minaQのつぶやき 네토미나

嫌韓(いやかん)ってホントはどうなの?

“大韓海峡海戦” 本当にあったのかな?

だったらイイなを史実にする  そんな国があるんですよ 解説は要らないですよね   「日本海海戦ってうらやましいニダ、ウリも作るニダ」
 
毎年今頃になると発病する“大韓海峡海戦”を 今のうちに笑えっ
 
 
-釜山(プサン)港を奇襲しようとしていた敵艦艇発見、沈没させて-
同族間の争いの悲劇6.25が起きた後58年が過ぎた。 勝者も敗者もなしで戦争前の戦線がそのまま固定化されたし半百年が過ぎた。 3年にわたった戦争の間国軍が勝利した白馬(ペンマ)高地、破虜湖(パロホ)および多富洞(タブドン)などの色々な陸上戦闘が広く知られているが艦艇が活躍した海戦を知っている人は珍しい。

○購入と国内導入
だが、朝鮮戦争中最も重要な後方兵たん基地役割をした釜山(プサン)港近海大韓海峡で6.25戦争の分岐点になった海戦があった事実を記憶する必要がある。
 
6万ドルで買った? でも米大尉さんに2万ドルってどうなの?
この大韓海峡海戦を勝利に導いた艦艇は対韓海軍の白頭山(ペクトゥサン)艦701)だ。 この船は誕生過程から感動的だ。1945年解放後海軍が創設されたが兵員、艦艇および装備は非常に不備だった。 特にまともに戦闘艦など一隻持つことができなかった。
艦砲を装着した艦艇の必要性を感じた海軍は当時孫元一年軍参謀総長から末端水兵まで海軍の月給を10%控除(共済)して海軍夫人は針仕事と洗濯で集めたお金を寄付した。 このように集めたお金15,000ドルをイ・スンマン大統領に伝達して戦闘艦1隻を購入してくれと要請したしイ・スンマン大統領はここに45,000ドルをさらに加えて総6万ドルで艦艇を購入することになった。
当時韓国に顧問官に来ていた米国海岸警備隊(USCG)2)ロビンソン大尉がイ・スンマン大統領の要請を受けて対象艦艇を調べてみたし、ちょうど米国、ニューヨーク州ギングス ポイント(Kings Point)海洋大学校実習学校所属Lieutenant Whiteheadを推薦した。
この船は満載排水量450トン、長さ53メートル、幅7メートルに最高速力18ノットで乗船定員は73人だった。 艦艇購入契約前にソン・ウォンイル提督とロビンソン大尉が米国に渡っていって船を調べて続いて艦艇を修理して韓国で追い立てる引き受け団員がニューヨークに行った。
 
 
1949年10月1万8千ドルを支給してこの船舶を購入した。 実際は船は購入したが船体があまりにも古く、永らく運航をしないで停泊させておいてエンジンまで正常ではなかった。
貧しい新生国家韓国の引き受け団員は少しの費用でも節約するために人件費が高い米国人夫らに任せないで将校身分であるのに船で寝泊まりして直接船体と機関修理作業をしたし外板修理を終えるや船体に701号だとペイントで記入さえした。
 
修理作業が終わるとすぐに同じ年12月末白頭山(ペクトゥサン)艦の命名式が船尾甲板で開かれた。 韓国海軍最初の戦闘艦命名式だった。 この行事には当時駐米大使館の張勉大使とソン・ウォンイル提督、乗務員と海外同胞などが参加した。 船舶のマストてっぺんに国旗を掲揚して愛国歌を唱えた参席者は喉がつまった。
命名式後初代艦長朴沃圭提督の指揮下にニューヨーク港を離れてマイアミを経て1月末ハワイ、ホノルルに入港した。 1950年3月真珠湾米海軍修理廠(ウィンドウ)で3インチ大砲1問を装着して出港してグアムに立ち寄って米軍から砲弾100発を購入した後4月10日鎮海港に入港した。 
 
※砲弾が当時1発あたり30ドルだったそうです、途中での給油と乗組員(アメリカ人)それに韓国人水夫の給養費だけで太平洋横断は無理だそうです つまり実弾は無し!!って言うのがホントのようですが まぁ25発位を甲板上に“露天係止”してたかも知れません・・・・・だって76mm砲弾は5発でひと箱だし人力で持ち上げるの不可能な重さですよ  そこのアナタ持ってみる? えぇ??  マジで重いですょ
 
 
▲全く誇張の無い76mm砲搭載の図 大砲の旋回は手動だからイイでしょ  それで 横向きに撃てるの? 弾を込める人が落ちそうになりませんか? そういうわけで“御飾り”だったようですよ

こういう過程を経て韓国に持ってきた白頭山(ペクトゥサン)艦は当時最新秘密兵器といって艦艇から遠い距離に線を引いて関連者以外の接近を防いだ。 また、最も優秀な海軍人材が乗務員で乗船した。
しかし間もなく1950年6月初めからこの艦艇を海軍と国民にリリースするために全国主要港を巡礼して鎮海港に帰航したのが6.25韓国動乱(朝鮮戦争)勃発わずか何時間前の6月24日23時30分だった。 ちょうど24日が土曜日なのを理由に当直員を除いた大部分の将兵は家へ帰った。  (戦争開始は翌25日午前4時のこと)
 

○敵艦発見
 
6月25日明け方4時北朝鮮軍は38度線すべての戦線にかけて南への侵略を開始した。 戦争がさく烈するとすぐに白頭山(ペクトゥサン)鹹度東海岸、木浦港(モッコハン)近所に上陸した北朝鮮軍を阻止しろとの命令を受けて他の2隻の艦艇と共に25日午後3時鎮海港を出港した。
午後7時頃釜山(プサン)近海をすぎて約一時間が過ぎた夜8時を越えて警戒した水兵が南下する船舶の黒い煙を発見した。  
※他の2隻の艦艇って言うのがステキなんですよ “トロール漁船”だそうです  だってほかに軍艦無いんだもん   嘘発覚!!
 
 
 
早朝に目視で敵艦を確認? ちょっ 深夜12時ですか そーですか
 
艦長チェ・ヨンナム中佐は直感的に相手船舶が怪しいと判断して一緒に行った艦艇を先に送って所在不明船舶側に選手を回して相手船を目で見ることができる距離(距離)まで接近した。
所在不明船舶は船体が全部黒い色に塗られていて船首には船の名前もなかったし海軍輸送船と見えるが国家記章もかかっていなかった。 白頭山(ペクトゥサン)艦は手旗信号と発光信号を継続的に送ったが相手船は全く応答がなしで黙黙と釜山(プサン)港側に降りて行くだけだった。
艦長は海軍本部に所在不明船舶発見事実を報告して発砲命令を待った。 一方継続的に相手では近く接近して確認したところ、所属不明の船舶は約1,000トン級輸送船で速力10~12ノット、長さ約70メートルで85mm砲1門と重機関銃2丁が設置されていた。 
※見えたんですか そーですか昭和25年6月25日のお月様は9日月だったから夜中には西に沈んじゃって真っ暗だったわけですね  (闇夜 ココ重要)
 
 
まるでニホン野鳥の会のような員数識別能力 スゴイでしょ
 
また、甲板には北朝鮮軍服を着て完全武装した海軍と上陸特攻隊(私たちの海兵隊に該当) 600人余りがいっぱい乗っていた。 相手船の正体を把握する頃本部の射撃命令が下ったし6月25日深夜12時頃白頭山(ペクトゥサン)艦の3インチ艦砲と機関銃が火を吐いた。 相手船も85mm砲と機関銃で応射した。

○敵艦を命中、沈没させる。
戦争前味方は難しく購入した艦艇の費用を節約しようとただ一度の実際射撃訓練もできない状態で出場した。 しなかったことに発射した20発の砲弾の中で5発が積善に命中したし相手船は徐々に沈没し始めた。
 
白頭山(ペクトゥサン)艦は敵艦の砲弾をむかえて乗務員何人が重傷を負った。 重傷者中ひとりは死んでいきながらも敵艦が撃沈されたのか尋ねてそうだとすると満足な表情を浮かべて“最後まで戦うことができなくて申し訳ありません”と話して最後の力を集めて“大韓民国万歳(万世)”を呼んで息をひきとった。 敵弾に合った他のある水兵も万歳を叫んで息をひきとった。 ※これは杉野兵長のラッパ教育を受けた人たちですからネ
 
誰も沈没を見ていない 発砲した士官も目視していない それでもまだ言う?
白頭山(ペクトゥサン)艦は敵艦の沈没の有無を確認しようと戦闘地域を捜索したが海上には服と油などの浮遊物だけあったし敵軍は発見されなかった。 当時敵艦に乗っていた兵員は最高の訓練を受けた特攻隊だから生き返ることができたことでも味方に発見されて秘密があらわれることを恐れて全部死を選んだと見られた。

大韓民国を救う。
6.25勃発から3日ぶりに首都ソウルが陥落して一ヶ月ぶりに洛東江(ナクトンガン)戦線まで後退して防御線を構築して釜山(プサン)港を通じて国連16ヶ国の100万兵員と数百万トンの軍需物資を補充受けて仁川(インチョン)上陸作戦と北進ができた。 以後1953年休戦の時まで3年にわたった戦争の間釜山(プサン)港は我が国と国軍に生命の紐と同じ役割をした。 ※あっさり言うんですね、福岡臨時政府とか そーいうのは埋めちゃうの?
 

白頭山(ペクトゥサン)艦は休戦後にも私たちの海を守って1959年7月1日退役した。 この船に搭載された3インチ主砲とマストは現在の海軍士官学校に保存されている。 当時艦長チェ・ヨンナム中佐はわが政府から太極武功勲章を、米国政府で殷盛武功勲章を受けたし戦死した水兵らも国立墓地に安置された。 海軍では1988年釜山(プサン)、九峰山(クボンサン)中央公園に大韓海峡戦勝碑をたてたし毎年6月25日ならば生存した乗務員らを招請して記念行事を開催する。
 

もし当時白頭山(ペクトゥサン)ハムが大韓海峡海戦で敗退して釜山(プサン)に敵軍特攻隊600人余りが上陸したとすれば戦況がどうなったのだろうか? 想像さえ下記難しい状況が広がっただろう。 この一度の戦闘が釜山(プサン)を守ったし釜山(プサン)が大韓民国を救った。


 
読み物としても不自由ですよ “神宮寺大佐の海底軍艦が” それはまだずっと先の話です(1963ネ)、でもね笑っちゃうのが、“大韓海峡海戦!”って言うのがアノ国の歴史に出てくるのはずぅ~~~っと後なんですね
 
※大韓海峡海戦の初出は1971年、じつは1950年6月27日の新聞に出鱈目戦果が出ちゃって その後改訂が加えられ “戦果を捏造し” “無かった船を撃沈し” “艦底勤務の機関兵が英雄になる” 韓国海軍の歴史資料に載ったのは2004年 ほらぁ すごいでしょ  パチパチ
 
スンマンは追い出されちゃうしキタ朝鮮は歴史的発展しちゃうそんなこんなののずっとあと 1988年に記念碑ですかソーデスカ 
その当時? もちろんアノ国に海軍なんて有りませんから経歴+階級詐称は常習だとして、廃艦再生艦を引き摺って来たのも史実としましょう  それが何処の命令で“上陸してくるキタ朝鮮軍・・への攻撃??” その命令は何処から出たの? 南北休戦協定まで指揮権の無かった“韓国海軍”の誰が??  ソンマン命令だったですか そーですか
それで福岡臨時政府は?  当人は当日にはもう逃げちゃっていなかったでしょ 
 
 
 
 
教訓:死んだ人を英雄にするのも骨が折れる