伝説の ”白頭山艦” のウソを検証する⑦
古い新聞のところ見ていたらあらまぁ お探しの白頭山艦じゃあないですか
本当は白頭山艦は海戦に間に合わなかったのではないのかな
1950.6.14京郷新聞 1950.6.14東亞日報
고사포와기관층을 〓 高射砲を積んでいる
武裝(무장)을한우리 軍艦(군함)의雄姿(웅자) (자진은지四(사)일 뉴—진주만(眞(진)군선구에도난一(일)월二(이)십욕으로부터珠灣(주만))미해착한백두산호(白頭山號(백두산호))로 고사포와기관총을 장비하고...
元写真はこれなんだけど、当時写真電送が韓国にあったのかな? この写真を現像してから半島まで持って帰ったのかな? 整備中の701号艦「白頭山」(1950年3月17日)これはハワイ真珠湾での撮影、 このあと白頭山艦はグアム島に寄って砲弾を積み込んだとありますが
ご存知ない方の為の白頭山艦案内 (韓国人はこんなふうに活躍を創造した)
※注意、ここからが韓国人の考えたフィクションです
海軍の全将兵と国民は、強い火力と、最新の装備で武装している戦闘艦がないことを残念に思った。 白頭山艦は、これらの寄付金として誕生した。1950年4月10日鎮海港に入港した白頭山のは、国民の声援に報いるために、国内の主要な港を歴訪し、6月24日鎮海港に帰港した。
翌日の日曜日を迎え鎮海港第4埠頭に停泊していた白頭山艦の乗組員たちは長い海上生活から抜け出し、半分以上が、外出をした状態だった。11時頃、不意にジープに乗って走ってきた統制次長ギムソンサム(金省三)大佐は、当直士官ギムジョンシク少尉に命令した。
701艦長チェヨンナム中佐は、緊急招集と一緒に外出将兵に出航の指示を出して出動態勢を整えた。外出中の乗組員たちが戦闘時の緊急物資を積んだトラックが駆け付けて軍医と衛生要員も乗り組み出発の準備が完了した。 制御の副司令官に出発準備完了の報告を終えてYMS 512号艇と518号艇を指揮し、鎮海港を出発した時間は15時だった。
▲1980年代になってあらたに書き起こされた海戦のようす、座標が何箇所か確認できるグーグルマップは同寸を同じ座標に貼った。すぐ南方には対馬がある釜山と対馬の距離は38Kmしかない。そして海戦の日の当該時刻に発砲音は全く聞こえなかったという。
※ニホン海上自衛隊や米海軍でゎウソ認定しているようですね
闇夜の深夜に音も無く艦籍不明の何かを警告射撃も無しに(キタ朝鮮の船じゃないそうです)を 搭載弾数80発で“初弾命中”を しかも“命中弾”+“残余弾”が異常に多いの 当時の大砲係さんは撃った記憶無いんだとか
※当時を知ると名乗り出た水兵は機関室勤務のひと、大砲係が負傷したあと大砲を撃ったと証言しました(1982年のこと)
当時砲弾は一発当たり30ドル 船の購入資金と回航してくる費用(艦長さんをアメリカ人にしてもらった)を計算してみると白頭山艦に搭載されていた砲弾は最大でも50発程度だったと推定されています、韓国海軍の初の戦闘艦艇には砲弾50発しかなかったというわけですね しかも白頭山艦はその後役に立つことなく廃艦になりました。
701艦の左舷後方から37㎜の照準射撃を開始すると敵艦は57㎜砲、中軽機関銃などで対抗して熾烈な砲撃戦が展開された。"距離1500、発射。再び艦体を蹴飛ばして出た砲弾は見事に敵船のメインマストに命中した。
701巡洋艦から歓声が出てきた。
※いつの間にか1000トンの掃海艦が巡洋艦になってるのです
この時、赤軍船は、一筋の光をのぞかせ打って701であることを探し始めた。
砲術士官らの指示で射撃演習のようには、チェ中佐の指示に合わせて、今回は赤線の信号を粉砕されてしまった。
初戦で被弾、死者多数 しかも戦果不明
敵は逃走を断念し火力を白頭山艦に集中し始めた。真っ暗な夜の海の上に、味方と敵が機関砲と主砲の赤い砲火が多数の行を引いてまた引いて消えていった。しばらくして、片方が向くのが見えた。
ところが、この時点では何が光っているであり701艦も大きく揺れた。.敵弾は701艦の操舵室の中央下部に命中された。操舵手ギムチャン伍長は片衣装を着ても最後まで舵をつまんでいたし、主砲前のギムチュン砲術士官も同じだった。激しい砲撃戦が終わると、多数の上陸兵を乗せた敵艦は濁っ蒸気を噴き出して沈没されていた。
大韓民国海軍の初の戦闘艦である701艦は、これを4時間余りの戦いの末、6.25戦争の最初の海戦を痛快な勝利で飾って鎮海に帰港した。
艦長チェ中佐は、1951年10月30日、この海戦を勝利に導いた功労で軍の最高の栄誉である太極武功勲章(番号第18号)を受け取る。
はい ここまでフィクション認定ですよ
白頭山艦の活躍はたった一冊の本から始まった2003.6.211950年6月26日。大韓民国では何が起こったのだろうか。 もし6月25日を書き間違えたのではないかと聞いたら、あなたは自らの無知について、一度ぐらいは反省しなければならない。 1950年6月26日、同日は、韓国海軍が、大韓民国の軍隊が韓国戦争での初勝利を収めた歴史的な日だ。最近、一般人たちにはよく知られていない白頭山艦の大韓海峡海戦を記録した本`海よ、その先へ!'(図書出版の中央)が出版された。著者であるグォンジュヒョク(權主赫・50)氏は平凡なサラリーマン(ウリ産業副社長)だ。 本が出るまで決定的な証言と資料を提供してくれたのは予備役海軍大佐のチェ・ヨンソプ(崔英燮・76)さん。二人が同席した。"クォン社長とは今年1月に初めて会いました。 大韓海峡戦闘に関する本を書きたいと言うし、急に家にやってきては当時、話をしてほしいというんです。"
戦争当時、白頭山艦甲板長だったチェ・ヨンソプ氏は、生涯大切にしてきた貴重な記憶を快く出すことをが簡単でなかったと話した。 しかし、韓国の戦史を記録して子孫に知らせなければならないと一心に孤軍奮闘するクォン氏を見て、うれしく、ありがたい心に積極的に作業に参加するようになった。"出版された本を見たら私が思った以上に白頭山艦の活躍ぶりがよく入っていました。 戦況についての詳細な描写と歴史的背景はもとより、軍事用語や各種兵器に対する説明までつけて海軍についてよく知らない一般人らも十分分かるようです。"事実、海軍についてはまったくの門外漢だったというグォン・ジュヒョクさん。2年前太平洋戦争を扱った`ヘンダーソン飛行場'(知識産業社)を出して中部太平洋・西部太平洋戦闘も引き続き出版を控えていた彼は途中に計画を変えて私たちが直接経験した韓国戦争に関する本を書こうと心を決めことになる。"小学校時代、ある雑誌で偶然に読んだ白頭山艦の話が忘れられない、頭の中に残っていました。 風前の灯に直面している時、国を救った歴史的事実に対して韓国国民があまりにも気付かず、関心もないじゃないです。 1人の生存者でももっと生きている時に一日も早く記録に残そうとの切実な気がしました。"誰か決めなければならないことだったが、1人も出てる人がいなくて結局、自分がするしかなかったというクォンさんと先にこの世を去った戦友たちを、ようやく晴れて見ることができるだろうというチェ氏。本のページをめくるながら情溢れる会話を交わしていた彼らはまだ言えなかった話は増補版に掲載することを次を約束した。
◆大韓海峡海戦1950年6月25日、鎭海(チンヘ)基地を出港、東海岸に移動中だったPC701白頭山艦(艦長チェ・ヨンナム中佐)は釜山沖で国籍を知ることができない船を発見する。 粘り強い追い上げに出た白頭山艦はその船が北朝鮮の武装輸送船であることを明らかにして26日0時30分からの砲撃戦を行って沈没させた。もし彼らが釜山に成功的に浸透していたなら、韓国軍が大きな困難を強いられる状況だった。 表向きの戦果は、船1隻撃沈に過ぎないが、実際には戦争の勝敗そのものにも影響を与えた戦闘だった。 規模は小さいが、大きな意味を持った海戦であるに海軍ではこの戦闘を大韓海峡海戦と呼ぶ。
この本を書いたひとが主犯のようです、”それまではあまり知られていなかった大韓海峡での海戦”、これってどうみても真実じゃないんですよ。
新聞が読めるひとならすぐにわかることなんですが、たった一行の”上陸企図の、蘇船を撃沈”という見出しだけが開戦翌日の新聞にちょこっと載ったのです。
いっしょに書いてある”海州市突入”なんていうウソについてはすべての韓国人が黙っていますよ。
朝鮮戦争開戦当日のようす 1950年6月26日
▲開戦2日目
これは27日の東亜日報っていうことでソウル陥落の前日に発行されたものです
大韓海峡海戦の翌日の新聞ってスゴイ速報じゃないですか 脳内妄想 序盤の負け戦で実力の差がわかったんでしょ (海州市っていうのはキタ朝鮮だからね)
6月14日の新聞に載った"ハワイで儀装中"の白頭山艦は実は燃料代が払えずハワイ真珠湾で立ち往生、船長役のアメリカ人大尉も韓国人水夫にこりごりして中途脱落(彼は2万ドルもらいました)、もちろんまだ下朝鮮に到着していないっ
キタ朝鮮戦車部隊はソウルのすぐそばまで来ちゃってる
「あまりにも悔しい状況だったので、国民の情緒や失われた自尊心を考慮して関連する案を推進したことと明らかにした。」
と言うのが真相だということなのです。
過去カキコも見てね