またプデチゲのハナシをします
進駐軍の残飯を再利用した食文化が今に残る国
プデチゲの「プデ」は軍の部隊という意味。名前だけ見れば、部隊で兵士たちが食べるチゲ(鍋料理)だと思いがちだが、実は、このチゲは部隊ではなく一般庶民の空腹を満たしてくれた料理だった。韓国人がプデチゲを食べ始めたのは、北朝鮮と戦った朝鮮戦争(韓国戦争)が休戦した直後の1960年代。在韓米軍部隊のハムや肉がプデチゲの材料になるまでの流れをひもとく「プデチゲ物語」をどうぞ。
[韓流ミーナ]朝鮮戦争が休戦した直後、ソウルと接する京畿道の各部隊には、米軍が駐屯し始めた。その部隊から出る残飯を目当てに最初に集まったのが当時アジアでも最貧国として名高かった韓国の国民である。朝鮮戦争は李承晩大統領の意図した”北進統一”が根底から崩れ休戦へと動いてゆく歴史の中で翻弄された出来たての国には食料が無かった。
大勢の軍人が駐留すればその食事を満たすのも大仕事だ、そのために部隊が駐留する町には国連軍が大量の食料を運び込んだ、当然ロスも計算に入れてのことだが、一般的成人の必要窃取カロリーの3倍にも当たる大量の食料が運び込まれたという。 その一方で当時の韓国には食料となる穀物では種すらなくすべての食料を国連の援助物資に頼っていた、そのため急激に増えた都市難民を相手にする簡易食堂が駐留軍部隊のある地域をを中心に、プデチゲを売る店が次々と登場したが、その代表的な場所が京畿道内の議政府と松炭だった。
※議政府市はキタ朝鮮に近い要衝として今も米軍が駐留しているところ、松炭はソウルの南方60kmほどに位置する物流の拠点、今ではどちらもプデチゲの元祖を名乗って小競り合いを続けている。
議政府市でのプデチゲの歴史は確認されるだけでも1951年には存在していたことが確認されている、当時駐留していた米陸軍第3師団の部隊規模はおよそ4000人といわれ、その食料を賄うための特別列車が計画されたことさえあるという。そうなれば次に出てくるのが大量の残飯問題だ。当時その処分に困っていた糧秣廠の担当者に”豚のえさにするから”という理屈をつけて運び出したものがそのままプデチゲになった。大型の食缶に空けられた大量の残飯はそのまま駐留軍基地の周辺にすむ韓国人らの手によって2次加工され韓国民に供されることになった。
実はそれ以前にも休戦交渉が始まる前から国連軍の残飯を目当てに集まってくる韓国人は多かったという。英軍の駐留していた地域では残飯の質がよくないとして米軍の駐留地に集まる韓国人が増えたのもこの頃だ。
※休戦とともに多くの国連軍は帰国していったが特に米軍の残留を望む声が高かった理由は豊かな残飯供給があったからだとも言われている。
やがて混乱も落ち着きを見せると今度は最初からいろいろなものを一度に煮込んだプデチゲが誕生する。とくにインスタントラーメンの登場(1963年)でプデチゲは一躍韓国の代表的料理となり国民にその名が浸透してゆくことになった。
議政府プデチゲ通りは、1960年代に誕生したプデチゲ屋が一つ二つと増え、25軒ほどの店が所狭しと立ち並び、現在の通りになったもの。当時は「プデチゲ」という言葉が使えず、「名物チゲ」と呼んでいたそうだ。その後、プデチゲが全国に広がり、「議政府がプデチゲの元祖であることを知ってもらわなければ」という声が上がったことから、98年11月1日に「議政府名物チゲ通り」と正式な名称を付け、現在まで保存されている。
2006年からは毎年秋に「議政府プデチゲ祭り」を開催、農楽踊りをはじめ、プデチゲ料理コンテストや無料試食会など、市民と観光客を一つにするイベントが行われている。楊州市の「チャングム・テーマパーク」も近く、日本や台湾などから来た観光客は近寄らないが、韓国人にとっては郷愁の味でもあるプデチゲは今も忘れられないものとなっている。また一部の変食家らは議政府プデチゲ通りに寄り、韓国の食文化を体験するチャンスがあるという。
おでん食堂 오뎅식당
議政府で一番早く「部隊料理」を作って売ったのが、この「おでん食堂」だ。広さ1.5坪の店にテーブルを5台置いて始めたおでん食堂の当初のメニューは、さつま揚げとうどんだったが、1962年に現在のプデチゲの元になる「プデいため」を出した。そして、1988年から「プデいため」にスープとキムチを入れ、ご飯と一緒に食事として食べられるプデチゲとしてメニューにした。おでん食堂の歴史は、ホ・ギスクさんから3代続いている。スープが濃い割に辛すぎも、しょっぱすぎもしない絶妙な味の理由は、おでん食堂秘伝のスープにある。店は元祖プデチゲを一口食べようと、はるばる遠くからやって来る客で足の踏み場もないほどなので、週末や食事時の混雑はご理解いただきたい
松炭プデチゲ 송탄부대찌개
松炭プデチゲの由来は、米大統領が訪韓し、帰国する時に利用した烏山飛行場にある。ジョンソン大統領が松炭(現・京畿道平沢市)の在韓米軍烏山基地を訪れた際、大統領をもてなそうとした食堂のおかみさんがハムとコチュジャン(唐辛子みそ)を入れ、チゲを作った。その味にジョンソン大統領が感激したことから、この料理はジョンソン・スープと呼ばれるようになったという都市伝説があるが一国の大統領が不衛生な食堂に立ち寄ることなどありえない。 これはオサン(烏山)飛行場の名前が米軍統一名称でジョンソン基地でありその基地周辺に当時存在した残飯食堂がその名を騙っているに違いないことだ
※松炭プデチゲは残飯ばかりでなく期限切れなどの加工前の処分されるスパム缶などを不法に入手し鍋で煮たものを言う事が多い
今でも「プデチゲ」ではなく「ジョンソン・スープ」とメニューに書いている店もある。「ソウル市内から地下鉄1号線の天安行き急行列車に乗り、40分かかる平沢(旧・松炭)は遠すぎる」という方には、その味をありのままに再現しているソウル・明洞の「松炭プデチゲ」をおすすめしよう。プデチゲの真ん中で溶けているチーズが特徴の松炭プデチゲは、牛骨スープでピリ辛味。「特殊部隊(プデ)チゲ」を注文すると、白玉もちとペパロニ・ハムをプラスしてくれる。ご飯はおかわり自由なので、おなかいっぱい食べられる。辛いのが苦手な方は、唐辛子抜きでの注文もOK。
アマセン 아마센
「元祖プデチゲはもう食べた」という方は、新しい味のプデチゲをどうぞ。「韓国人が大好きなプデチゲをどうアレンジすれば新しい味になるだろうか」と考えていた「アマセン」のチョン・ミソン代表は、豚骨スープに手打ちうどんを入れ、「日本風」にしてみた。まず、「プデチゲはピリ辛」という認識を覆そうというものだ。ここを「特別な店」にしているのは、うどんだ。店の手打ちうどんをゆで、ラーメンのように油で一度揚げたものが、プデチゲで欠かせないインスタントラーメンの「めん」代わりになる。うどんの油がプデチゲにコクを与えてくれるだけでなく、揚げるからうどんのモチモチとした食感が長続きし、のどごしがいい。店はあまり広くないので、昼時・夕食時はできるだけ避けた方がいい。
※観光客むけにアレンジをしているが欠かせないのはコチュジャンを水で溶いたスープにスパム缶とキムチを入れインスタント麺を割って入れるのがポイントとなっている。
これらのプデチゲも現在では米軍支給の残飯を材料にすることは少なくなったがその当時の習慣をそのままにして忠実に残飯を主原料としているプデチゲ専門店も多い。食品の再利用は3回までという法律が出来たが、ほとんど守られていないこともあって 残り物を上手に活用してきた韓国人には今でもご馳走のひとつだという
※韓国人は出世するとプデチゲを嫌悪するようになるという、他人には食べさせるが、自分だけは別のものを食べるという韓国型心理によるものだ。
(翻訳:2ちゃん番長)
食品を再利用するのは韓国の文化ですがこれを取り締まる法律は抜け道だらけなんだそうです。たとえば見るからに歯形のついた残り物が出てきた場合でもお客さんが食べる前に気がつけば ”食べていないのだから違法ではない”という判例があります。
また食べてしまった後に歯型がついていたと指摘した場合には”証拠が胃袋の中だと立件できない”というのがアノ国のルールだそうです。 これはプデチゲに限らずアノ国の国民が関わるすべての事象がそー言うルールで成り立っていることを念頭に入れて行動を取る必要があるということでもあります。
大型クルーズ船が釜山や済州島に立ち寄っても給水しないのにはそういう理由があります。
コチュジャンを水で溶いたスープ
舌を刺すような甘みとのどに引っかかる辛さをブレンドした万能調味ミソ
ここ↓くりっくすると、ほらあなたのうしろにも