minaQのつぶやき 네토미나

嫌韓(いやかん)ってホントはどうなの?

ソウル漢江に架かる橋 電力不足が叫ばれるなかでなぜライトアップしているのだろう

 
 
 
ソウル漢江に架かる橋 電力不足が叫ばれるなかでなぜライトアップしているのだろう
 
宇宙時代(笑)の今となって霊の存在を信じないひとなどいないだろうか
あるいは霊を信じないひとに会ったこと、、
 
[月刊ミーナ] 韓国ソウルの漢江に架かる橋は皆、電飾でキレイにライトアップされていますよ。
電気供給の大幅な不足が叫ばれている中でも漢江大橋などのライトアップは終夜、夜明けまで行われます、これって単に韓国人の"先天的浪費癖"のなせる技なだけなのでしょうか。
通行車両も途絶える真夜中に煌々とライトアップしている理由って何でかご存知ですか? 
知ってのように韓国人は先祖を非常に大事にする反面、自分自身に関係の無い信仰や宗派あるいは霊魂の存在については無頓着なところがあります、例えば3代前の先祖を弔うような行事についてはまったく気にすることもなく先祖の墓のある丘陵を崩して高層アパートを建てたりしていますよね。 その結果はいくつもの素敵な結果が出ています。そうした文化社会の中で自殺者が増えていますよね。韓国の自殺者はダントツで世界一です。それは橋からの投身ですよ。
 
 
ソウル好きなあなたはまだご存知ないのですか?
 
実は出るんです でるの でちゃうのです
 
しかも いっぱい
 
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▲日没とともにライトアップされる漢江に架かる漢江大橋 しかしこの橋には血塗られた暗い過去があった
 
 
韓国が決して認めない闇の歴史
 
[今日のミーナ] 広く全世界の歴史を探しても紛争を起こした世界中の国々の多くの街が戦場になり、多くの人々が死んだ例は数多くあるが味方友邦友軍あるいは同国人を見殺しにした例というのがどれだけあるだろう、皇帝ナポレオンのモスクワでの敗北は味方軍の自壊によるものではないし、また全世界的見地から見た正しい歴史の伝承であると言える、近代戦争に於ける、爆撃(トウキョウ下町とかドレスデンとか)や砲撃あるいは戦車部隊の侵攻で一時的にも焦土と化し(ベルリンあたり)また多くの人々が戦果に焼き尽くされたことは疑いようもない事実だがもっとひどい例があることをご存知だろうか。
 
 
ソウル進駐で歓迎されるキタ朝鮮T-34戦車
 
平和裏に進駐し半島統一を図ろうとしたのか?
  なぜソウルで3日間の休憩(トンスル)を取ったのだろうか、これにはまだ解決されない多くの問題点があるとも言えます、しかし戦争回避責任はすべて下朝鮮側にあると見るのが正しい歴史認識だと考える向きも限りなく多いことを付け加える必要があるとともに充分な理論武装と武器弾薬の合法的な備蓄があることをあらためて紹介する必要もあるでしょう。
 
イメージ 15キタ朝鮮軍の謎のソウル3日間
これには特異な例として挙げられるのが韓国ソウルの漢江にかかる数々の橋が受難だったと見る向きも多い 
平和裏にソウル侵攻を果たした共産朝鮮軍は住民の歓迎を受けながらソウルに無血入城したというのが多くの歴史家らのみる近代"朝鮮戦争史"だと言える
 
その際に独立したての狂乱した下韓国の一部の軍人が漢江に架かる橋を落としたことについては完全に韓国側の責任であり当時の死傷者や行方不明者のほかに南北分断による離散家族をふくめての総被災者数が近代の歴史にも稀に見る1000万人以上というのが南北朝鮮の主張だ  ※これにニホン人1億3千万を加えるべきであるという最新のminaの主張もある。
 
 
最初の漢江大橋爆破事件 (あるいは人道橋破壊 べつなのね)
 
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漢江人道橋の爆破事件 (汉江人道桥爆破事件)は、 韓国戦争当時の1950年 6月28日 2時30分大韓民国の国軍漢江人道橋を爆破し、民間人800人余りが死亡した事件をいう。 [1] [2] [3]
 
韓国側の記述ではたったこれだけである
 
ところが実際には "韓国軍主力は、北朝鮮軍の強圧もさることながら、自ら過早に退路を遮断したことが決定的な要因となって、信じられぬ速度で崩壊していった"  というのがニホン人なら誰でも知る事実だ。 その際に南北離散家族や国璽紛失などがあったけどそれはまたいつかね。 超逃げ足速いし
 
 
 
1950年 6月28日韓国戦争のために爆破
1950年 10月:一時的に回復しました、1車線の運行
1958年 5月15日 :漢江人道橋、完全復旧
1982年 2月27日 :漢江大橋の新橋敷設、開通(4車線から8車線への拡張)
 
引用からみれば遠い国のはなしですし漢江に架かっていた橋が当時いくつ残っていたのかという検証作業から話を進めたいと思います。
 
楊花大橋(1965年)漢南大橋(1969年)麻浦大橋(1970年)  
蚕室大橋(1972年)永東大橋(1973年)、チョンホデギョ(1976年)、盤浦大橋(1976年、1982年) 
 
多くの鉄橋が長い混乱と貧困の軍事政権の中で建設されます
 
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聖水大橋(1980年)  言わずとしれた崩落橋として世界中の橋築専門家の間で"コリアンクオリティ"を広めた有名な自立型無差別崩壊の橋
 
ソウルで橋崩落、448人死亡23人けが
漢江・聖水大橋 バスなど転落、大破
1994/10/21
 【ソウル21日=黒田勝弘】ソウルで二十一日朝、市の中心を流れる漢江にかかっている聖水大橋の橋げたが五十メートルにわたって崩れ落ちた。通行中の満員バスや乗用車などが約三十メートル下の川に落下、四十八人が死亡、けがをした二十三人が救助された。水面に落ちた橋げたには市内バス一台が大破してあおむけになり、マイクロバス一台と乗用車四台が乗っかっている。このほかにも、水没したり流されたりした車もかなりあるとみられ、犠牲者はさらに増えるものとみられている。 
 
 聖水大橋は一九七九年に完成し、長さ一千百六十メートル、幅十九メートルの四車線。原因は調査中だが、手抜き工事の可能性が出ている。重量制限を無視した車両の通行などで橋の老朽化が進んでおり、前夜から橋の路面の一部で補修工事が行われていた。  ※ここでも慰霊はしていない
 
 
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当時の新聞は"大韓民国施工の東洋一の橋桁" 
脳内電波とか固有周波数攻撃とか 言わない時代だったようですね
 
 
 
 
セットになるのが三豊百貨店崩落
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三豊百貨店(サムプンひゃっかてん)は、大韓民国ソウル特別市瑞草区にかつて存在した百貨店である。1989年に開店した。
1995年6月29日の営業中午後5時52分(KST)に突然5階建ての建物の半分(正確には前後の一部分を残し)が崩壊し、死者502人・負傷者937名・行方不明者5名という世界的にも例のない大惨事を起こした。その後現場はしばらく空き地のままだったが、現在は高級マンションが建てられている。 
※ここでも慰霊はしていない
 
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ついでに KBブリッジ
 
おはなし脱線しましたよ
城山大橋(1980年) 元暁大橋(1981年)  大橋·銅雀大橋(1984年) オリンピック大橋(1990年)
幸州大橋(1995年) 西江大橋(1999年)  清潭大橋(2001年)加陽大橋(2002年)
ワールドカップ大橋(第2城山大橋)
 
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すっぽり落ちたのは漢江鉄橋   どどぉ~~ん
 
 
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とても飛び降り自殺が多い名所ともなっている 2009年には39人が身を投げているため人道の通行は現在許可されていないとも言われる
 
 
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同じく反対側からみる 多くの浮遊霊がさまよう中で漢江大橋のライトアップは今日も休まず続けられる
ここの手すりの高さは  秘密にしておきます  (ヒント:韓国基準)
 
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無かった歴史として今では多くの韓国人が知らないソウル無血開城とその代償については韓国人がこれから背負っていかなくてはならない歴史的贖罪だ。
 
 
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これが全部写真に写り込んだ人影だとしたら