minaQのつぶやき 네토미나

嫌韓(いやかん)ってホントはどうなの?

不思議な韓国食文化 ㊦

 
 
メニューを一つだけあたえる食堂
好みより序列が先んじた文化
 
わずか100年も続かなかった韓国の食文化 
 
 
イメージ 11イメージ 1[キムチミーナ] 最近、韓国ではキムチの消費量が減っているのだという、ところが若い人のキムチ離れが加速するなかで保守的思考の40代~50代らは若者にキムチを薦めるのだ "今の若いものはキムチを食べない" "高度成長切り札キムチだった" "キムチに愛を、"。 
本場中国産キムチが全国的に流通する中で中国の不衛生な環境と我が国の不衛生さではどちらが上かという議論が出てきている。もちろんジョークだと見るか真実だと見るかは自由だが中国産キムチ異物混入事件以来キムチの消費量は減っているのは事実のようだ。
 
とりあえずビール 〓 わたしも同じの
 
イメージ 2食堂に行って席を占めて座ればまず従業員が水と共にメニューを持ってくる。 我が韓国では多くの場合何人が座っていようがメニューは一つだ。 友人や同僚が共にした場合はメニューを回しながら報告各自注文をする。
 
各自注文をするというが先に人をまねる場合が多くて人が多くても結局は2~3種類メニューで帰着になるのが常だ。 各自メニューを見る必要もなしで前の人に従って"私もそれ"とする場合も多い。あるいはメニュー決定を一行中ひとりに一任する場合も少なくない。"何でも大丈夫。おいしいものさせてみて"とする方法の話だ。
 
 
韓国人は一日3食のうち2.23食を外食で済ませるという


イメージ 3食堂でお客さんが席に座って食べ物を注文しようとする時最もよく聞くことができる言葉が"何でも"だ。 特にひとりが食べ物値を負担する場合"何食べるだろうか"あるいは"何召し上がります"あるいは"何好きです"とする問いに相手方の返事は"何でも食べるだろう" "何でもかまいません"に続いて、 これに対する返事も"私も何でも大丈夫だが" ("私も何でも大丈夫であるところです")という式でずっと"何でも"を連発する。

 
ニホンにはとりあえずというビールだってあるのに

注文受けようと立っている従業員は待っていて"私たちの食堂には何でもというメニューはないことです"と割り込んだりもする。このように"何でも"食べても関係がないからメニューを詳しく見る必要がない。よく行く韓国の一般食堂ではその事実メニューが複雑でない。壁に大きく書いて貼ったところも多い。メニューを覗いて見る必要がなくそのまま壁を見つめて注文をしても関係がない状況だ。


イメージ 4たとえば、特別な日、家族らと共にいわゆる高級食堂を行く時がある。 食べ物値が侮れないだけに食べ物に対する期待も大きいはずだ。 お子様も連れていくだろうか、これに対し似合うように種類の数が多いセットメニューや、特色ある個別メニュー、酒メニュー、飲み物と茶メニュー、そしてデザート メニューも別々にある。 メニューは分厚くて上表紙も非常に高級だ。 ところでこのような食堂でも人数に関係なくメニューはちりんと一つを持ってくる。
(ニホンの高級レストランなどでありがちなホスト側にだけ値段が入っているとかと違う) 

 
不思議な韓国式注文のかたち

セット メニューである場合、大慨は家族の中の年長者あるいは食べ物値を支払う人が先にメニューを目を通して意見をいえば残りの家族はたいていそのまま従うことになる。 この場合の年長者は"キムチ信者"であることが多く、無料のキムチはナムルなどが際限なく出てくるようなサービスが正しいとさえ思っている貧しい社会構造なわけだ、その一方で他の家族はメニューを覗いて見る余地があまりないわけだ。
 
 

洗面器ラーメンは韓国独自で発達した食事文化

イメージ 5セット メニューではない場合は家族の序列のとおり家長でもそれに(彼に)該当する人が先に人がメニューを覗いて見ている間他の家族はぼうぜんと待つことになる。 そうするうちにメニューが越えてくれば他の家族が待つという圧迫感に詳しく覗いて見る余裕がない。 それで後ほどメニューを覗いて見る家族はたいていすでに前で定めたメニューを繰り返すのが常だ。

よく行く町内食堂でもなくて特別な日に大きい決心して行く高いレストランまでメニューをちりんと一つ差し出すのを見ればちょっとおかしな気がする。 お客さんの数のとおり持ってくるには食堂にあるメニューが足りないことなのか分からない。
 
 

おとうさんの言うことを聞けっ  イヤダッ

イメージ 6外国の食堂ではファーストフード店でなければどこへ行っても従業員がお客さんの数のとおりメニューを持ってくる。 お客さんは各自メニューを持ってあたかも勉強でもしているように几帳面に覗いて見る。 メニュー一つ一つをつきながら互いに討論するように意見をやりとりするお客さんもいる。 メニューによく分からない食べ物があれば従業員を呼んで尋ねたりもする。 そのような場合、従業員は材料が何か、どのように出てくるかを調子にのって説明する。 注文する食べ物を選ぶ姿がどんなに真剣なのか何か儀式を行うようにとても厳粛なほどだ。 そうしようとすればメニューを受けて注文するまでなかなか時間がかかるのではない。

彼らは見れば食堂に行くことが単純に食べ物だけ食べるのではなくメニューで食べ物を選んで、期待して、出てきた食べ物を味わいながら楽しみと満足感(あるいは失望感)を感じる一連の過程も含まれているような考えにもなる。

ついにお客さんがメニューで顔を上げれば食べ物選びが終わったという信号だ。 大慨は選択したメニューがすべて違う。 同じメニューもあるでしょうが食べ物に対する好みが同じであるためだと見なければならない。

ところが韓国の食堂ではすぐにこのメニュー選び過程はほとんど省略になる。 なぜそうか。

イメージ 7一般食堂ではお客さんがそちらの食べ物に対してあまりにもよく分かるためで推測することができる。 食堂を定める時概略飲食の種類も決まるはずだ。 カルククス店ならば2~3種類のカルグクスがあり韓国料理店ならばチゲいくつそしてビビンパがあってする形だ。 食堂ごとにその家でさせることができる食べ物が明らかなのだ。 酒はじっと見える冷蔵庫に入っていてメニューは壁に書いて貼っているとメニューを覗いて見て長く考えて選ぶ必要がない。

反面高い食堂や若干高級な食堂では相当数のお客さんがそちらの食べ物をよく分からないので、したがってメニューを見てもよく分からないためだということができる。 洋食堂ならばまず用語が見慣れない。 洋食堂でないにしてもなぜ行く食堂ならば何をさせるべきかよく分からない。
 
 
実はメニューが読めない?、 文盲率はOECD加盟国で第一位の国だもの

イメージ 8それでも対面上従業員に尋ねることも気乗りしない。メニューを覗いて見るよりは前の人がさせることについてさせることが安全だ。あるいは"この家で一番上手にすることで"と注文することがさらに気楽だ。

一方お客さんが注文する方式もやはりメニュー選びとは距離が遠い時が多い。"私もそれ"といいながら他の人が選択したのをまねたり"何でも大丈夫"と隣の人に選択権を任せたりまたは、お客さん中のひとりが"これにするだろう"と代表で選択権を行使する場合だ。


"私もそれ"とする時には何時の間にか"相手方の選択が良く見えて私も同じようなものを食べたい"または"相手方を尊重して私も同じようなもので食べる"あるいは"私だけ変なのをさせない"、すなわち雰囲気に合わせる、とする意味が含まれている。
 
 
並んで同じものを食べる(右へならえという教育のおかげ)

イメージ 9同じように"何でも大丈夫だ"という話は"私の好みを前に出さない。相手方に合わせる"という意を暗示することだと見ることができる。結局は私の好みのとおり選択を明確にしてもしかして相手方や全体から私が飛ぶとみられないように、それで私が相手方やグループ全体と似た人というものである知らせようと思う、あるいは一体感を感じようと思うメッセージが隠れていることだ。

"これにするだろう"と選択権を行使する人はそのグループでは序列が偉い人に成りやすい。したがって他の人は序列にともなう権威を格別異議なしで受け入れることだ。
 
我が国韓国で共通型給食が出された歴史は古い、日帝支配期の"貧食民向け"で街頭での大粥を炊いていた記録がある、間もなくの景気回復で路上給食は無くなったし給食が復活したのは朝鮮戦争後の兵隊食としてのことだ、兵長の号令で箸の上げ下ろしまでするという教育が今まさに花を咲かせたのだ

このように見れば韓国人が食堂に行って食べ物を注文する時にもちろん好みにより明らかな選択する人もいるだろうが、相当数は食べ物より家族や友人同僚の間の序列および関係を意識することがさらに重要だと見ることができる。

韓国食堂では今後もずっとメニューが一つだけ出てくるだろうか。 今のように序列および人間関係を意識しなければならない雰囲気ならばそのような可能性が大きい。 だが、自身の意志を明確に現わす人々が多くなるならば、そしてそれが序列や人間関係とは関係ない雰囲気ならば変わることもあることだ。
 
 

(翻訳:みそっち)
 
 

 
 
生活習慣的に"赤いもの"を食べる文化であるし"赤くないものはダメ" という学校教育もあるようですがその実、キタ朝鮮のような赤い国へは強力な"侵略願望"があるわけですし。非常にわかりやすい国民性を見ることができるかな って思うのです。
 
 
イメージ 10