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嫌韓(いやかん)ってホントはどうなの?

征韓論の主張もみてみる

 
 
征韓論:日本政府内で明治維新初期に台頭した朝鮮侵略論だ。
 
[幕末ミーナ] 朝鮮を武力侵攻するという侵略的膨張論で徳川[徳川]時代にも提起されたが、1868年の明治維新を前後して本格的に提起された。これらは王政復古と尊王壌夷を主張して豊臣秀吉の偉業を継承して大陸を攻略しなければなければならないと主張した。また、1867年3月初め九州出身の日本人らが香港に滞留しながら中国、広東省で発刊される<中外新聞>エ"朝鮮国王が5年に1回ずつ江戸に行って大軍を謁見して、貢ぎ物を捧げることが古くから礼儀だが朝鮮国王がこのような例をやめて古くなるので日本が軍艦80隻を購入して軍隊を起こして造船国を征討する意向を有している"という征韓論説を主張する記事を出して、中国は朝鮮に気を付けろとの警告を送った。
 
一方朝鮮では大院君(テウォングン)が1863年政権を掌握した後、従来の狡猾な外交政策を止めて日本とも一脈相通じるとし斥邪斥洋と外交を展開した。
特に1866年丙寅洋擾の時フランスの侵略をはね除けた後チョック・ヤンジョン策をより一層推進しながら内政に対しては従来とともに事大の例を守ってきずなを強化して、日本に対しては明治維新以後より一層排斥した。
しかし日本は明治維新以後朝鮮との新しい関係確立のために対馬州を通じて大したこと貸借社を派遣して書契とユ・シンジョン香典(富の)国書を釜山(プサン)の朝鮮官員に伝えた。
しかし朝鮮側は夜盗の侵攻説に対する解明を要求して丙寅洋擾以後国史(国事)が多忙で病気が流行という理由で入国を断った。さらに日本の西界(ソゲ)に'亜房皇帝'(我邦皇帝)という文面と新しい印鑑でとったことに対して是正を要求した。
 
1869年
1869年初めころのニホンは代わりに三条と岩倉に"朝鮮を征伐すれば日本の国威が世界にとどろかせられる、国内の人心を国外へ向かうようにすることができる"として征韓論を主張した。また、対馬逃走朝鮮外交失敗の責任を転嫁させて、朝鮮外交交渉権限を回収するために外交の実況を調査しに倭館(ウェグァン)に派遣した誰かさんは帰国報告で征韓論の具体的建白書を政府に提出しながら、"朝鮮は不倶戴天の敵で必ず征伐するべきで征伐しなければ天皇の威厳が立たない。30個大隊の病歴だけ動員すればはい道に分けて攻撃して50日内に征服が可能だ。今フランスと米国が朝鮮侵攻を計画してロシアが虎視耽々するのに日本が優柔不断ならば機会を失うだろう。財政面でも軍事費は50日以内回収が可能で、朝鮮は米・麦など穀物が豊富で朝鮮人を北海道開拓史業に転用すれば一挙両得だ"として直ちに出兵を主張した. 出兵案が出てくるとすぐに兵部大宝木村などの同調を得た企画(祈祷)は"軍隊・艦船・軍需物資・機械をあらかじめ準備して緩急に備えてこそする。"という建白書を政府に提出したし、7月外務大勝柳原は"北は満州に淡くて、からは青果接している朝鮮を私たちの領域で作れば皇国保全の基礎として将来万国経略進取の基本になる。もし他の国に選手を奪われれば国事はこれに対し終わる。"として朝鮮占領を主張した。
現職外務大臣である丸山はその出兵論に公明で同志たちを糾合して1870年12月"朝鮮国は皇国のための重要な土地として今手を使わなければ必ず他の国が征服するだろう。今時を失わないで速く軍隊を出動させて侵攻すれば必ず球を成し遂げることで、朝鮮が文明開化した後にはとうてい征伐できないだろう"といって自ら総指揮官になって決死隊を募集して12月中に単独で朝鮮に侵入しようとすることがあった。 しかしこの頃は日本国内が不安な時ゆえに参議オオクボなどは国内問題を先結露して反対した。しかし日本外務省は朝鮮出兵を予想した準備を進めた。特に朝鮮侵略に対する清国の干渉を防ぐために1870年8月派遣した柳原が清国直隷総督李鴻章と会談して翌年4月大蔵経ダテが全権大使として清国代表イ・ホンジャンと‘日清守護条規上程海関細則’を調印した.
 
1870年
1870年日本外務省では正式に外務小乗である吉岡を使節で釜山(プサン)に派遣したが釜山(プサン)なぜ鶴訓導アン・ドンジュンは"我が国とのすべての交渉は牛を通じて正式経路を通じてくること"を要求して断った。国交正常化が膠着状態におちいるとすぐに困るようになったツシマ逃走は解決策を講じて、1870年5月上旬から求礼の方法を取る妥協案を出してある程度妥結になるようだった。しかし駐日ドイツ代理公使ブラントが外交交渉のために軍艦を率いて釜山(プサン)に入港して拒絶されるとすぐに恐怖で威嚇した事件が発生したが、その船に歴官など日本人が同乗した事実が明らかになって朝鮮では反日感情が激しくなった。
 
1871年7月日本は400余年間朝鮮との外交を専門担当した対馬宋氏の三級職権を剥奪して代わりに外務大勝に任命して朝鮮との修交を掌握するようにした。日本ではこの事実を朝鮮側に知らせるために外務権小乗吉岡、外務大禄モリヤマなどが11月3日釜山(プサン)、倭館(ウェグァン)にきて面談を要請したが拒絶された。
 
1872年 
1872年1月モリヤマ、ヒロス、外務省シップなど出仕サガラなどが倭館(ウェグァン)に到着して西界(ソゲ)を伝達することを求めたが、やはり許諾されなかった。するとこの年5月20日サガラは倭館(ウェグァン)の倭人は規定された地域を抜け出すことができなくて手続きを踏まなくては副詞に会うことができないという規定を抜け出して倭館(ウェグァン)駐在役人たちを導いて東莱(トンネ)部に集まっていって副詞を面接しようとした。この時、東莱(トンネ)副詞チョン・ヒョンドクはこれらを叱責して倭館(ウェグァン)に戻るようにして、彼らは倭館(ウェグァン)に留まった者を全部連れて日本に戻った. が当時日本官民ではこの機会を利用して好戦的な封建軍閥と新興資本主義勢力を先頭に押し立てて大陸進出の侵略政策を主張する無理が有力に台頭したし、これらは朝鮮が新しい西界(ソゲ)を受け入れないのは外交交渉を冷遇する処置だと征韓論も辞さないという態度を固めていた.
 
征韓論が日本官民に広まっている頃明治維新を積極的に支持してきた薩摩軍閥の巨頭で明治政府の参議である買っておよび板垣、外務頃牛江島などが征韓論に加担した。日本政府が征韓論により強硬な談判のために1872年9月外務大勝ハナ副詞を派遣したが、これといった収穫なしで戻った。この時、釜山(プサン)一帯で三井系統の商人による密貿易および闇取り引きが盛んに行われるとすぐに東莱(トンネ)部官憲はこれらを取り締まったが、釜山(プサン)駐在日本官憲ヒロスがこの事実を日本政府に詳細に報告するにつれ日本官民では征韓論がより一層高まって直ちに断行することを要求した。 そして1873年牛江島などをチョンに派遣して外交交渉をした結果、チョンは朝鮮内政に干渉しないという確約を受け取った後征韓論は絶頂に上がった。当時右の代わりに岩倉一行がヨーロッパ視察中の関係で買って・だがキーなどが政権を掌握していたが、これらは大兵力の動員を主張して直ちに出兵を主張した。特に間とはまず自分が大使として交渉を試みて交渉に失敗すれば出兵することを主張するにつれ8月に派遣されることに決定された. しかしその年9月欧米諸国の発達した資本主義と近代国家を見て帰国した岩倉、オオクボ、伊藤博文などは日本国力はまだ微弱なので内政を忠実にすることが急務とし征韓論は時期尚早だと主張した。この二つの不毛の論争は10月24日シギサンジョパの勝利で終わって勅令で朝鮮出兵は無期延期されて、間高をはじめとする精悍論者は辞表を出して退いた. 征韓論が一段落した中で朝鮮では1873年11月5日チョック倭政策の最高責任者である大院君(テウォングン)が退いて高宗(コジョン)が親征して鎖国政策に変化をもたらすことになった。日本は1874年朝鮮侵略の代わりにたやすい台湾を侵略したし,続いて翌年朝鮮に対してウンヨウ号事件を起こすことによって征韓論を再登場させて武力威嚇で朝鮮を開港するようにすることを決めて結局朝鮮の開港を貫徹した。
 
イメージ 1
江華島事件あるいはウンヨン号事件っていうのが1975年に起こりました
 
 
征韓論は日本の大陸膨張政策だけでなく日本国内事情とも密接な関係があった。彼らは欧米列強をまねて朝鮮を侵攻して列強に国力を誇示することによって自身を欧米列強と結んでいる不平等条約を改正する手段としようと思ったし、明治維新後で排出された不平士族を外地戦場に送って不満をなだめて、朝鮮侵略で国民の関心を外で傾くようにすると同時に朝鮮の資源を日本で搬出しようと思った。当時精悍論者と非精悍論者は政治的利害関係と時期により変わっただけ本質的には全く同じ侵略膨張主義者などだった。後に本当にあるローンを囲んだ支配階級内部の葛藤は西南戦争の原因になった。
 
(おはようみそっち)
 


 
清国の李鴻章っていう人がさっそく出てきちゃうんですね、このひとは日清戦争で負けちゃった将軍さんなんですが実はそのころの朝鮮(李氏朝鮮)の直隷総督でもあったようです それってニホンが手出しする前の段階からそうだったんですか。
やがて朝鮮国内では農民の反乱がひろがって東学党の乱が原因となって日清戦争になるんですがニホンと清国に泣きついた朝鮮は混迷をきわめて自滅する歴史へと進んでいくのかと思ったら日清戦争までは18年もかかってるんです、ずいぶん気の長いお話じゃないですか おしまい