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嫌韓(いやかん)ってホントはどうなの?

韓国人の単一味覚嗜好 疹ラーメン

 
 
韓国型単一味覚嗜好
 
 
イメージ 2[ソウルミーナ] 朝鮮半島では長く続いた封建的奴隷社会から文明開化への戸惑いへといった、ニホン統治時代の僅かな期間を除いて何度も強圧的食料施策が繰り返されてきた、彼らが何を食べて来ていたのか記録にさえ残っていない。 未開だった朝鮮時代はともかく、開国政策とともに国民に強制されたのがキムチである。
開国後、ニホン統治時代に広まった各種の料理が韓国の食卓を彩ってきたことはまぎれもない事実である。 しかしその後、朝鮮戦争での敗戦と混乱を経て韓国では食料事情は劇的に悪化し1960年代末には主食の輸入比率が80.1%にもなるなどアジアでの最貧国として世界中に認められることとなった。
 
※米国産の小麦が有償援助として大量に輸入されたのが1960年であり、この時期は食糧難の時代でもあった。その後国民統一食としてインスタントラーメンの導入が国費で推進されると韓国人の主食はインスタントラーメンになる。
 
韓国人の単一味覚嗜好はいつごろから始まったのだろう、国民的副食としてのキムチの地位が急浮上してきた時期と食糧事情の悪化した時期はその時期を同一にする、いわば少ない副食で効果的に雑穀主体の主食を摂取するという"韓国型簡易食作法"がそこに誕生したのだ。 
そのため古来より、韓国人はすべてが味覚音痴だとされてきた、しかしここでこの誰しもが認める"味覚音痴事態"に科学のメスが入ったのだ。
実を言えばニホン統治時代にはまだ多様性のあった副食のメニューがキムチだけ、あるいは唐辛子味主体になったのは朝鮮戦争のあとである。
当時の李承晩大統領の国民鎮撫施策として用いたのがキムチなのだ、ではキムチの普及は戦後の荒廃した中で韓国人らに歓迎されたのだろうか、答えは否である。
しかしこのことによりニホン統治時代に育まれた食文化の多様性が無くなり、比較的安価で済ませることのできるキムチの普及は"キムチ漬け休暇"という魅力的国民動員令によってより確かなものになった。 
また国民の味としてもキムチは非常に有用だったと言える、キムチ用白菜の栽培が拡大した1960年代にはニホン統治時代の作付面積をはるかに超える3万ヘクタールにも及び出荷量も60万トンを超えるなど国内消費に過大な効果を与えた。 このようにしてキムチは国民食としての地位を確立するとともに韓国人の単一味覚嗜好は現実のものとなっていった。
 

(この項 つづく) 
 
翻訳 みそっち

 
 
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韓国でのラーメン事情を見てみよう
 
キムチ立国 韓国の叙事詩 第1回ラーメンの単一化   NHKスペシャル
 
 
イメージ 1[ニュースミーナ] 国内ラーメンの歴史は、1963年に開始された。 しかし半世紀の間、年間販売台数で1位を占めたラーメンはわずか3種類だけだ。 最初のラーメン三養ラーメンは後発組を振り切って、1963年から14年間の長きに渡って1等ならではの自尊心を守った。
しかしそこに登場した農心の安城湯麺は、1987年から4年間で最も多く売れたのだったが、1991年の辛ラーメンに1位を奪われた。 その後、辛ラーメンは、なんと22年間にわたって1等のタイトルを保持している。  1等のラーメンは工業化、近代化の過程で変わってきた国民嗜好と密接な関係がある。 ラーメンに対する消費者の認識と世相が反映されたのだ。
 
イメージ 3
        ウンコラーメンが見える   ↑     ばかうけ
 
 
三養ラーメンは、以前にはなかった食べ物を提示したという点で意味が大きい。 ジョン・ジュンユン三養食品名誉会長は、1960年代初めに南大門市場で一杯に5ウォンの残飯雑炊を食べようと長蛇の列線の人々を見てあれば事業を決心した。
飢えを満たすためにインスタントラーメンだけに良い食べ物がなかった。 高カロリーなうえに5分沸騰させるだけの簡単なレシピは、食べていくのに忙しい産業の担い手の1食に十分だった。
カロリーに比べて味は相対的に重要な価値ではなかった。 初めての三養ラーメンはチキンスープが基本であった。 麺を鶏油で揚げた。 日本明星(明星食品)の機械と技術をそのまま持ってきたために選択がなかった。 カロリーを高めるために脂肪分を増やしなら汁にも油が浮かんで驚くほどであった。
 
イメージ 4しかしわが国のラーメンは、1970年代後半の所得水準が向上し、変身することになる。 当時、食品業界とメディアは、国内の市場がすでに飽和状態という分析を出していた。  1965年ロッテラーメンとして出発して、万年2位にとどまった農心は、質的差別化 "という勝負を投げた。
1人当たりの国民所得が1000ドルを超えたことに注目した。 暮らし向きがよくて量より味を追及する消費者が多くなることを期待したのだ。 農心は、1982年の京畿安城市にスープ専門工場を建てて 'ラーメンはスープの味 "という新しいパラダイムを強調した安城湯麺を発表しました。
 
ラーメンのスープを作る工法は、安城湯麺をはじめと大きく変わった。 従来は、熱風乾燥、加熱濃縮した原料を組み合わせてスープを作った。 しかし、安城湯麺はブロス(broth)製造工法を導入した。
※ (などの)煮汁,だし,ブイヨン,(スープ)ストック (だしに野菜などを加えた)薄いクリアスープ.
ブロスは、野菜、肉、魚などを水と一緒に煮て作ったスープにすべての料理の基礎となる。 ラーメンで使うブロスは、生物原料の抽出液などを適切に混ぜてつけて濃縮した原料をいう。 ブロスを使用すると、スープの味が濃くて香ばしくなる。
安城湯麺は、韓国人が好きな味噌と牛肉を基に田舎の市場の香る汁の味を実現した。
発売4年後の1987年の売上高442億円、市場シェア12.9%で三養ラーメンを抜いて1位になった。 国内にラーメンが上陸した後、初めて1位のブランドが変わった歴史的な事件だった
 
急速な都市化の中で、故郷の味 "を攻略したのが安城湯麺の人気の秘訣だったら、1986年に出てきた辛ラーメンは韓国固有の辛さを掘った。 農心は、誰もが好きなピリッとした見事な味と食感を探すため、全国で栽培されるすべての品種の唐辛子で辛い味を実験して200種あまりの麺を開発した。
辛ラーメンは辛い味で、1980年代末の売上高が急激に成長し、1991年安城湯麺をほてるように抜いた。 以来、不動の1位を固めた。
 
昨年まで辛ラーメンの累積販売台数は合計220億、金額で計算すれば8兆ウォンだ。 国内市場では、単一のラーメンで25%を占めている。 大型スーパーなどで売られるなら4つのうち1つは、辛ラーメンということだ。 最近では、スイスのユングフラウからヒマラヤ、南米大陸最南端のチリのプンタアレナスまで進出して食品韓流を導いている。
 2000年代に入って様々な味を求める消費者が増え、白いラーメン、ビビンラーメン(季節麺)、ソースであれば(チャジャン、カレーなど)が選んだ人気を得ている。 健康への関心が高まり、揚げていない乾麺と化学調味料が入っていない "健康であれば 'も成長した。 消費者の好みが徐々に変化する中で最長の1位の神(辛)ラーメンの牙城を超える、新ラーメンが出てくることができるか注目される。
 

(翻訳:みそっち)
 


 
韓国では"多様性"という言葉が忌み嫌われています、これは学校での給食という食料事情平準化によって同じものを食べることが正しいことだとする教育が上手に出来たケースだということです。
 
アジアでも多民族国家として知られるインドネシア政府の高官が"韓国人の単一型思考の形成に役立ったものは何か"と質問したところ、"完全給食とキムチである"という回答を得て非常にこまったという話があります。 
たしかにキムチによって国民の意思を統一し、給食の実施によって集団行動への同一性を構築したことは驚愕に値するいっぽうで、多様性のない韓国という一面も見逃すことが出来ないようです。
※以前にはコチュジャンを流行させようとした動きもあった。
 
じつは韓国人でもキムチを嫌う階層があります、国民統治の戦略としてとらえることのできるキムチ文化ということを理解した上で"統治する側"に立つ一部の知識階級らは決してキムチを口にすることは無いからです。
国民にキムチを強要する一方で”キムジャン休暇”をつくり”キムジャン文化のユネスコ認定”を推めるのはいつでも国家でしょう。実は、金大中盧武鉉の時代にはキムチを国民に強要することはありませんでした。キムチが国民統制に使われるようになったのは前の李明博の時代のこと、韓流ブームというコンテンツとキムチ輸出というわかりやすい国民受けの良いものが推し進められたことに始まります。ところがニホン生まれの李明博大統領はキムチ嫌いだということはよく知られています。韓流フードの金潤玉夫人がビビンバを嫌悪していることもよく知られています。
つまり国民にキムチやビビンバを強制する支配層があってそれを利用してきたということなのです。たとえばキムジャン休暇の作られた時代に”キムチは嫌い”と言い出すことは、韓国型単一理論では”キムチ=休暇”ですから、”休暇の嫌いな変な奴”という分析が行われます、これは韓国で生きていく中で差別感情を生み出すことになります
以前にビビンバという韓国型食文化を紹介したなかでビビンバを嫌悪する年代層があるとしたカキコと内容が重複しますが、朝鮮時代まで家系を遡ることのできる”ある大学教授”のセンセが、”ビビンバの食べ方は嫌いだ”とおっしゃったことがありました。(韓国では朝鮮時代まで家系を遡れるのは極めて少数で、大韓帝国の初代首相でさえ朝鮮戦争の混乱期に子孫は絶えています)ビビンバの食べ方は貧困層直食と同じだ”というのが理由でした。直食というのは少ない食器で大勢が食べる方式で来客(賓客)が最初に食べたあと家長が食べてそのあと家族が食べるという現在も受け継がれている韓国式作法のことですが、これは当然のように当時の支配者層には馴染みのないものですから反対する意見があるのも当然ですね。
しかし現代の新聞社ではビビンバの食べ方こそが”真理”である式の考え方をすすめているために、”外国かぶれの老教授”というレッテルを押して議論は終わりました。
政府が進めてきたキムチ政策にも反対意見が少数存在することは今後の韓国の混乱と強圧的政治のなかで起爆剤となることを願っています。
 

(どこかの政治記事風~~)