本全国で約1000 人が義勇軍申請書を提出し、体力検査と審査を経て642 人が選抜されました。
このようなニュースが在日同胞社会に知られ、短い期間に東京では約120 人、大阪では約80 人など、日本全国で約1000 人が義勇軍申請書を提出し、体力検査と審査を経て642 人が選抜されました。
※東京120人、大阪80人? 他のどこにいたのかな?
6∙25戦争の中で、仁川上陸作戦と3∙1独立歩兵大隊
最終選抜された642 人の在日同胞青年たちは、米国の事前計画通り、各地方ごとに時差を置いて数回に分け6 ∙ 25 戦争に参戦しました。しかし、在日学徒義勇軍の戦争参戦は容易ではなかったとします。 在日学徒義勇軍は米国第7 師団に配属されましたが認識票だけでなく、階級章さえも付与されていません。軍人身分を示す表示では、軽装に使われた「SV(Student Volunteer)FROM JAPAN」だけがすべてだったのです。
※スチューデント・ボランティア=彼らの身分は”ハウスボーイ”という雑役係だったということでしょ
在日学徒義勇軍が祖国戦線で行った最初の戦闘はすぐに仁川上陸作戦です。その後、月山∙二進上陸作戦、甲山∙ヒェサンジンの奪還作戦戦闘、白馬高地戦闘などに参戦したんです。当時、灰と化した祖国を眺める在日学徒義勇軍の心は在日学徒義勇軍の回顧録の中の一言に切々と込められています。
※韓国人部隊が仁川上陸作戦に参加した事実はありません。
(広義の意味で戦闘終了後に仁川に上陸した韓国人は少数います。)
・米軍の上陸舟艇は不足していて、韓国人部隊を載せる余地などは
ありませんでした。
・ペク将軍も”韓国軍”の上陸作戦参加には口をにごしています。
・米軍の公式記録には韓国人部隊の作戦参加の事実は全くありません。
・通訳、道案内程度での韓国人の参戦者は少数いました。
・韓国軍海兵隊が活躍したというヨタ話は現在の韓国軍でも
公式には認めていません。
ソース:ウィキペディア
"ああ!これが今日の祖国である。これは私が自慢していた祖国の姿である。
どのよう泣きながら祖国を欠場し、祖国の解放を喜んでたのか...
しかし、現実の祖国は血で廃墟の中にいるんだ。」
- 在日学徒義勇軍第1陣イファルナムさんの回顧録の中で -
祖国のために命を捧げて戦ったが、在日学徒義勇軍は「軍人ではない、軍人」の身分で戦闘に参加している残念な状況に置かれていたんです。
単一の部隊創設を要求し、最終的に1950年10月30日、在日学徒義勇軍323人を集めて「3∙1独立歩兵大隊」が編成されました。しかし、1950年11月27日、中国軍の参戦により、形勢が変わって後退を重ねていた米軍が3∙1独立歩兵大隊の解散を命令します。
※公式の記録がないため、”3∙1独立歩兵大隊”の所属だったという人の記憶だけしか歴史的資料がありません。また米軍が解散を命じたという記録もありません。
学徒義勇軍の姿 ソース:戦争記念館の公式ホームページ
在日学徒義勇軍たちは解散命令に同意できないとし、抵抗したが、米軍の立場は断固とし、隊員たちは涙を流しながら解体手続きを踏みました。在日学徒義勇軍と3∙1独立歩兵大隊は、米国の公式編制表もなく臨時に編成された部隊だったためにありのまま記録されなかったんですが。
※公式にも存在しない在日学徒義勇軍、ニホンでは盛大な壮行会が開かれたけど現地では相手にされなかったの。
カリフォルニア州議会では3∙1独立歩兵大隊の指揮官だったという予備役大佐と3∙1独立歩兵大隊に絶賛する決議案を採択し、彼らの国への愛の精神が世界に知られ始めました。
※海を渡って行ったけど当時は米軍の指揮下にあった韓国軍に合流することもできず部隊として認められることもなく”指揮官だった”と主張したわけのわからない人の記憶にすり替えているようす
今後、9月30日、在日学徒義勇軍参戦記念碑が建てられた仁川秀峰公園で「在日学徒義勇軍同志会6∙25参戦記念式」が行われる予定ですが。3年1ヶ月の間、戦場を縫ってひたすら祖国だけを考えていた彼らの姿で私たちは、対価を望まない純粋な国愛の精神を感じることができます。生計と学業を放棄して、戦争に参戦した在日学徒義勇軍の犠牲は、まさに彼らと私たちの祖国である大韓民国のための仕事でした。祖国を守るために玄海灘を渡った在日学徒義勇軍の崇高な愛国を覚えています。
(翻訳:みそっち)
参戦するために海を渡ったけどその身分はボランティア
しかも停戦後には韓国に強制残留を命じられた
在日学徒義勇軍はその後、銃を持つこともなく戦線の混乱した中で、迷子になったりキタ朝鮮に捕まって処刑されたりした130余人のほか、生き残った200名余りはニホンに再入国することができずに韓国の歴史の中で消えて行きました。※ハウスボーイに銃を持たせる軍隊なんて無いからね。
韓国国内ではこうした記事を定期的に流すことで”海外脱出成功組”を羨む韓国在住の韓国青年らが不平不満を言い出さないようにコントロールしているわけです。
今後、韓国人が”仁川上陸作戦参戦記”をどれだけ捏造しても”アメリカの公式記録”ですべて解決済みなので”韓国国内だけで主張するのなら容認する”ということです。
在日学徒義勇軍「忠魂碑」が除幕…救国・犠牲精神を継承韓国中央会館前北韓軍の奇襲南侵で始まった1950年の6・25韓国戦争時に在日学徒義勇軍として玄界灘を渡り、戦闘で亡くなったり行方不明となった135人を慰霊する「忠魂碑」が東京・港区の韓国中央会館前に建てられた。3日の除幕式には在日学徒義勇軍同志会をはじめ、民団、韓国大使館、国連軍として参戦した16カ国の駐日大使館関係者ら約100人が参列した。在日青年学徒義勇軍韓国動乱参戦記念碑(89年建立)の横に設けられた忠魂碑は台座を含めて高さ2㍍68㌢。上部には韓国を象徴する太極が刻まれている。左右の碑には135人の戦死者の名前を刻んだ。左が仁川上陸作戦時の52人、右側には北韓地域で中国人民志願軍と戦火を交えた83人。民団中央本部の呉公太団長は記念辞のなかで、「皆さんの高貴な精神を継承し、統一韓国の実現と同胞社会の明るい未来を築くために努力する」と誓った。続いて柳興洙駐日大使、民主平和統一諮問会議の玄敬大首席副議長、大韓民国在郷軍人会の朴世煥会長、参戦国を代表してオーストラリア大使がそれぞれ式辞を述べた。民団中央本部、駐日大使館の協力で忠魂碑を建立した在日学徒義勇軍同志会の李奉男(イ・ファルナム)会長は、「在日学徒義勇軍は祖国のために参戦した世界で最初の在外国民部隊だ。この事実は在日同胞の後世に必ず継承されなければならない」と強調した。
なんと仁川上陸作戦で”在日学徒義勇軍”から戦死者が出ていたようです
完全にウソですね。
※ハウスボーイのボランティアが戦闘に参加することは無いから
近日刊行:「まばたきするようにウソをつく韓国人」