minaQのつぶやき 네토미나

嫌韓(いやかん)ってホントはどうなの?

珍島体育館にもどってくるひと

 
 
 
 
先月24日のようす
 
被害者じゃない自称関係者が多くいた珍島体育館
 
取材チームも苦労する”韓国型密着取材” でもそれって変じゃない?
 
 
イメージ 2[今日のミーナ]大韓民国を「慟哭の海」に変えたセヲル号の事故。全国民の目と耳が珍島沖救助作業に集中している中で、行方不明者の家族は、のんびりとした調査にやきもきを燃やしながら過酷な取材競争に二重の傷を負っている。
 
記者たちは犠牲者の家族たちを少しでも助けながら現場の様子を伝えるために取材ではなく、ボランティアを選んだ。去る23日から2泊3日間、5人の記者が進歩ジムや牙モクハンでボランティア活動をしながら家族のすさまじい待つことと調査現場の苦情などをありのままに記録した。
 
去る24日午前1時、全羅南道珍島郡ジンドウプの珍島室内体育館。配布資料をつけるために粘着テープをはがす鋭い音が聞こえると体育館1番出入口付近大型掲示板これから家族がどっと押し寄せた。
 
掲示板についたA4サイズの印刷用紙には、【000の犠牲者、女性、学生推定、身長160㎝、髪の長さ頭頂部から23㎝、特異点上の八重歯...】などの印象着衣が書かれていた。
 
イメージ 1「うちの子は八重歯ではないのに....キムさんちの子じゃないか」
「ところでルコックパンツはまた正しい。キーにもぴったり適合している。」
「いや、うちの子八重歯ではない。」
 
50代に見える夫婦が引き揚げられた着衣を前後に計算しても娘ではないという結論を下し席にもどった。
 
今年四十歳の娘が行方不明になって義理の息子と一緒に来た白髪のおばあちゃんは、紙に書かれた内容が正しく見えないとしてボランティアに読んでくれとお願いした。
"我々んちの子はストレートよ...ところで、パーマもしたりしたが...私の娘はちょうど私達の娘で、イヤリングしてこんなの私は知らない。キーも小さくてすごくやせてて..」
 
不安定な声のオババは娘の生前の姿を綿密に覚えていなかった。おばあちゃんは、「女子学生と推定される遺体」という説明にもかかわらず、 "私たちの娘が当たるようだ"と義理の息子を探しに体育館の外にジャンプしていった。
   
イメージ 3
 
掲示板に貼り出されるのは”遺体”の特徴を記したA4サイズの紙一枚だけ、
安置所には毎日行かないと、他の誰かに遺体を取り違えられちゃうことも。
 

すすり泣きとため息がたまにつながる室内体育館
 
午前2時頃、ボランティアが体育館の入り口分離ポート収集の前にゴミを分類して盛り込んでいる間に家族がいる1階の隅っこですすり泣く声が聞こえた。家族のすすり泣きと嘆きは頻繁に体育館のあちこちで急に登場した、消えたりした。
珍島体育館の外には小さな池がある。行方不明者の家族は、政府関係者やマスコミ、ボランティアなどが入り混じった体育館の煩雑さを脱し、ここで少しずつ時間を過ごす。23日午後4時ごろ、50代に見える女性が膝を胸に密接に抱えた姿勢で、とめどなく池を眺めていた。救援物資として配られた灰色のジャージ上下を着た彼女の顔は、多く泣いてなのかすごく腫れていた。ボランティアが飲料を勧めると遠慮しながら "「今夜安山行く」と短く話した。子供を発見した意味のように見えた。しかし、翌日昼も彼女は体育館にいた。「安山に行くんじゃなかったの」と尋ねると、”個人情報が似ていて紛らわしいようだ” 今すぐにでも涙を爆発させるような顔で言った。
「いや、他の子はすべて出てきたよ。ところがうちの子供はまだ出てきていない。他の子供たちはみなきたが... "
 
多分友人はほとんど発見がされたという話だった。死体でも探して離れる家族が増え続けている体育館で、とめどなく待つ心がどれだけ孤独で壮絶するか、震える声が聞く人の心を穿って掘った。
 
24日午前六時。体育館の入口大型掲示板にA4用紙がいくつかのより多くの私は付いたし、死者は159人、行方不明者は143人で、記録された。救助数は相変わらず174人に止まっていた。掲示板の周りには、いくつかの家族が携帯電話を握って無言でそわそわしていた。
   
私いい投入ダイバー置くだけ、「私の子あそこに... 」
子供が生きて帰ってくる願う切実な願いが絶望と約束のない待つことに変わり体育館の雰囲気は、時々刻々尋常でないように変わっていった。同日昼ヨルヅシ。行方不明者の家族の代表であるような50代の男性が壇上に上がった。
「今日のダイバーが二人しか入らなかったという話を聞いて、伝えなければと思った "と言う。
 
公務員と主婦、就職準備生までが率先して奉仕
体育館には現在、行方不明者の家族よりも記者とボランティアが多かった。絶望に陥って疲れて敏感になった家族のためにボランティアは慎重に動いた。「円仏教棒公会サポート隊」と書かれたピンクのチョッキを着た彼らは自分で作ったお粥とチルチャを静かに家族に勧めた。これらは '洗濯いたします」と書かれたプラカードを黙って持っていて洗濯物を回収した。
     
全国各地で犠牲者の家族を助けるために駆けつけたボランティアは、食事、掃除、洗濯、医療サービス、物資の整理および配分など、さまざまな支援活動に身を惜しまなかった。ごみの収集作業などを一緒にしたボランティアの方々の中には、智異山登山を計画して休暇を出したがセヲル号の惨事に接して行き先を変えた公​​務員と主婦、大学生、就職準備生、在日同胞などがあった。「残念な気持ち」、「上にしたい気持ち」ひとつで走ってきた人々が多くの現場では人手が余っている雰囲気だった。
各界から送られてきた救援物資もカップラーメン·お弁当などの食品類や頭痛薬·消化などの救急薬、スポーツウェアとジャンパー、布団、毛布などで、多様で豊かな方だった。物品管理はどんぶり勘定式で多少お粗末だったが、続けて到着する救援物資を介して多くの人々の心配と上には行方不明者の家族に渡されていた。
 
配慮のない取材競争の家族神経質反応
ボランティアチームが体育館に最初に到着した23日午前3時頃には行方不明者の家族が1階に約160人、2階に30人くらいいた。家族は真夜中にも深い睡眠をとらないまま擦れる場合が多く、互いにきつく抱きしめ横になっているか、覚醒させた人々が眠る人の布団を掛けてくれたりした。
体育館単相上に設置された二つの大画面の左側には、24時間報道チャンネルのYTNを放送し、右側には、ペンモク港での救助の場面をリアルタイムで送出した。ニュースが出ない時は000の犠牲者」というタイトルで、性別、キー、体特異事項等が書かれた死亡者の個人情報が画面上に通知された。
早朝にも眠らずに起きて音を除去したスクリーンをとめどなく見守る家族が多かった。
 
仕切りもない体育館の床の一挙手一投足が露出したままイライラした時間を過ごしている家族は、取材競争を繰り広げる記者たちに神経質な反応を見せた。体育館2階などで待機して若干でも騒乱が広がればあっという間に集まってカメラ シャッターをさく烈させる記者たち、悲嘆に暮れた家族に配慮なしで質問する記者たちに怨む声が沸き起こって出た。
 
24日昼には、不足している学生の父であるような50代の男性が演壇に登って大声で言った。
   
「ここ000記者さんですか?000記者さんがいれば、ここ前に出てください。いや、親が許してもないのに名前を勝手に持ってきてもいいですか? 」
体育館がたちまちざわめきであり、「いない!ないさ!」と叫ぶ人もいた。
 
取材チームが体育館を離れてきた25日午後には、二日前に比べて、体育館にいる家族の数が3分の1程度減少していた。死体を確認した家族が心の余裕ず去っのに布団や毛布などをまとめていない横で、まだ待つ必要があり、家族はスクリーンと掲示板をとめどなく眺めていた。そして、放送はすぐに事故海域の潮流が速くなり、捜索作業がより困難になるというニュースを伝えていた。
 
 
(翻訳:みそっち)
 
 


 
それから一ヶ月後のようす
 
 
 
私の子見つかったのですが死亡届はしなかった…
珍島離れない家族たち
行方不明者家族を守る犠牲者家族たち…解決されない'懐かしさ'
 
 
 
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▲セヲル号の惨事39日目を迎えた24日午前、全羅南道珍島郡の珍島室内体育館。体育館には行方不明者家族らだけでなく、犠牲者家族たちが一緒に滞在し、空席を満たしている。
 
 
イメージ 5[今日のミーナ]"この人たちよく知っているから。来ているだけで、そのまま横になって寝て席を埋めてくれても慰めができるということを知ってるから。疎外されたという感じでも入らないようにしようと、少しでも痛くないとそんなものさ…"
セヲル号事故で娘を亡くした父Aさんは娘を探し当てた後も、珍島の室内体育館にとどまっている。残った行方不明者は16人。ますます減ってゆく体育館を満たしてあげることこそ彼らに力を与えた最善の方法だということが分かるからだ。
 
◇"私の子供たちは探したが…痛み分かるから"
事故40日目、体育館には行方不明者10余りの家族だけが残っている状況。これらのそばを守る犠牲者家族たちは5~10人にのぼることが分かった。週末などを利用して非定期的に訪れている彼らはもっと多い。
 
これらは行方不明者家族たちと肉眼で区別されない。普及品として支給されたジャンパーやスリッパ姿で体育館の外で一緒にタバコを吸って冗談を交わしている。ゴムマットで毛布と掛布団を掛けて行方不明者家族たちに交じって寝る。特別な任務や役割はない。そばにいてくれるのがすべてだ。
 
父Bさんも十日あまり前に娘を探して葬儀まで戦ったが、体育館を離れていない子供を失った悲しみを知っているため。Bさんは"同じ遺族であっても訪れた人と探せなかった人は天と地の差"と"ここにいる人たちの考えすると、心が痛くて来るしかなかった"とした。
 
これらには生計も後回しにされている。10日あまり前に千辛万苦の末に娘を訪れたCさんは、行方不明者の父たちのような黒いジャケットを着たまま'パピヨンの三銃士'を自任し、体育館にとどまっている。Cさんは"探せなかった娘や私の娘や同じ娘ではないか"、"会社が問題だね?行ったからとことが手に取るのか"と問い返した。
 
さる15日、一時調査が終了された後、再調査が続いているが、収拾速度は目立って減った。海洋警察の解体が発表された後、捜索が遅延させたり、中止されることはないか、行方不明者家族の不安感は拡大している状況だ。これらには義理のある犠牲者家族が最も大きな力になっている。
行方不明者母は"どんどん、関心も消えるんの上にいらっしゃる方たちが降りてきて力を与えると、作業速度も速くなる"、"この方々が無理やりご飯も食べさせて喋ってどうやって助けてくれるかどうか分からなくてごめんねしながら席でも満たしてあげるのが相当の力になっている"と述べた。
 
◇"死んだと思わない"…解決されない'懐かしさ'
子どもを探せた父母たちも痛いのは同じだ。遺体を目で確認しても、まだ死を実感できない場合がほとんどである。
"死んだと考えていない。家出だと思って、ここの親は全部。探した人たちも、死んだと考えはない。それで訪れた人々が死亡申告書を出していないんだよ。処理をしないと。最後の紐だから。それしたら本当に死んだんじゃないの。そのひもも下ろして大変なんだ。"
 
努めて死を否定して見るが、この懐かしさが一生を歩むだろうという恐怖が彼らを悲しくしている。"私たちが大変なことは、みれないから大変なんだ。触れなくてみて顔みれないから。が、心、一方ではこれが一生ということを知ってるでしょ。一生を顔見れない大きくていくこともよく見れなくて。だから痛くたんだよ。死んだと考えていない。"
犠牲者の両親たちに体育館は子供の死を一時的に'猶予'してくれる空間になったりもする。Bさんは"家に行ったらクラスメートたち服に体臭がそのまま詰まっていたので胸が張り裂けそうだ"、"ここにいたらまだも私の子供がいないというのが実感が出ない。日常生活に帰ると、空席がもっと大きく見えること"とし、心配した。
体育館でも寝るのは簡単ではない。犠牲者・行方不明者家族もなく眠りを設置は未明、体育館は'輾転'でいっぱいだ。Bさんは"娘が思い出して携帯開いて写真を見ると胸が息苦しいとなるが私よりさらに厳しい、行方不明者の家族にティーを出すことはできない"と述べた。
 
安山高の犠牲者・行方不明者の父兄たちはクラス別'バンド'(知人基盤、閉鎖型のモバイルSNS)を開設して子供たちの写真を共有することで知られた。子供の生前の姿を少しでも収集するためだ。予告なしに子供を失った親たちは他の父母たちが載せた写真で子供の痕跡を発見して宝物のように保存している。一部の親たちは、海警側に要請して子供たちがセヲル号に登る改札口CC(閉鎖回路)TVを確認して嗚咽したりもした。最後の姿でも確認したい親の心だ。
 
犠牲者家族たちもいつまで生計を延ばして珍島に滞在できるのか分からない。Bさんは"してやれるのがないから、できる限り一緒にいてやりたい"と述べた。犠牲者や行方不明者家族みんなで体育館の空席がもっと大きくなる前に16人が家族のもとに戻ってきたことだけを切に念願している。
 
 
(翻訳:みそっち)
 
 


 
体育館にもどってくる親がいるってことですね、とりあえず葬式だけ終わらせて家を片付けたら”暮らしなれた体育館”に帰ってきたというわかりやすい韓国式の情景が目に浮かぶようです。
 
そのいっぽうで遺族成りすましのひとは体育館から姿を消しましたが”自称ボランティア”のひとたちはあいかわらず入れ替り立ち替りやってきて記念撮影をしたりお荷物をお持ち帰りになるなど”韓国型”の日常が続いているようです。さらに民間ダイバーサポート隊への成りすましも報告されています。
 
 
 
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ある試算では”珍島体育館の経済効果”は105億ウォンだって