minaQのつぶやき 네토미나

嫌韓(いやかん)ってホントはどうなの?

珍島体育館から最後の撤収

 
 
 
 
珍島体育館だより 最終号
 
 
イメージ 5[今夜もミーナ]セヲル号行方不明者捜索の終了と共に、事故対策本部も公式に解体されて、、珍島(チンド)の支援人員や装備も撤退しています。しかし、一部の家族とボランティアたちは依然として、彭木港(バンモクハン)で困難で孤独な待機を続けています。
 
イメージ 2
 
▲バンモクハンにあったボランティアのテントなどが一斉に引き揚げた
 
イメージ 3
 
▲岸壁の手すりには新たに黄色いスローガンが掲げられている。
 
イメージ 4
 
イメージ 1
 
▲珍島体育館も遺族や関係者が立ち退いたあとはがらんとしている。最大の懸案だった”大型モニター”も昨夜中には配線まで撤去された状態でもぬけのからな状態になっていました。
 
 
この18日、汎政府対策本部の解体後に政府から支援した人材と施設、一時、家族たちより数が多かったボランティアたちまでほとんどが撤退したものです。
 
[キム・ソンフン/とジンユンヒさんおじさん:実はいらいらします。家族のように過ごしたボランティアや医療陣たちと疎通して心を分かち合いましたが、離れながら心のむなしさや虚しさが…。]
 
悲しみに沈んだ家族たちが犠牲者を獲得して歌っていた彭木港にはもはや犠牲者の名前が書かれた黄色いリボンだけが残って座を守っています。
それでもまだ、彭木港には行方不明者家族たちと遺族、ボランティアを合わせて10人余り残っています。
家族を見つけられなかった行方不明者家族は7ヶ月が過ぎても彭木港を離れられなく、留まっていて家族を訪れた人たちも家に帰る気になりません。
 
[チェ・テヒョン/とチェチョンス君おじさん:(遺失物センターで子供たち体臭感じられる携帯電話や衣類が出たらそんなに大変です。(家に)上がっているば1週間を耐え切れず、です。子供たちにすまないから。]
いつのまにか11月末。
人たちの関心と支援が減り、彭木港に残った人たちにはつらくて寂しい冬が迫ってきています。
 
珍島室内体育館で家族を待っていたセヲル号行方不明者の家族がペンモク港仮設住宅に居所を移した。
海の下に眠っている家族とは近くなったが、世界の関心はより遠くなった。
 
セヲル号行方不明者の家族が去る20日午後、珍島進歩室内体育館でバンモク港に設置されたプレハブ住宅に移った。
京幾安山に帰っていた家族も、この日の午後遅くにはパンモク港プレハブ住宅に居を構え、まだ行方の知れない8人の家族の中で3人の家族だけがパンモク港に留まるされた。残りの5家族は安山に戻った。
パンモク港には18.15㎡(5.5坪)の大きさの仮設住宅10棟が設置されている。TVと冷蔵庫が暮らしの全てだ。それさえも床に電気カーペットが敷かれて寒さはある程度分解することができる。
※電気水道食費から洗濯まですべてが無料です
 
コンテナに設置された簡易シャワー室(温水)と調理場(プロパンガス無料)が付き全員で食べるためのレストランもある。これらの施設は、珍島郡が今のところ運営する計画である。
行方不明者の家族は18日、政府の事故対策本部が解体されると、「最後の行方不明者を見つけるまでバンモク港で待つ」と宣言した。しかし、これまで7ヶ月間の家族をかばってくれた珍島郡民を配慮して珍島室内体育館は明け渡すことにした。来年に全羅南道道民体育大会を控えた珍島郡は、体育館の保守を先送りすることができない状況である。
 
イメージ 7
 
▲200インチ大型モニター2台も撤収された
 
行方不明者の家族が住居を移すと郡はこの日から体育館内·外部の各種施設を撤去する作業に入った。
体育館では、家族を助けていたボランティアたちも皆荷物は軽かった。 これまでの珍島でボランティア活動に参加した人員は5万145人と集計された。現在行方不明者の家族は、パンモク港には、まだとどまっている遺族10人と一緒に生活している。ボランティア団体がほとんど撤退し、家族はレストランで手作りご飯を作って食べて生活している。安山市は近くのレストランで食事を解決できるように手配しましたが、家族が拒絶したため、代わりに食材を供給する案を模索している。
 
安山市の関係者は、「珍島体育館を離れて、家族の方々がとてもがっかりして寂しくした」とし「ファングモク港は非常に寒い」と心配した。
 
 
 
 
思い出の体育館乱闘シーンをもう一度
 
 
イメージ 6
 
 
 
 
 
またねっ