minaQのつぶやき 네토미나

嫌韓(いやかん)ってホントはどうなの?

韓国空軍3大作戦を見る。



今年も空軍絶好調、6.25出撃パイロットの招待イベント

嘘つきはまだ生きている、本まで出してる
1952年のスンホリ鉄橋爆撃は勲章のために作られたまぼろしの戦果だったりした



イメージ 1[国防ミーナ]空軍は6・25戦争66周年を翌日に控えた今日(24日)6・25戦争出撃操縦士を招き、イベントを催した。

イメージ 3今回の行事には6・25出撃操縦士会キムドゥマン会長をはじめとする出撃、操縦士らが出席した。

特に、彼らのうちキム会長ユン・ウンリョル予備役少将パク・ジェホ予備役准将など3人は'スンホリ鉄橋遮断作戦'に参加した主人公たちだ。
ユン予備役少将とパク予備役准将は、当時三回目の出撃にそれぞれの編隊長と編隊員として参加し、実際の鉄橋を爆破させた。

6.25戦争当時、平壌の東に位置したスンホリ鉄橋は敵軍が補給物資を輸送する戦略要衝地だった。 韓国軍としては、北朝鮮軍の戦争持続能力を落とすため、必ず遮断しなければならなかったところだ。

▶スンホリ鉄橋の航空写真といわれる一枚
15JAN52と書いてあるけど
※スンホリ鉄橋は平壌の東方10kmに位置し大同江の支流南江にかかる戦略的重要ポイントらしい。(10km付近は両岸が山なんだけどね)

イメージ 5

▲もう一枚の米軍提供のスンホリ鉄橋の写真といわれるもの
画像検索してもハングル記事にしか登場しない、正体不明だ



北朝鮮軍は、当時スンホリ鉄橋を巧みに偽装・隠蔽させており、周辺に二重・三重で対空砲を配置してここを徹底的に防御していた。
国連空軍はこの鉄橋を遮断するために数回の出撃したが、爆破できないまま韓国空軍に任務を引き渡した。



イメージ 4

▲戦争記念館にある絵、後年の創作である。


1952年1月12日、韓国空軍で初めて100回出撃を達成したキム会長をはじめ6機の戦闘機がスンホリ鉄橋の遮断に向けた初の出撃に乗り出した。 同じ日6機の戦闘機が追加で出撃したが、結局成功しなかった。

我が空軍は通常の戦術では鉄橋を爆破できないと判断、敵の対空砲火を冒してでも4000フィート高度から1500フィートまで低空で接近する'低空攻撃'方法を選んだという。 対空砲火が2000フィートまで到達していたことを考慮すれば、これはかなり危険かつ冒険的な方法だった。

1952年1月15日、新たな戦術で再武装した我が空軍は6機の戦闘機・2個編隊で三回目の出撃を敢行した。
敵の対空砲が翼のそばをかすめない危険な状況でも爆弾12発とロケット弾20発、機銃4700発余りを浴びせ、スンホリ鉄橋中央部分に二つの大きな穴を開けて敵の補給路を遮断することに成功した。


イメージ 7



空軍は"このような業績は祖国を守護するために任務を完遂する前には生きて帰れないという決死の闘魂を発揮した操縦士があったから可能だった"と強調した。


6・25戦争当時、空軍操縦士は計129人(F-51D 115人、L-4/5およびT-6 14人)だ。
戦争当時、パイロットは空軍が創設されてから9ヵ月しか経っていない、戦闘機一台も保有していない状況でも敵を阻止するため、L-4/5、T-6等の軽飛行機で作戦に投入された。

※戦争勃発の次の日、米国の戦闘機支援決定で10人の韓国のパイロットたちは、日本に渡ってわずか4日間機種切り替え教育を受けた後、F-51D戦闘機を運転し、玄界灘を渡って復帰した。 KBS版記事には今年もこのような記述がある

200機あまりのヤク(Yak)戦闘機を保有した北朝鮮軍に比べてはるかに不足した航空力であるにもかかわらず、操縦士らは、素手で爆弾を投げながら死闘を繰り広げたという。

Fイメージ 2-51D出撃操縦士115人のうち39人は敵のあふれる対空砲火の間をぬって命をかけた任務遂行を重ねて100回以上出撃を達成した。 その中でも故ユ・チゴン大尉(当時の階級)は計203回出撃を達成、'不死鳥'というニックネームを得ることもあった。

空軍によると、戦争期間中に操縦士らは計1万4163回(F-51D 8457回、L-4/5およびT-6 5706回)出場した。 敵の軍用建物1799ヵ所、補給所1229ヵ所、線路・道路・鉄橋・橋梁1220ヵ所、バンカー845ヵ所などを破壊する戦果を挙げた。
129人の操縦士のうち、25人(戦死者23人、殉職者2人)が戦争期間中、祖国の空を守って壮烈に酸化し、現在は39人のパイロットが生存している。

空軍は生存している出撃、操縦士らが高齢であるため、これらの業績を忘れない、子孫に広く伝えるため、毎年招待行事を実施している。チョンギョンドゥ空軍参謀総長は同日の行事で、歓迎のあいさつを通じて、"ここにいらっしゃる出撃操縦士の大先輩たちがなかったら、今の大韓民国と空軍は存在しなかったこと"とし、"熱い愛国心と透徹した軍人精神を受け継ぎ、確固とした元防衛態勢を確立した中で最強の精鋭空軍育成のために最善を尽くす"と明らかにした。

'スンホリ鉄橋遮断作戦'当時、編隊長を務めたユン・ウンリョル予備役少将は"現在の大韓民国が成し遂げた目覚ましい発展を見ていると、戦争当時の苦難と逆境をすべて忘れられる"、"後輩、操縦士らが、たゆまぬ精進を通じて祖国空を堅固に守護してほしい"と呼びかけた。


(翻訳:みそっち)






この季節になるとわき出てくる”超時空戦果”なんですが。これがあの映画
”赤いマフラー”にでてくる鉄橋爆撃作戦ですよ。韓国空軍3大作戦だそうです。朝鮮戦争末期に韓国人パイロットが出撃したのはおおむね事実です。
しかしながら、F-51ムスタング10機を板付基地から空輸したのはアメリカ人でしたし、それに韓国国籍マークをつけて飛ばしていたのもアメリカ人パイロットでした。

※韓国空軍がムスタングで作戦飛行をしたのは1952年からなので、”板付から飛んできた飛行機ですぐさまキタ朝鮮軍に銃爆撃した”というのは論破された嘘ということになりました。このへんは韓国版Wikiでは議論の末、削除されました。


また開戦当時、汝矣島飛行場にあった複座の連絡機L-4など10機は敵機の機銃掃射などで7機が破壊されてしまったりしたので、”進撃してくるキタ朝鮮軍戦車に迫撃砲弾を手で投下”という与太話も、誰がどこの敵車両を攻撃したのか事実関係が有り得ないということでウソ認定となっています。

これらの疑問はこれまでの粘り強い資料の採取などから、”超時空空軍戦果”が記事になるたびに報道各社に訂正を申し入れてきましたが、未だにわき出てくるこの手のウソは韓国人の間では既成事実化しているんですよね。


イメージ 10さてこのユン・ウンリョル将軍ですが、アメリカから殊勲航空十字勲章をもらっています。そりゃ敵の重要な鉄橋を破壊したっていうんですから勲章のひとつも出るんでしょうね。
ところがこの勲章をもらったのは1962年なんですよ。彼が空軍の司令官になったときに米軍が記念にくれたんですが、なにか功績が必要だということで慌てて作られたのがこの鉄橋爆破だったんじゃないかということです。

ちなみに、橋の航空写真と思われる2枚の写真をGoogle検索してみると、ハングルサイトだけでしか引っかからないのです。Seunghori Railroad Bridgeという英単語もGoogle検索するとやはり同じことに。これはあまり重要な目標ではなかった、つまり韓国以外の全世界では全く知られていないという超時空戦果なんですね。

※実際のスンホリ鉄橋( Seunghori Railroad Bridge)の爆撃がどの部隊によって成功したのかは現在も特定されていない。また国連軍の記録にはスンホリ鉄橋爆撃作戦というのは一つもない。唯一、”Yoon, CAPT Eung Yul (Republic of Korea AF)”の戦果として登場するだけ

イメージ 8

あのほら343空の源田某あたりもアメリカから勲章をいっぱい貰ってますよね。あのひとが、アメリカからもらった勲章を指差して『これはね、グラマンをバッバッバっとね、落とした記念に貰ったんだよ』と言ったら信じますか? あれはF104飛行の記念にもらった勲章でしょ。そいうことですよ。



イメージ 9


韓国人は日めくりカレンダーをめくるように嘘をつくんです。




6.25だから読み返しておきたい超時空空軍





イメージ 6