minaQのつぶやき 네토미나

嫌韓(いやかん)ってホントはどうなの?

そういえば七支刀のあれが去年もあったんです

 
 
すっかり忘れていたのです、毎年恒例のアノ行事を
半年遅れだけど一挙公開します
 
 
 
第4回七支刀製作刀匠追慕祭'開かれて
 
瑞山市(ソサンシ)、地谷面(チゴクミョン都城3里の村会館では7月19日(金)の村住民皆の和合と非常に楽しいということが共にする‘第4回七支刀製作刀匠追慕祭および瑞山(ソサン)市民安寧祈願祭’が開催された。
 
 
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七支刀製作刀匠チョルジ記念事業会(会長パク・ビョンソク)主催で開かれたこの日追慕祭は蒸し暑い天気の中にも銀色舞踊団の踊りとフジョン風物団の公演が一緒に開かれて村住民皆の付き合い行事に開かれた。
 
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追慕祭初献官にはチャン・ドンギュ地谷面(チゴクミョン)長がアホングァンにはユ・ビョンリョル紙曲老人会長が宗憲観にはキム・ジョンギル紙曲農協長が引き受けたしこの席には幼虫式紙曲文学会長、イ・ウォンジェ瑞山(ソサン)水産協同組合組合長、メン・ジョンホ道議員など地谷面(チゴクミョン)の各級団体長とト性理住民など100人余りが追慕祭に一緒にした。

 
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チャン・ドンギュ地谷面(チゴクミョン)長は“記録によく出ていなかった地域の歴史的価値を情熱を持たれた方々が研究して努力して難しく発展させただけ皆が共に努力して持続的に発展可能な住民和合祭りで作らなければならない。”話した。
 
 
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▲イ・ウンウ郷土史学者

 
イ・ウンウ郷土史学者は“七支刀製作は[国の西の方に河を渡って7日間もかかって行く遠方の曲私(谷那)という澄んだ水が出てくる鉄山で作ったこと]だと書かれている日本書紀の記録の見る時、この当時百済のソウルは漢城(ハンソン)にあったので西側にを渡って7日間行く」ゴクナ」という土地は、忠清南道瑞山ジゴクを言うことに読み取ればこのように塗り地図を作成する必要がありチョルジはドソンリ村鉄と呼ばれるよチョルジを達するだろう」と説明した。
 
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▲ユチュンシクジゴク文学会長
ユチュンシクジゴク文学会長 は“こちらにはとても長い間の昔から鉄を扱う立派な技術者が多かったと伝えられていてイ・ミニョンあの1926年間瑞山郡(ソサングン)紙によれば鉄を扱う技術者である断然工業が地谷面(チゴクミョン)にだけ4人がいたこと等からみてこのような伝統と関連があるだろう”とだけ話した。
 
 
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一方、地域住民の長い間の念願事業だった‘七支刀製作刀匠記念碑’製作は、去る2010年に横1.6m縦0.4m高さ2m規模で立てられたし記念碑には漆紙道義の姿を形象化して漆紙度が日本に伝えられた由来と瑞山市(ソサンシ)、地谷面(チゴクミョン)で漆紙度が作られた背景などが刻んでいる。
 
地谷面(チゴクミョン)ト性理は昔から良質の鉄が生産される所といって指名が‘チョルドン(鉄洞、セペンが)’と呼ばれたし鉄を扱う立派なオイ鉄技術者が多かったと伝えられている。
 
 
 
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▲ 七支刀

この七支刀は74.9cmの刃渡で三国時代百済の‘曲私’(谷那、今の地谷面(チゴクミョン)地方で作られて日本に伝えられて現在は天理市に国宝で保存されている。   ← 断定してるっ
 
 
(翻訳:みそっち)
 
 


 
 
七支刀(ななつさやのたち、しちしとう)は、大王家に仕えた古代の豪族物部氏の武器庫であったとされる奈良県天理市石上神宮に六叉の鉾(ろくさのほこ)として伝えられてきた鉄。全長74.8cm。製造地は中国とされている。
 
七支刀は、中国で製造され神功皇后の時代に日本に渡った祭具であり、奈良県天理市石上神宮(いそのかみじんぐう)に保存されていた。千年以上もその存在が忘れられていたが、明治時代初期、当時の石上神宮宮司であった菅政友が刀身に金象嵌銘文が施されていることを発見した[1]
以来その銘文の解釈・判読を巡って研究が続いている。
七支刀(しちしとう)の名は、鉾に似た主身の左右から三本ずつの枝刃を出して計て七本の刃を持つ形に由来すると考えられる。主身に金象嵌の文字が表裏計61字記されている[2]。鉄剣であるために錆による腐食がひどく、読み取れない字もある。
日本書紀』には七枝刀との記述があり、4世紀頃、に対し百済朝貢した際に献上されたものとされ、関連を指摘されている。刀身の両側から枝が3本ずつ互い違いに出ているため、実用的な武器としてではなく祭祀的な象徴として用いられたと考えられる。当時の中国との関係を記す現存の文字史料の一つであり、好太王碑とともに4世紀の倭に関する貴重な資料である。
1953年(昭和28年)、国宝指定された。所蔵は石上神宮石神神社)。基本的に非公開であるが、稀に公開されることがある。近年では2013年4月にも公開されたことがある
 
 
表〕
泰■四年■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■辟百兵宜供供(異体字、尸二大)王■■■■作
また
泰■四年■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■辟百兵宜供供王■■■■作
〔裏〕
先世(異体字、ロ人)来未有此刀百済■世■奇生聖(異体字、音又は晋の上に点)故為(異体字、尸二大)王旨造■■■世
また
先世来未有此刀百濟■世■奇生聖故為王旨造■■■世
 
 
銘文の冒頭には「泰■四年」の文字が確認できる。年紀の解釈に関して「泰和四年」として369年とする説(福山敏男浜田耕策ら)があり、この場合、東晋太和4年(369年)とされる[3]。「泰」は「太」と音通するため[3]
また、「泰始四年」として判読する説(管政友、宮崎市定)がある。この場合は、中国の年号として、西晋の「泰始4(268)年」または南宋の「泰始4(468)年」とされる[3]
 
 
これらのことから百済の国で作ったと主張している韓国人の説では”百済が中国の暦を使っていた”という事実を認めることになるため、当時から中国(宋の時代)の属国であったことの証明ともなるため韓国中央では七支刀韓国起源説に疑問する説も出てきている。