鬱陵島行きの定期船がひどかったハナシ
この不便な”鬱陵島”に航路を開いたのはニホン
船はニホン製だったしそれ以前は”住んじゃいけない朝鮮最東端”の島
[不思議ミーナ]平均水深1千684mを越える東海まん中高く聳え立っている島、”鬱陵島”こちらを陸地と繋いてくれる唯一の交通手段はまだ旅客船だけだ。 鬱陵島と陸地を繋いてくれる旅客船の活動はいつからだったのだろうか?
鬱陵島と最も近い陸地は約130kmの距離にある蔚珍郡竹辺港 だ。 済州島が海南の地の果ての村まで83kmである点を勘案すれば鬱陵島は非常に遠く離れているということがわかる。 (伊豆大島が東京から120kmで三宅島はその先)このように陸地と遠く離れたうえに唯一の交通手段が旅客船だけの鬱陵島ここの住民の人生は常に旅客船と共にしてきた。 ※現在も空港が無い
旅客船が1ヶ月に1,2回一週間に一回程度鬱陵島を行き来した時期には鬱陵島に連絡船が入ってくれば全村の人が見物出てくるほどであった。
鬱陵島と最も近い陸地は約130kmの距離にある蔚珍郡竹辺港 だ。 済州島が海南の地の果ての村まで83kmである点を勘案すれば鬱陵島は非常に遠く離れているということがわかる。 (伊豆大島が東京から120kmで三宅島はその先)このように陸地と遠く離れたうえに唯一の交通手段が旅客船だけの鬱陵島ここの住民の人生は常に旅客船と共にしてきた。 ※現在も空港が無い
旅客船が1ヶ月に1,2回一週間に一回程度鬱陵島を行き来した時期には鬱陵島に連絡船が入ってくれば全村の人が見物出てくるほどであった。
◆旅客船時代の序幕
▲大韓帝国の初代鬱道郡守 ペ某
1881年鬱陵島に開拓令が下された以後居住した住民たちは無援孤立の鬱陵島では陸地と連結する船舶が切実だった。 開拓当時には日本商船をはじめとするニホンの船舶がしばしば往来した。 鬱陵島移住民は全羅道漁船である全羅船を作って利用した。
1901年大韓帝国初代鬱道郡守ペキュジュの建議と住民たちの助けで帆船”開運丸”が運航される。 しかし、間もなく住民たちの間の頻繁な摩擦で運営の困難を経験していたところ、風浪で船が破損し、民ㆍ官の間での船舶購買代金返済訴訟で困難を強いられている。
その後、定期船運行は水泡に帰し、住民たちは1911年まで貨物船を利用して、陸地と往来したり、生活必需品の購入と特産品の搬出をする大変な時期を過ごした。その後に日帝強制占領期間になり、1912年に西日本汽船株式会社が鬱陵島と釜山を連結する航路に300トン級雑貨船が月4回就航するが、光復(解放)と同時にこれまた中断される。※30年以上定期船を運行
解放と同時に大韓海運公社所属の500t級東山丸が月2回ずつ運航していたが火災で消失して、再び小型漁船と雑貨船や、70t級貨物船などが陸地と連結する程度に終わる。 以後、驪州(ヨジュ)号、改善号など鉄船が運航するが6・25戦争でこれさえも中断される。
イカ釣りで好況を享受し始めた1960年を前後して鬱陵島の人口は3万人に肉迫したし交通量と物流量が増加するとすぐに定期旅客船はより一層必要だった。 鬱陵島(ウルルンド)住民たちは1961年1月27日、‘鬱陵島・浦項・釜山間交通の推進委員会’を組織して中央政府に定期船舶の就航を要請する。
※定期船が無かった
1962年8月4日青龍号を起工して同じ年12月29日進水した。1963年から本格的に鬱陵島総合開発が成り立って、大韓造船公社で製作した東洋海運の380t級鉄船青龍号が1963年5月から月5回で運航し始めた。
鉄船である青龍号は漁船より少し大きい漁船型旅客船で最高速度は10ノット(時速18.5km)、380t級規模で1963年5月から月7回定期就航した。 当時国庫補助50%、政府融資40%、自己負担10%投資で製作された青龍号は当時鬱陵島海上交通の急進的な発展を持ってきた。 鬱陵島と浦項間の運航所用時間は12時間だった。
鉄船である青龍号は漁船より少し大きい漁船型旅客船で最高速度は10ノット(時速18.5km)、380t級規模で1963年5月から月7回定期就航した。 当時国庫補助50%、政府融資40%、自己負担10%投資で製作された青龍号は当時鬱陵島海上交通の急進的な発展を持ってきた。 鬱陵島と浦項間の運航所用時間は12時間だった。
浦項市、東濱洞埠頭から午後6時に出発する青龍号は夜通し東海海を経て翌日午前6~7時頃、鬱陵島、道洞(トドン)項に到着した。 当時は正しくなされた港と接岸施設がなかった時期なので鬱陵島に到着した後にも陸地から200m程度離れた入り江の海の真ん中イカリをおろして立っていなければならなかった。(この時期まだ港がない)
青龍号が船の汽笛を2回鳴ると、人力で動く小さな連絡船が近づいてきて、太いロープで青龍号と陸を連結した後、人と荷物を移動させた。、鬱陵島と陸地を連結する交通量が増加すると、青龍号に続き東海号が新たに投入され、初めて複数路線時代が開かれた。
今考えればあんな船をどのように乗って通ったかと思うが、当時青龍号は鬱陵島定期旅客船の始めのように非常にはやい高級船舶だった。 以後輸送量が多くなるとすぐに青龍号を繋いで第1東海号が就航する。
◆道洞(トドン)港の開港と快速船時代
◆道洞(トドン)港の開港と快速船時代
▲1960年代初め政府の支援下に鬱陵島総合開発が始まった。 住民たちが道洞港の防波堤掘削工事を進行する姿.
▲1980年代初期鬱陵島、道洞港の風景
▲1977年7月7日開かれた一日号就航式の姿.
道洞港の船着き場と防波堤などが翌年5月完工する。 道洞港の完工で1977年7月浦項-鬱陵間を808t級の鉄製高速船ハンイル1号が就航する。 ハンイル1号は長さ60m、幅9m、最高速度20ノット(時速37km),定員529人で既存9~10時間かかった運航時間を6時間のままに短縮させた。
道洞港の船着き場の竣工で青龍号、東海号、韓日1号など3隻の旅客船が運航して本格的な旅客船時代が開かれることになる。
これに続きハンイル高速は1982年韓日3号を追加投入させる。 韓日1号と3号の登場で一日1回片道運航で往復運航に増えて鬱陵(ウルルン)住民経済活性化と利便性に大きく寄与する。
陸地とのアクセシビリティが良くなるとすぐに鬱陵島一周道路や、苧洞港開発など本格的な鬱陵島開発事業が進行された。
1980年5月27日には海上交通の多角化が成り立った。 コモド高速が日本から導入したコモド号(192t級、定員198人)を束草-鬱陵島間路線に投じた。 コモド号は束草-鬱陵間を3時間30分目に走破して一日2往復運航することによって当時としては旅客事業に画期的な転機を用意することになる。
◆大亜高速海運の登場
◆大亜高速海運の登場
1983年に登場した大亜高速フェリーは韓日1号と3号を買収してなんとかフェリーに商号を変更して本格的な鬱陵島旅客事業に飛び込む。 引き続き(株)大亜高速海運の前身ある大亜高速フェリーの本格的な初めての船舶である2千35t級、定員790人、車両20台余りをのせることができる大亜高速カーフェリー号を鬱陵島に投じた。
貨物運送がよくなされなかった当時としては画期的な変化であった。 特に小荷物中心の貨物運送変化に大きい反響を起こす。
広い貨物適材空間を保有した大亜高速カーフェリー号は車両だけでなく掘削機のような建設装備まで運送できて地域経済と建設活性化に大きく寄与した。
(翻訳:みそっち)
そんな島ですが飛行場が無いんですよね、立地条件としては富士山のような形をしている島ですが五合目あたりが海面みたいに思ってください(実際はもうちょっと広いかも)、あのへんに飛行場を建設するんだと言い出すと”どこに?”という返事がかえってくるように まさにドコドコ?という具合です
えっ続きですか? さぁ?