minaQのつぶやき 네토미나

嫌韓(いやかん)ってホントはどうなの?

韓国も驚く"自衛隊の戦史研究"

 
 
 
自衛隊、地図描きながら多冨洞戦いを学習、なぜ 
 
 7年目幹部候補生団体訪問...案内人なしで事前地形探査
 "実戦訓練だ"地元の視線に "あまりにも有名な戦いだから"釈明
 
 
イメージ 2
 
日本の陸上自衛隊幹部候補生たちが25日、慶北漆谷郡ガサンミョン多冨洞戦跡記念館の屋上で教官から多冨洞戦闘の説明を聞いている。   (教官もニホン人ね)
 
 
イメージ 1[ミリタリーミーナ]去る25日午前10時、慶尚北道漆谷郡ガサンミョン多富洞戦跡記念館に、 6.25最大の激戦だった "多冨洞の戦い"を記念して造られたここで観光バス10台が相次いで入ってきた。 降りた彼らは観光客ではなく、来年3月に少尉に任官する日本の陸上自衛隊幹部候補生学校学生。 女子学生24人を含む304人を白いワイシャツに黒のスーツを着た。 これらは一糸乱れずにラインを合わせて記念館2階の講堂に移動したまもなく学校長田浦正人少将二つついた制服を着て到着した。
自衛隊教官が "開戦直前、韓国軍の状況" "第1師団の後退との戦い"というタイトルのパワーポイントを添え多冨洞の戦いを紹介した。 最近撮影された多冨洞と洛東江周辺様子が動画で出てきた。 すべて学校側が作成した資料であった。

 
 
戦闘紹介が終わると、候補生たちは屋上に席を移した。 戦闘が行われたユハクサンが一望できる場所だ。 助手二人の戦いの状況を描いた作戦もを打った。  "韓国軍第1師団は敵を背後から包囲して分散させた..." 、教官は作戦支援の地形を比較しながら、当時の状況を伝えた。 続いて屋上から指を告知間の距離を測る実習をした。 戦いのために着々と話を聞いて地形を隅々まで見てきた候補生たちは、展示館を見て無名戦士墓に黙祷した後、一定を終えた 陸上自衛隊幹部候補生たちがすべて多冨洞地域をこのように丁寧に観察して帰るのは2007年に初めて開始され、今年は7回目しても欠かさなかった。 この日現場に同行した日本大使館関係後藤ノブヒ社大佐は、 "あまりにも有名な戦場なので、勉強しに来た"とし "他の目的はない"と述べた。
準備は徹底した。  25日の訪問に先立ち、教官が11日前の去る14日先発隊に多冨洞先に来た。 このうち、将校二人の地図とコンパス·測位装置(GPS)を持って韓国人案内人なしで4時間余りの間ユハクサンを歩き回った。
 
外国の戦闘現場を見に行くときに地元説明を受ける上述の例とは全く違った。 記念館側によると、毎年候補生たちが来る10日頃に先発隊が来て、同じことを繰り返す。 匿名を求めた記念館の関係者は "彼らが作った多冨洞一帯の軍事地図を一度見た"とし、 "将校出身である私でさえ見たことがないほど正確な地図だった"と話した。
 3,4回候補生の前で講演をしたのは多冨洞戦闘退役軍人皇州(83·大邱市ボムムルドン)氏は、 "実戦訓練をするように一帯の地形をよく確認していたよ"と "なんか背筋が寒くなるこの感じながらも、軍人らしく教育と準備をするという考えがした "とした。
 
日本の陸上自衛隊幹部候補生学校は、毎年10月末を前後して、国防協力を得て韓国に来る。 今年は、21日に釜山で船に乗って入ってきて、ソウルの戦争記念館、板門店陸軍士官学校、慶北永川陸軍3士官学校を訪問したフローティングに立ち寄った後、25日に出国した。 前に制服姿できたが、昨年から私服に変わった。
 
 
 ◆多冨洞戦闘=韓国軍と米軍1万人、敵7500人余りの死傷者が発生した6.25戦争最大の激戦地。 白善ヨプ将軍が率いる韓国軍第1師団(指揮命令は国連軍)と米軍1騎兵師団などは8月1日から9月24日までに、北朝鮮2軍団と死闘を繰り広げ、大北方22㎞に位置した橋頭堡を守ったことで大邱を守って反撃する足場を用意した。 
(翻訳:みそっち)
 
 

 
これね アノ国では国軍が劣勢のまま犠牲的損害を与えながら後退した戦いって教えてるものですね。 この敗走を韓国では"ヴェルダンの戦い"になぞらえて記録していますがニホンでは国連軍の敗走と記録しています。
※国軍っていうのは国連軍のことです、韓国軍はこの段階では解体していました。
 
 
"軍関係者も見たことのない詳細な戦闘地図を用意し..." これね ほらぁ韓国軍なんかの大活躍ファンタジーを信じているのは韓国人だけっていう悲しい現実があるじゃないですか。
白癬ヨプ将軍っていうのが大活躍したっていう"物語"も韓国では1960年代になって主張されたものですからね。  ※ニホンの陸軍士官学校卒業だから自衛隊の資料でも良く書いて有るけど
 こうした戦史の研究でははるかにニホンのほうが進んでいるんですよ。ってゆうか韓国は結果さえも捏造してそれで平気なんですね。
戦史の研究はニホンでも、その戦闘の記録を集めることから始まります、ところが当時"韓国軍"なんてものは開戦初日に壊滅しちゃったから記録なんて無いんです、それこそどこにも残ってない、それどころか当時の韓国軍に在籍していたであろう韓国兵の名前や出生地、生年月日の記録も無いんです。 つまり人数もデタラメということなのです、そこに韓国兵がいないから韓国兵の死傷者数が少ないんです。 その死傷者だって身元はほとんど記録になっていませんよ。それで米軍の公式資料をしらべることになるんですね。 ただしこれもWikiとかの資料しか見ないですね
 

もちろん韓国軍は7月はじめには部隊編成を解いて在韓アメリカ軍(国連軍)の指揮下に入ったわけなんですが、戦闘の記録をとる兵隊も我先に逃げちゃったから記録なんて何も残ってなくて"米軍の資料に出てこない空白の未戦闘地域でナゾの戦果を挙げた"っていうような記録(記憶?)をもとに戦史の創作しているんです。
 
韓国の国軍資料史を編纂するときだって "ニホンから資料の提供を受け、史実にあわせた解釈をしている"っていうくらいデタラメなんです。この史実っていうのはそうあってほしい歴史のことですから現実とはまるっきり違っても平気なのです。
 
棋上演習っていうのはどこの国でもするんですよ、ところが韓国軍は兵隊の数をごまかしてましたからどうしても味方が多くなっちゃうんです、そういう条件ではじめると負けるわけが無いでしょうからどうしても勝ったっていう結果しかでてこないんですね、 実際に2000人しか居なかった部隊が資料では1万人居たことになっていれば負けるほうがおかしいじゃないですか。それで結局負けて後退したことも”戦略的後退”なんてことになるんです  馬鹿でしょ


そうすると韓国軍の正史に"後退したけど戦略的には勝った戦いだった"ってことにするしかないようです。そのためには英雄も必要ですし あとはおわかりですね。
 
 
 
多富洞の戦い 英語版のWikiを読んでみてください  韓国軍は出てくるかな?
 
 
 
 
 ちなみに韓国軍で朝鮮戦争に参戦して恩給を受けているひとはほとんどいないょ