minaQのつぶやき 네토미나

嫌韓(いやかん)ってホントはどうなの?

ユンジョンソン少将 転役しました。

韓国哨戒艦沈没の民軍合同調査団の軍側の偉かった人なんですけどね
いえいえあのね本を書いたとかの記事はチェックしてたんですよ 軍隊辞めちゃってアメリカに行くのだそうです
これってやっぱり海外逃亡願望かなぁ
 
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▲民・軍合同調査団の軍側の団長 当時准将だったし将来参謀総長くらいになるって噂だったのに ><;
 
“このように根拠がないという不信激しくては第2の天安(チョナン)艦-延坪島ヨンピョンド)防げない”    
 
3月26日金曜日夕方ユン・ジョンソン国防部調査本部長(53・少将)は憲兵先輩らと食事をするところだった。 午後10時半突然携帯電話が鳴った。 情報将校からであった。 西海(ソヘ)で私たちの船が沈没したという報告であった。 憲兵の最高地位の憲兵官まで上がって東海岸23師団兵舎銃器乱射事件、22師団一般前哨(GOP)手榴弾窃取爆殺事件、2軍司令官インターネット謀略未遂事件など軍大型事件を解決してきて軍内最高捜査専門家と認められた彼であった。
 “何か尋常でない”という直感がきた。 急いで席を終わって復帰した。 国防部長官(キム・テヨン)はすでに大統領府にあった。 予想通り単純事件事故ではなかった。 大変なことがさく烈したのだ。
眠らずに夜を明かして調査本部長就任当時作っておいた科学捜査30個マニュアルを点検した。映像写真チーム、死体検案チーム、証拠物収集および分析チームを全部待機させた翌日、長官は状況把握任務をひとまず国防部戦争体勢検閲室に任せた。 彼が責任を負っている調査本部もしなければならないことが一つや二つでなかった。 事件発生時間から明確にしなければならなかったし船がなぜペクリョン島近く行ったのか、艦内規律問題はなかったのか、艦長が事件に対して緘口令をおろしたというのは本当か、船が古くて座礁したというのに状況や装備状態はどうだったのか各種疑問があふれていた。 ついに事件発生五日の後の3月31日民軍合同調査団が組まれたしユン所長は調査団傘下科学捜査分科長を引き受けることになる。
 
“4月2日ペクリョン島初めての現場踏査をした。 心情的に北の仕業という確信が聞いたが証拠がないから話すことはできなかった。 事件初期には魚雷なのか機雷なのか論議があったのでペクリョン島近隣に過去に埋めたという機雷実態に対する調査に着手した。
 しばらくして合流した米国、スウェーデン、オーストラリア、英国などの調査団員らで構成された国際調査チームは船体損傷程度、バブルなどを土台にシミュレーションをした結果魚雷攻撃によったものと結論を下した。
だが、彼らはこういう類の経験がないとし(魚雷を)探しは大変なこととした。”
当時だけでも学者言論人政界全部魚雷と機雷を区分できなくて無条件疑惑を吐き出した時であった。 陸軍であり憲兵将軍だったユン所長も捜査分野だけ引き受けて見たら武器体系、その中でも水中武器体系に対しては非専門家であった。 勉強が必要だった。 国防科学研究所魚雷担当者イ・ジェミョン博士など広範囲な専門家集団から学習をしながら捜査も共に進行しなければならなかった。
KAIST教授で米海軍大学院で水中武器に対して20年以上講義をしてきたシン・ヨンシク博士の助けが大きかった。 シン博士は陸上爆発、水中爆発、接触と非接触爆発を確かに区分して説明しながらバブル効果と患者状態を綿密に診断して魚雷という結論を下したしユン所長もますます確信が入り始めた。
 そしてユン所長は2003年浦項(ポハン)近海からすくい上げた北朝鮮訓練用魚雷を目で確認してみた後、大きさが考えたことよりはるかに大きくて‘もしかしたら探すこともできる’という希望を持ち始めた。
それなら、どのように引き上げなければならないのか。
 
潜水部を動員したが無駄であった
“水深47m、視界30cm、水中温度3度で前が見えない氷水に入っていることでも同じことの状況で10分以上ありえなかった。 水中ロボットも無用の物だった。 この渦中に万年准尉が殉職したしクムヨン号船員らが失踪しながら希望はますます絶望に変わった。”
“そのようなある日、空軍調査団長のヤン・スンジュ空軍大佐が東海(日本海)、西海(ソヘ)に落ちた戦闘機残骸を除去する時はえ縄漁業漁船を利用したと話した。 耳をそばだてた。 ちょうど空軍は除去作業をする時ごとに縁を結んできた製作会社(釜山(プサン)大坪水産)ともよく知っていた。 空軍作戦司令部パク・ジュヌン、アン前室長、大坪水産キム・チョルアン社長に尋ねると2006年東海岸水深372m、2007年西海岸(ソヘアン)水深45mで戦闘機残骸を引き上げた経験を生かせば魚雷を引き上げることもできるといった。 絶望が希望に変わる瞬間だった。”

ユン所長は“もう決定的証拠が出てきたので全部終わったと考えた。 だが、大きい錯覚だった”と回顧した。 6月末科学捜査分科長から合同調査団長に進級して結果報告書を出す過程で彼はまた他の戦争をしなければならなかった。 外側の敵でない私たちの内部の理念戦争だった。
“それ以前だけでも軍という空間中で同じ考えを共有した人々だけ会って見たら私たちの社会の理念葛藤を体験する機会が多くなかった。 だが、天安(チョナン)艦事件を契機に多様な人に会いながら韓国社会理念葛藤の谷がこのように深いことに新たに驚いた。”
 
ロシア調査団の不明瞭な態度はより一層あきれた。 調査に参加したロシア側大佐3人は調査団と24時間一緒に生活しながら生存者面談はもちろんで一般に公開されなかった魚雷設計図まで見て帰った。 それと共に“韓国軍に敬意を表わす”とまでした。 ところで後ほど行ってとんでもない話を行った。 国際秩序というものも多分国家利益と戦略により動くということを実感した事件だった。
7月には機雷による沈没を主張する2ページ‘ロシア報告書’だというのが米国務部と韓国外交通商部にまで流れて行ったがロシア政府は‘虚偽文書’と公式確認した。 事実をわい曲する勢力らがこのように巧妙で組織的だということすら感じるとは新たに驚いたことだった。
ユン所長は“ロシア調査団事件よりも軍をさらに力が抜けるようにしたことは国内理念葛藤だった”としながら“事実をまず受け入れた後、原因と対策を討論する過程で発生する異見は当然のことかもしれないがそのような水準ではなかった。調査結果を置いて説得作業をしなければならない時ごとに‘これはではなかったが’とする瞬間が多かった”とした。それと共に彼は現場で体験した進歩と保守側立場を代弁する人々に対する感じを打ち明けた。
“いわゆる国内左派は手のつけられない状態であり粘り強かったし執拗だった。 その過程で一時イシューになった魚雷推進動力装置穴に挟まっていた貝うわべ(殻)を発見するなど調査団もそこまで発見できない事項を捜し出した点は認定するに値する。 また、彼らは迅速ではやかった。 資料が公開される時ごとに素早く反論資料を言論に配布した。ここにお昼一食でも相手方に世話にならないようにする態度も印象的だった。 国防部で討論会を終えて食事を提供しようとしたがどうしても弁当を準備するとしながら断った。 道徳性を守ろうとする姿勢だけは新鮮に見えた。”
引き続きユン所長は“だが、そのような長所にもかかわらず、目的のために主張を無条件強弁しようとする態度と枝葉的であることを全体的であると拡大解釈して一方向にだけ推し進めようとする態度、自由民主義体制で享受することはみな享受して生きながら北朝鮮の主張に同調する態度で一貫した”と付け加えた。
いわゆる‘保守’という人々も問題であった。 彼の苦言が続いた。
“話が先んじて行動がなかった。 事実と違った内容がインターネットに歩き回る時も立場を明確に明らかにする人は多くなかった。”
そのような面でKAISTソン・テホ博士は違った。 熱力学を専攻した学者として在米学者イ・スンホン教授などがあまりにも話にならない話をするとすぐにその蒸し暑い夏に何の代価も従わないことに2ヶ月を一人でぶらさがって研究をした。 その結果そのいざこざの多かった‘1番文字’が魚雷に残るほかはない理由を科学的に証明やり遂げた。 尊敬するほどの学者であった。
 
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“だが、大多数保守はとても無力で安易だった。 左派らが‘天安(チョナン)艦を尋ねる’ ‘封印された天安(チョナン)艦’ ‘科学の良心天安(チョナン)艦’等本を三冊も出してビデオまで作って回したが保守はそのような努力をしなかった。
誰かの言葉のままに右派はお金を上げれば動くが、左派は私お金を出して動くという話を実感したというだろうか。”
 
記者がこの大きい課題で‘考えの多様性という側面で見ることもできないだろうか’と尋ねるとすぐに彼は“最小限ファクト(fact)は受け入れなければならないことではないのか。
事実をありのまま受け入れないでこれをわい曲して無視しようとする見解は多様性でなく消耗的葛藤であるだけ”という答が帰ってきた。
 
“どのようにすれば消耗的理念葛藤を克服できるか”と尋ねるとすぐにこういう答が帰ってきた。 “お互いに認めることは認定することが正しいようだ。 この土地の‘産業化勢力’は経済成長の礎石を固めたし‘民主化勢力’は民主主義の礎石を固めたことに全部忠実だったということを認めながら継承することは継承して補完することは補完する知恵の目を若者たちに譲るべきではないだろうか。”
彼の言葉が続いた。“天安(チョナン)艦事件の実体を明らかにするのに10ないし20の時間、努力、費用がかかったとすれば手のつけられない状態式反論を解明するには何と80,90が聞いた。葛藤と不信のために行わなければならない国家費用がこのように想像以上というものを私も今回のことを体験しながら知ることになった。より良い未来のために使わなければならない資源がむだな所に使われているんだねという考えにからだと心が疲れる時が一、二回ではなかった。”
 
彼は22日任期満了で30年間身を置いた軍の門を離れた。 本来退役後ひまな生活を計画したが今回の天安(チョナン)艦事件を契機に‘私からでも’とする心に調査過程を入れた本を書いている。 来年には米国に渡っていって大学に籍を置いて勉強をもっとする計画だ。
ユン所長は“北の延坪島ヨンピョンド)挑発とあらわれたように天安(チョナン)艦は開始に過ぎない”とした。来年にも大韓民国の前には多くの挑戦が待っているという憂慮であろう。
今年は予想できなかった北の挑発に対処するのも大変な一年だったがそれで裂けた私たちの内部を見ることで腹(船,梨)はさらに大変な一年であった。 彼に会った日はクリスマス(25日)午前だった。 全部‘メリークリスマス’をやりとりした一日であった。 少なくともクリスマス一日だけは‘一つになった言語’が可能だったように来年には少なくとも‘事実’前だけは一つになった言語を分ける害になればという心だ。
 
ユン・ジョンソン少将予備役
 
 
―1977~1981年陸軍士官学校卒業
―1997~2000年首都防衛司令部33警護隊長(中佐)
―2000~2003年大統領警護室長補佐官(中佐)
―2003~2004年5軍団憲兵隊長(大佐)
―2004~2006年陸軍本部中央捜査団長(大佐)
―2006~2008年陸軍憲兵兵科長(過去の憲兵感)兼陸軍調査団長(准将)
―2008~2010年国防部調査本部長(所長)
―2010年12月22日転役 予備役少将
―1996~1999年東国(トングク)大行政大学院行政学修士
―2003~2008年明智(ミョンジ)大政治外交学博士
著書:‘将軍のリーダーシップ ダイアリー’(2009年),‘朴正熙 リーダーシップ ストーリー’(2010年)