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嫌韓(いやかん)ってホントはどうなの?

韓国軍、下士官の階級を1個増やすって

 
 
副士官、5階級に増やしてみます
軍の最初はニホンとそっくりの階級だったとおもうでしょ
 
 
イメージ 1[国防ミーナ]副士官の中で最も高い階級の元士の上に'賢士'(賢士)という階級が新たに生じる。
国防部は11日、
"昨年10月から新設階級名称を公募して'賢士'という職位を作ることにした。ヒョンサ(賢士)新設は副士官服務活性化と人材構造改善のためのもので先月、白承周(ペク・スンジュ)次官が主宰する政策会議で最終決定された"と明らかにした。
これまで副士官階級は下士-中士-上士-元士などの4段階だったが下士-中士-上士-,元士-賢士という5段階に増える。
賢士は現在の主任元士や師団・旅団以上の担当官などの職位に主に配備される。賢士階級は現在、ソンインチュン議員が立法を推進中の'副士官に関する軍人事法改正案'が国会を通過する場合、2016年頃から本格施行される予定だ。賢士階級の新設で副士官の人件費は年300億ウォン程増加するだろうと予想される。
副士官は、国軍創設当時、下士、二等中士、一等中士、二等上士, 一等上士などで5段階だったが、1953年に4段階、1957年3段階へと減少した(一等、二等をなくした)、1989年,元士階級を新設して4段階を維持してきた。副士官の階級は、米国、中国、ドイツは7段階、日本は5段階になっている。
 
 
 
 
(翻訳:みそっち)
 


 
副士官って言わなくて下士官っていうとなんとなく馴染みがありますよね、あのヘンリー少尉の相棒がサンダース軍曹でした。
 
コンバットだと思うでしょ 今日はとっておきの動画をリンクしておきました、クリックするとYoutubeに飛びます だぶん
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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 名前の書けなかった新兵さんもその後なぜか海軍でめし炊きをしていたりします
 
 
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部下もいるようですね、しかも登場場面が日付変更線だそうですから、開戦の日にはお赤飯を炊いたんでしょうか。
 
 
 
 
 
Republic of KOREAN  “A-FRAME”SERVICE.
 
さて実際には当時の韓国の国軍は戦時中は輜重兵部隊と後方での共産ゲリラ狩りぐらいしか活躍していませんが、何しろ創軍してから2年目には朝鮮戦争が始まったので軍人さんの経験者といえばニホン軍か満州軍の経験者しかいなかったのですね。 
それでもどうにか兵隊を集めてみたものの武器もなかったのでニホン軍が置いていった九九式小銃改とかを抱えて訓練をはじめたわけです。
南朝鮮国防警備隊はニホン式の装備だったが国軍はアメリカ製の武器を供与されて使っていたというヨタ話もある、すべて戦後のことになる。
 
その創軍当時の階級は兵隊士官だけでした(二つしかない)、なにしろ建国以来はじめて徴兵した兵隊(当時の兵役は2年)には戦友となる先輩兵もいませんし中核となる下士官もいなかったわけです。それでも創軍当時の全員が二等兵から徐々に進級していきますよね、そうして開戦(1950年)の時にはようやく新兵の二等兵と2年兵になった一等兵と少数の下士官が出来上がったそうです。もちろん初めから士官になったのはニホン軍などでの軍人の経験者だったことは言うまでもありません。※自己推薦制だった
 
ところが、その戦争もキタ朝鮮が優位のまま開戦初日に前線で韓国軍が崩壊すると国連軍の反攻が始まるまでどこかに消えてしまいます。たとえば地図上では要衝でも何でもない山の上に”韓国軍”師団本部があったり、戦闘のなかった山中で”キタ朝鮮軍機甲師団と撃ち合いをしたりといった小説が騙られるようになったのも1960年代になってからでした。(釜山沖でキタ朝鮮の船を撃沈したという主張は1970年代になってから)
開戦早々にアメリカ軍に作戦権を投げ渡したあとの韓国軍の活躍の記録は何故かありません。ニホンでもお馴染みのペク将軍ですが彼は当時何歳だったでしょう、それを聞いちゃうと大笑いですけどね、ちょっと英語が話せたので国連軍の命令を韓国軍に伝える役目として重宝された彼も実は指揮官の経験も無かった満州軍中尉さんでしたからね。 
当時アメリカでは太平洋戦争が終わったあとの厭戦的な雰囲気の中で朝鮮半島を戦場に戦うことに対していろいな意見があったようです。特に国連軍のアメリカ軍として戦場に行くには大義名分が無かったのも問題でした。そのため当時存在した韓国軍というものが最前線の危険なところで戦い、その援軍をするということにして、アメリカの若者を戦場に送り出すことにしたのです、そうしないと侵略戦争になっちゃうからね。
※当時は戦後であり多くのアメリカ軍の兵隊が復員したため新兵と僅かな実戦経験のある下士官がニホンに常駐していただけでした。
 
たとえば戦闘機に太極旗マークをつけて宣伝したのもアメリカでした、でも飛行機に乗っていたのは全員アメリカ人でしたからね(韓国人飛行士が参戦したのは戦争末期の一時期だけ)
 
 
 
イメージ 5なにしろ敵と戦うべきなのは韓国軍だったのにあてにならないし、アメリカでは戦争反対の世論のためにアメリカ人の兵隊の危険な活躍は無かったことにさえなっていたのです。
 
たとえばその大活躍のペク将軍ですが確かに国連軍から勲章を貰っています、でもその勲章って何の功績のものか知ってますか?
これは調べてみると面白いですよ。 そのほかの大活躍したことになっている韓国軍の英雄が勲章が渡されたのは戦後も大分経ってからでしたが、アメリカ軍との連絡を良くしたペク将軍は李大統領から勲章を貰っています、その勲章も何の対価だったのか調べてみる必要がありますね。
 
もひとつ、朝鮮戦争で活躍したとされる軍人で僅かでも恩給を貰っているひとがいるでしょうか?、それ以前に後退しながら消え去った韓国軍はどこからお給料を貰っていたのでしょうか。国全体が釜山まで後退していく時にどこの誰が給料の計算をしていたのでしょう。正解は存在してなかったからですよ
 
 
 
英文だけど、戦いに参加した韓国の国軍兵士の活躍をさがしてみよう
 
 
 
 
 
 
 
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おなじみの”妄想戦果”の新聞のようす、書いてあることはすべてでたらめですよ
 
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なにしろ開戦翌日の新聞だが韓国政府はこの時点でソウル放棄を決定していた。この新聞はNEVERの縮刷版で見ることが出来ます。
 
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このT-6練習機はカナダから買い入れたもの 機数は10機
 
 
小銃はM-1カービン
 
 
 
これが謎のクロムウェル戦車、イギリス軍の戦車にイギリス人じゃない人が乗っている貴重な写真 (車両番号はイギリス軍のまま)
 
 
 
 
 
あっちは総督府、光化門はこのとき移転してそこにはありませんでした。
※移転先で焼失...朴大統領が1972年にコンクリート製で再建
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これが集められた韓国軍の精鋭の写真、翌年には解散することになる
 
 
 
キタ朝鮮占領下で組織された義勇軍の写真と伝えられているもの鉄砲は九九式
 
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竹の棒を持ち行進している実際の韓国軍のようす。
 
 
215号車はその後数奇な運命をたどりますよ(別稿)
 
 
 
 
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 韓国人の仕事とは荷物運びをすること、およそ30万人が強制徴用されました
 

 
 
 
 これはソウルの写真、季節は冬、第2回ソウル脱出のときのものです
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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Aフレームアーミーっていうと荷駄部隊のことですよ
 
休戦交渉の始まったころの写真
 
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こうした宣伝写真はほとんどが休戦後の撮影です
 
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これはあっちの兵隊かな
 
 
 飯炊きはするけど鉄砲を持った写真は存在しません
 
 
 
 
 
 
 
国連軍のようす